韓非子 外儲説 左下

一、
罪を犯して罰を受けるならば、人はお上を怨まない。
ゆえに跀危は子皐を生かした。
功をあげて賞を受けるならば、臣は君主に恩義を感じない。
だから翟璜は証文を手にして軒に乗った。

魏の襄王は賞の与え方をよく分かっていなかったので、昭卯は五乗の禄を受けながら藁草履を履いているようだと言った。お上が臣下を任ずるに誤りがなければ、臣下は能力をごまかさず、臣下はかの少室周のようであろう。


二、
明君は権勢に頼り、信義に頼らない。
故に東郭牙は管仲を批判した。
明君は術に頼り、信義に頼らない。
故に渾軒は文公を誹った。
故に法術の士は、信賞によって臣下に能力を尽くさせ、必罰によって姦邪を禁じる。

人によってその言行に善し悪しはあるが、必ず利となるところを用いる。
故に趙簡主は陽虎を家宰にし、魯の哀公は孔子に一足のことを問うた。


三、
君臣の間の道理を忘れると、周の文王は自分で履物をなおすということになる。
朝廷でのときと居室でのくつろぎのときも変わらずにいると、魯の季孫は一生謹厳にしていたのに賊にあったということになる。


四、
君主が、禁じるべきことを禁じずに利益があると思い、利益があることを禁じるならば、神といえどもうまくいかないだろう。
罰すべきことを誉め、賞すべきことを謗るならば、堯といえどもうまく治めることができないだろう。

もし門を建てても入らせず、利益を見せておきながら進ませないなら、乱が生じる原因となる。
斉侯が左右の近臣の取次を聴かず、魏主が推薦者に取り合わず、明察で群臣を見分けるならば、鉅は金銭を使わず、孱は玉壁を用いなかっただろう。
西門豹は再び鄴を治めたいと願った話によって、これを知るに充分である。
そして狗盗の子が皮衣の尾を誇り、跀危の子が袴が立派なのを自慢することと同じである。
また、子綽の、左右の手で画くことや、蟻を追い蝿を払う、ということがある。
どうして、桓公が臣下が官職を求めることを憂いたことや、宣王が役人が馬を痩せさせることを心配せずにいられようか。


五、
臣下が謙遜で質素であることによって善行だとするのは、爵禄によって勧奨するには及ばない。
君主が臣下を寵愛し栄光を与えることに節度がなくなると、臣下が君主の地位を侵し圧迫するだろう。
その例は、苗賁皇が獻伯を誹った話、孔子が晏嬰を批判した話がある。

故に仲尼は管仲と孫叔敖とを論じて、出入の状態が異なると言った。
陽虎がその臣下を君主に推薦したことを言ったときに、簡主が臣下に答えたことは、君主の術を忘れたものである。
徒党を組んで互いに結束を固め、臣下が欲を得るときは、君主は孤立する。
群臣が公の心で賢人を推挙し、徒党を組んで互いに結束しないときは、君主は耳目を塞がれずものごとを見分けることができる。
陽虎が趙武の賢人ぶりを、解狐が公正に裁こうとしたのに、簡主は棘を植えたようなものだと言ったことは、国に対して教えるようなことではないだろう。


六、
公室の権力が弱くなると、臣下の直言を忌み嫌い、臣民の私的なふるまいが横行すると、公のための功が少なくなる。

その例証は、晋の范文子が直言をして、武子が杖で打ったこと、鄭の子産が忠諫し、子国がそれを怒ったこと、などがある。
また、趙の梁車は法を守ったために、成侯はその職を解いたこと、管仲は公正であったために国人はこれを怨んだこと、などがある。


右は経である。



一、
孔子が衛で宰相になったとき、弟子の子皐が裁判官となり、罪人を足切りの刑に処した。
その足切りの刑となった者は都の門番となった。

ある人で孔子を衛君に謗る者がいた。
言うには、仲尼は反乱を起こそうとしております、と。
衛君は孔子を捕らえようとした。

孔子は逃げ、弟子もみな逃れた。
子皐が遅れて都の門から出ようとした。
すると、かの足切りの刑に処された門番が子皐を手引きして、門の地下室へ隠れさせた。
役人が追ってきたが見つけられなかった。

夜更けに子皐がその門番に問うた。
私は法を曲げることができぬゆえ、私はそなたの足を切った。
今こそそなたはその仇に報いる時であろう。
それなのに、そなたはどうして私を逃がそうとするのかね。
私はどうしてそなたにこのようにしてもらえるのかね、と。

