韓非子 外儲説 左上

一、
明主の道は、有若が宓子に答えたようなことである。
暗君が人の言説を聴くのに、その弁舌のさわやかなさまを誉め、その行動を観るのに、その高遠なさまを賢いとする。
ゆえに群臣士民みな物を言うのに大きく実用できず、その身は世間から離れている。

その実例は田鳩が楚王に答えた話にある。
また、墨子が木鳶を作り、謳癸が武宮を築いた話もある。
かの薬