足切りの門番は言った。
私が足を切られたのは、もとより私の犯した罪に、法が相当していたからで、どうしようもありません。
しかしあなたは私の罪を正しく裁こうとして、法令を熟読熟慮なさり、私の申し上げることにお言葉を補われ、私が罪を免れることができないかとお考えいただいたこと、大変なものでございました。
私はそれをよく存じております。
裁判が決まり罪が確定しますと、あなたは傷ましそうにして気分が晴れず、お顔にそれが表れており、私はこれもまたよく分かりました。
あなたは私に私的な感情でそうなさったのではなく、天性として仁愛の心をお持ちであったからです。
これが私が悦んであなたを敬愛する理由なのです、と。



田子方が斉から魏へ行った。
途中、翟黄が軒に乗り、騎馬兵を従えて出てくるのを遠くから見て、魏の文公だろうと思った。
そこで車を別の路に移して避けたのに、それは何ということはない、翟黄だった。

方は問うた。
そなたはどうしてこの車に乗っているのかね、と。

翟黄は言った。
ご主君は中山を伐とうと計画をたてなさったので、私は翟角を推挙しましたところ、翟角の計謀が用いられました。
いよいよ中山を伐つ段階になると、私は楽羊を推挙し、中山は陥落しました。
ご主君が中山を得て、これをどう治めようかと心配なさるので、私は李克を推挙し、中山はうまく治まりました。
これによって、ご主君にこの車を賜ったのです、と。

方は言った。
この者の実際の功績に比べたら、軒を賜ったくらいではまだまだ少ない、と。



秦と韓が魏を攻めようとした。
そこで昭卯は西へ赴き説いて秦と韓の軍をやめさせた。

斉と楚が魏を攻めようとした。
昭卯は東へ赴き説いて斉と楚の軍をやめさせた。

魏の襄王は昭卯を五乗将軍に任じ、養った。
昭卯は言った。
伯夷が将軍の位で首陽山のふもとに葬られたとしたら、天下の人は言ったでしょう。
伯夷ほどの賢智と仁徳を備えており、称えられているのに、将軍の位で葬られたのでは、その手足さえも掩うに足りないでしょう、と。
今、私は四国の兵をやめさせたのです。
それなのに王は私に五乗を与えただけです。
こては私の功績に比べたら、大儲けをしたのになお藁草履を履いているようなものです、と。



孔子が言った。
優れた官吏は民に徳を植えつけ、優れた官吏になれない者は民に怨みを植えつける。
槩は、ますに入れた穀物を平らにするものであり、官吏は法を公平にするものである。
国を治める者は公平を失ってはならない、と。



少室周は昔の清廉潔白な者である。
趙襄主の侍衛となった。
あるとき中牟の徐子と力比べをして、敵わなかった。
そこで、宮殿に入ってこのことを趙襄主に、自分と代わりたいと言った。

趙襄主は言った。
そなたの地位は誰もが望むものである。
それなのにどうして徐子を推挙して自分と代わろうとするのか、と。

周は言った。
私はこの力をもってご主君にお仕えしております。
今、徐子の力は私より強いのですから、私が徐子と代わらなければ、おそらく他人がこのことを申し立てて非難するでしょう、と。


また一説にはこうある。
少室周は趙襄主の驂乗となり、晋陽へ行った。
すると、そこに力士の牛子耕という者がいた。
周は共に力比べをして勝てなかった。

周は君主に言った。
ご主君が私を驂乗とした理由は、私の力が強いからです。
今、私より力の強い者がおりました。願わくば、この者を推挙したいのです、と。



二、
斉の桓公が管仲を取り立てようとした。
群臣に命令して言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにする。
賛成する者は門の左へ、さんせいしない者は門の右へ移動せよ、と。
すると東郭牙は、門の正面に立った。

桓公は言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにすると命令して言った。
賛成する者は左に、賛成しない者は右に移動せよ、と。
今、そなたはどうそて門の正面に立つのか、と。

牙が言った。
管仲の智恵で天下を平定できるとお思いか、と。
桓公は言った。できるだろう、と。

その決断力で国の大事を成すことができましょうか、と。
桓公は言った。そうするだろう、と。

牙は言った。
もしその智恵は天下を平定でき、その決断力は大事を成すことができ、そのためにご主君はこの者に国の権勢を与えて、管仲がその能力をご主君の権勢に乗せて、斉国を治めてゆくとしたら、危険なことは無いと言えましょうか、と。

桓公は言った。よろしい、と。
そこで隰朋に内政をさせ、管仲に外交をさせて、互いに意見を交わせるようにした。



晋の文公が亡命していたとき、箕鄭は食べ物を入れた壺を提げて従っていた。
あるとき、道に迷って、文公とはぐれてしまった。
飢えて道すがら泣きたくなり、とても腹が減ったが、耐えて壺の食べ物に手を出さなかった。

文公が国に帰ったあと、兵を挙げて原を攻めて落とした。
文公は言った。
あの者は容易く飢えの苦しみを耐え忍び、壺の食べ物に手を出さなかった。
きっと原を任せても反かないだろう、と。
そこで箕鄭を挙げて原の長官に任じた。

大夫の渾軒がこれを聞いて、誤りだとして言った。
壺の食べ物に手を出さなかったという理由で、原を任せても反かないと思うのは、何とも術がないではないか。
すなわち明主は臣が己に反かないことを頼りとせず、臣が己に反けないないように備えることを頼りとするものである。
臣が己を欺かないことを頼りとせず、臣が己を欺けぬように備えることを頼りとするものである、と。



陽虎の論説に言う。
君主が賢明なら臣下は心を尽くしてこれに仕え、不肖ならば姦悪を隠して君主を試すのだ、と。
陽虎は魯を追われて、斉に疑われ、逃げて趙へ行った。
趙簡主はこれを迎えて宰相にした。

左右の近臣が言った。
陽虎は国の政権を盗みとるのがうまいと聞きます。
どうして宰相になどなさるのですか、と。

趙簡主は言った。
陽虎は政権を盗みとることに務め、私は政権を守るこよに務める。
私が先に守っていれば、彼は利を得ることができないだろう、と。

そのまま術を用いて陽虎を統御した。
陽虎はあえて悪事をなさず、善良によって趙簡主に仕え、趙簡主の権勢を強めた。
こうしてほとんど覇者となるほどに強くなった。



魯の哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
昔、夔という者がいて、もともと片足だけであった、と。
それは果たして本当に片足だけの者だったということがあるだろうか、と。

孔子は答えて言った。
いいえ、夔は片足だったのではございません。
夔はひねくれ者で害悪の心を抱き、人々の多くはこれを喜びませんでした。
それでも夔が人からの害を免れることができたのは、夔が信であったからです。
人は皆言いました。
ただこの信ひとつで足りる、と。
夔は片足だったのではございません。
信ひとつで足りたということなのです、と。

哀公は言った。
確かにそのように信であれば足りるであろうな、と。


一説にはこうある。
哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
夔は片足であった、と。
これは本当かね、と。

孔子は答えた。
夔は人間です。
どうして足が一本だけだったりしましょうか。
夔は他の者と変わったところはございませんでしたが、ただ音楽に通じておりました。
堯は言いました。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
そして楽正として用いました。
ゆえに君子は言うのです。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
片足だったのではございません、と。



三、
周の文王が崇を伐った。
鳳黄の都の跡地に来たとき、足袋の紐が解けたので、自分で結びなおした。

太公望が言った。
何故ご自身でなさるのか、と。

文王は言った。
君主に仕える者に、上の臣は皆、君主の師であり、中の臣は皆、君主の友であり、下の臣は皆、君主の使用人である。
今、臣は皆、先君からの臣である。
ゆえにこのようなことで使うことなどできない、と。


一説にはこうある。
晋の文公が楚と戦った。
黄鳳の陵に来たとき、履物の紐が解けたので、自分で結びなおした。

左右の近臣が言った。
人を使ってはいけないのですか、と。

文公は言った。
私は聞いている。
上君と共に居る臣は皆、君主の畏敬する者であり、中君と共に居る臣は皆、君主の愛する者であり、下君と共に居る臣は皆、君主の侮る者である、と。
私は不肖であるとはいえ、先君からの臣がみな仕えてくれているので、このようなことをさせるのを憚るのだ、と。



魯の季孫は士を好み、生涯礼儀正しく、私室にいるときも衣服は常に朝廷にいるときのようであった。
しかし季孫がたまたま怠り、過失があって長く礼をなすことができなかったので、客たちは自分を嫌い軽んじているのだと思い、互いに季孫を怨み、とうとう季孫を殺してしまった。
ゆえに君子はやりすぎることを避ける。

斉の南宮敬子が顔涿聚に問うた。
季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服で客に会うこと、数十人に及んだ。
しかし賊に害されたのは何故であろうか、と。

答えて言った。
昔、周の成王は道化や侏儒を傍に置き、好き勝手にふるまっていましたが、物事は君子と相談して決めました。
これが欲を天下になすということです。
今、季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服を身につけて会う者が数十人に及んでも、道化や侏儒と物事を決めたので、賊に害されたのです。
ゆえに、こう言うのです。
重要なのは誰と一緒にいるか、ではなく、誰と一緒に謀るかである、と。



孔子が魯の哀公に侍って坐していた。
哀公が孔子に桃と黍を賜った。
哀公はそれを食べるように促した。
仲尼はまず黍を食べてから桃を食べた。
左右の近臣は皆、口を覆って笑った。

哀公は言った。
黍は食べるものではなく、桃の毛を拭うためのものだ、と。

仲尼は答えて言った。
丘もそれを存じております。
かの黍は五穀の第一であり、先王を祭るときの最上の供物です。
草木の実は六つあって、桃は下級であり、先王を祭るときに廟に入れることはできません。
丘はこう聞いております。
君子は賤しいもので貴いものを拭う、と。
しかし、貴いもので賤しいものを拭う、とは聞いておりません。
今、五穀の長である黍で、草木の実の下級なものを拭うということは、上で下を拭うことになります。
丘は、これは義を妨げるものだと思いましたので、あえて宗廟の供物である黍に桃が先んじないようにしたのでございます、と。



趙簡主が左右の近臣に言った。
車の敷物が立派すぎる。
そもそも冠は粗末であっても必ず頭に乗せる。
靴は高価であっても必ず足に履くものである。
今、車の敷物はこのように立派すぎる。
私はいったいどんな高価な靴でこれを踏めばいいのだろうか。
下を立派にしすぎて上を損耗するというのでは、正道を害する原因である、と。



費仲が紂に説いた。
西伯昌は賢人です。
人民は皆これを悦び、諸侯がこれに味方しております。
誅伐せねばなりません。
誅伐せねば、必ず殷の憂いとなりましょう、と。

紂は言った。
そなたの言う通りであれば道を心得た者であろう。
どうして誅伐することができようか、と。

費仲は言った。
冠は古びて穴が空いても必ず頭に乗せ、靴は五色で飾り立てられていても必ず地面を踏みつけます。
今、西伯昌は臣下の身です。
正道を修めて人心を集めております。
ついには天下の憂いとなるとすれば、それは必ず昌でしょう。
そもそも人々がその賢人たるをもって主に戴こうとしているのですから、誅伐せぬわけにはいきません。
かつ、君主が臣下を誅伐するのです。
どうして誤りがありましょうか、と。

紂は言った。
かの仁義というものは、上が下に対して推奨するものである。
今、昌は仁義を好む者であるのに、これを誅伐することなどできない、と。

費仲は三たび説き諫めたが聴き入れなかった。
ゆえに紂は亡んだ。



斉の宣王が匡倩に問うた。
儒者でも賭博をするのか、と。
答えた。いいえ。
王は言った。どうしてか、と。

匡倩は答えて言った。
賭博は梟という駒を大切にします。
しかし賭博で勝つには必ず相手の梟を殺さねばなりません。
梟を殺すということは、大切にしているものを殺すということになります。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに賭博はしないのです、と。

また問うた。
儒者は弋をするのか、と。
言った。いいえ。

弋は下から上にいる鳥を射て害するものです。
これは臣下が君主を傷つけるようなものです。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに弋はしないのです。

また問うた。
儒者は瑟を奏でるのか、と。
言った。いいえ。

かの瑟というものは小絃で大きな音を出し、大絃で小さな音を出します。
これは大小の順序をかえることになり、貴賤の位をかえることに通じます。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに瑟を奏でません、と。

宣王は言った。よくわかった、と。



仲尼は言った。
民を大臣に諂わせるよりは、むしろ民を君主に諂わせる方がましだ、と。



四、
詎は斉の処士であり、孱は魏の処士である。
斉、魏の君主が明察ではなかったために、自分で国内を見渡すことができず、左右の近臣の言葉を聴き入れた。
ゆえに二人は黄金や宝玉を使って朝廷に入り仕えようとした。



魏の西門豹は鄴の長官となった。
清廉で私欲なく潔白で実直であり、わずかも私利を計らなかった。
そして魏君の左右の近臣を軽んじた。
そこで左右の近臣たちは互いに徒党を組んで西門豹を憎んだ。

その後一年が経ち、会計を報告しに参朝した。
すると魏君は西門豹の官印を召し上げて解任した。

西門豹はみずから願い出て言った。
私はこれまで鄴の治め方を知りませんでした。
今、心得ました。
願わくば官印をたまわり、再び鄴を治めたく存じます。
もしうまくいきませんでしたなら、斧斬りの刑に服します、と。

魏の文侯は気の毒に思って再び西門豹に官印を与えた。

そこで西門豹は民から重税を取り立て、しきりに左右の近臣に賄賂を贈ってご機嫌伺いをした。

一年が経ち会計の報告をした。
文侯はこれを迎えて拝礼した。

西門豹は答えて言った。
私はご主君のために鄴を治めましたが、ご主君は私から官印を取り上げなさいました。
今、私は左右の近臣のために鄴を治めましたのに、ご主君は私に拝礼してお迎えになりました。
これでは私は鄴を治めることなどできません、と。

そのまま官印を返納して立ち去ろうとした。
文侯は受け取らずに言った。
私はこれまでそなたのことをよく知らなかった。
今、知ったのだ。
願わくばそなたは一層私のために鄴を治めてくれまいか、と。
そのまま官印を受け取らずに西門豹に戻した。



斉に狗盗の子と刖危の子がいて、戯れて父の自慢をし合った。
狗盗の子は言った。
我が父の皮衣には尻尾が付いているんだぞ、と。
刖危の子は言った。
我が父の袴は夏も冬も立派なんだぞ、と。



子綽は言った。
左手で方形を画きながら、右手で円形を画くことができる者はいない。
肉を置いて蟻を追い払おうとすれば、蟻はますます多く集まり、魚を置いて蝿を追い払おうとすれば、蝿はますます寄ってくるだろう、と。



斉の桓公が管仲に言った。
官職の数は少ないのに、それを望む者は多い。
私はこれを心配している、と。

管仲は言った。
ご主君が左右の近臣の取りなしを聴き入れず、臣下の能力によって俸禄を授け、功績を記録しておいて官職を与えれば、むやみに官職を望む者はいなくなりましょう。
ご主君、ご心配には及びません、と。



韓宣子は言った。
私の馬には豆も粟も多く与えている。
しかしとても痩せているのは何故だろうか。
私はこれを心配しているのだ、と。

周巿が答えて言った。
馬番に粟を馬に好きなだけ食べさせたなら、肥えさせまいとしても、かなわぬでしょう。
表向きは多く与えていると言うものの、実際は少ししか与えていないのでしょう。
痩せさせないようにしても、かなわぬでしょう。
ご主君は、その実情をよくお調べなさらずに、座してこれを心配しても、馬は肥えないでしょう、と。



斉の桓公が官吏を取り立てることについて管仲に問うた。
管仲は言った。
人の弁説をはっきり聴き分け、財貨に対して清廉潔白で、人情を理解している、という点で私、夷吾は弦商には及びませぬ。
これを取り立てて裁判の長官とするのがよろしいでしょう。

登降の作法や敬礼の作法を心得、礼儀に通じて他国の賓客をもてなすという点で、私は隰朋には及びませぬ。
これを取り立てて外交の長官とするのがよろしいでしょう。

草むらを切り拓き邑を造り、地を開拓して穀物を作る、という点で、私は寧武には及びませぬ。
これを取り立てて農政の長官とするのがよろしいでしょう。

三軍がすでに陣を構え、士卒に死は故郷に帰るかのごとく思わせる、という点で、私は公子成父には及びませぬ。
これを取り立てて大将軍とするのがよろしいでしょう。

ご主君の顔色に逆らっても強く諫言する、という点で、私は東郭牙には及びませぬ。
これを取り立てて諫臣とするのがよろしいでしょう。

斉を治めるにおいて、この五人を用いれば充分足ります。
ご主君が天下の覇王たらんとお望みであれば、私、夷吾がここにおります、と。




五、
孟獻伯は魯の宰相であった。
堂の下にはあかざや豆の葉が生え、門の外にはいばらが伸びていた。
食事のときは違う味のものはなく、坐るときは敷物を重ねず、家の妾で絹織物を着る者はなく、国にいるときには馬に粟を与えず、国を出るときには車を従えなかった。

叔向はこれを聞いて、苗賁皇に告げた。
賁皇はこれを良しとせず言った。
これは君主から爵禄を放り出して、下を手懐けているのです、と。


一説にはこうある。
孟獻伯が魯の上卿に任ぜられた。
叔向が祝賀するために出向いた。
すると、門に馬が繋がれていたが、麦や粟を食ってはいなかった。

叔向は言った。
あなたの副馬と副車がないのはどうしてですか、と。

獻伯は言った。
私が国中の人を見ると、まだ飢えた顔色をした者がおりました。
ですから馬に麦や粟を与えていないのです。
白髪混じりの歳になっても徒歩の者が多いので、副車を付けないのです、と。

叔向は言った。
私は始め、あなたが上卿に任ぜられたのをお祝い申し上げるために参ったのですが、今はあなたの倹約にお祝い申し上げます、と。

叔向は獻伯の家を出てから苗賁皇に語った。
私に賛成して孟獻伯の倹約をお祝いなされ、と。

苗賁皇は言った。
どうして祝うことなどありましょうか。
そもそも爵禄や旗や紋章は功績によって区別し、賢人か不肖かを分けるためのものです。
ゆえに晋国の法に、上大夫には車二つに馬二組、中大夫には車二つに馬一組、下大夫は車一つに馬一組、と定めておるのは、身分の等級を明らかにするためです。
かつ、かの卿には必ず軍役があります。
このために車や馬を整え、車の士卒や徒卒をそろえ、戦に備えます。
国の難事には万一に備え、平時には政治に務めるのです。
今、その国の政治を乱し、万一の備えも乏しくし、それで節約、倹約を成し遂げて、自分の名声を美しくする。
孟獻伯の倹約はよろしいが、それでどうして祝賀などできましょうか、と。



管仲は斉の宰相になった。
桓公に申した。
私は地位を貴くしていただきました。
しかしまだ私は貧しいのです、と。
桓公は言った。
そなたに三百乗の地を与えよう、と。

管仲は言った。
私は富ませていただきました。
しかしまだ私は家柄が卑しいのです、と。
桓公は、管仲を高氏、国氏よりも上とした。

管仲は言った。
私は家柄を尊くしていただきました。
しかしまだ私は公室に疎遠なのです、と。
そこで桓公は管仲を仲父と呼ぶことにした。

孔子はこれを聞いて非難して言った。
増長して君主を圧迫しておる、と。


一説にはこうある。
管仲父は外に出るときには車に朱塗りの傘を立て、青衣を従え、音楽を奏でさせながら食事をし、庭には鼎を飾り、三百乗の地を持っていた。

孔子は言った。
管仲は優れた大臣だったが、その増長ぶりは君主を圧迫しておる、と。



孫叔敖は楚の宰相になった。
一般の兵卒の乗る牝馬の引く車に乗り、粗づきの飯と菜葉や汁、乾燥させた魚を食べ、冬は羊の皮衣、夏は葛衣を着て、飢えた顔色をしていた。
孫叔敖は優れた大臣である。
しかしその倹約ぶりは下を圧迫する。



陽虎が斉を去って趙に逃げた。
趙簡主が問うた。
私は聞いている。
そなたは人を適切に推挙することができる、と。

陽虎は言った。
私が魯におりましたとき、三人を推挙したところ、皆宰相となりました。私が魯で罪人となると、皆が私を捜索しました。
私が斉におりましたとき、三人を推挙したところ、一人は王の側近となり、一人は県令となり、一人は候吏となりました。
私が斉で罪人となると、王の側近となった者は私に会わず、県令は私を待ち構えて捕縛しようとし、候吏は私を追いかけて国境まで来て、私に追いつけずに止まりました。
私は人を推挙することがうまくはありません、と。

趙簡主は腹を抱えて笑って言った。
橘や柚を植える者は、これを食うときになれば甘く、これを嗅げば良い香りがする。
枳や棘を植える者は、それが育ってしまえば人を刺す。
ゆえに君子は人を立てるときには慎重に行うのだ、と。



晋の中牟の長官に欠員が出た。
晋の平公は趙武に問うた。
中牟は我が国にとって股や肱のようであり、邯鄲にとって肩や股のような、要地である。
私はそこに優れた長官を立てたいと思う。
誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
邢伯の子がよろしいでしょう、と。

平公は言った。
邢伯はそなたの仇ではないか、と。

趙武は言った。
私的な仇は朝廷に持ち込みません、と。

平公はまた問うた。
中府の長官は、誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
私の子がよろしいでしょう、と。

だから言うのだ。
他人を推挙するときは仇でもかまわず、身内を推挙するときは我が子でもかまわない、と。



晋の趙武が君主に人を推挙すること四十六人に及んだ。
趙武が死んだとき、その人々は皆弔問客として弔った。
趙武が私恩を売らなかったことは、この通りである。

平公は叔向に問うた。
群臣の中で誰が最も賢人であろうか、と。
叔向は言った。趙武です、と。

平公は言った。
そなたは自分の長官だから贔屓しているのであろう、と。

叔向は言った。
趙武は立ち姿は衣服にも堪えないほど弱々しく、言葉は口から出ないかのように口下手です。
しかし推挙した士は数十人、皆が満足して働いております。
そして朝廷もこの者たちに大変頼っております。
武子が生きておりましたときは、自分の家に利を計らず、死ぬときには残される子のことを人に託しませんでした。
だから私はあえて趙武を賢人だと申したのです、と。



趙の解孤は自分の仇を趙簡主に推挙して宰相にした。
その仇は思った。
推挙してくれただけでなく自分は解孤に許されたのだ、と。
そこで解孤のところへ行って拝礼して感謝した。

すると解孤は弓を引き、追いかけて矢を射て言った。
かのそなたを推挙したのは公事である。
そなたが宰相に相応しいと思ったからである。
かのそなたを仇だとするのは私の私怨である。
私の私怨のために、そなたを我が君に隠したりはしない、と。
ゆえに私怨は公事に持ち込まず、と言うのである。


一説にはこうある。
解孤は邢伯柳を推挙して上党の長官にさせた。
柳が出向いて礼を述べて言った。
あなたは私の罪を許してくださった。
それを再拝の礼を尽くさないわけには参りません、と。

解孤は言った。
そなたを推挙したのは公事のためである。
そなたを怨むのは私事である。
去れ、そなたを怨む気持ちは前と変わらないのだ、と。



鄭県の人が豚を売っていた。
ある人がその価を問うた。
答えて言うには、帰りの道は遠く、日も暮れてきました。
どうしてあなたと話をする暇がありましょうや、と。



六、
晋の范文子は直言することを好んだ。
父の武子がこれを杖で打った。
言うには、直言する者は、人々に受け入れられ難く、受け入れられなければ己の身を危うくし、しかもただ己の身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくなるのだぞ、と。



鄭の子産は子国の子である。
子産は鄭君に忠実であった。

子国はこれを責めて怒って言った。
臣下の中で己だけが特異に君主に忠実である場合、君主が賢明であればそなたの忠言を聴き入れようが、賢明でなければそなたの忠言を聴き入れぬであろう。
聴き入れられるかどうかは、必ずしもまだ分からないのに、そなたはすでに群臣から孤立しようとしている。
群臣から孤立すれば、必ずそなたの身を危うくするだろう。
それはただそなたの身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくするだろう、と。



趙の梁車が新たに鄴の長官となった。
その姉が行って会おうとした。
しかし日が暮れて遅くなり、城門が閉じられてしまった。
そこで姉は城壁を乗り越えて入った。
梁車はすぐに足斬りの刑にした。
趙の成侯は梁車を不慈悲だと思い、官印を召し上げて長官の職を罷免した。



斉の管仲が捕縛され、魯から斉に送られた。
道の途中で腹が減り、綺烏の関所の番人のところへ寄って食べ物を乞うた。
番人は跪いて管仲に食事を与え、非常に丁重に対応した。

そして番人はこっそりと管仲に言った。
幸いにも斉に至り、死なずに斉で用いられたなら、私にどのように報いてくださいますか、と。

管仲は言った。
そなたの言う通りになれば、私は賢人を用い、能力のある者を使い、功労を評定するだろう。
私はそなたにどうやって報いようか、と。
番人はこれを聞いて管仲を怨んだ。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。
中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

通背拳の伝承、指導。
日本白猿通背拳研究会を設立。

儒学者、近藤篤山の研究。
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
http://p-kies.net/rongo/#r1/

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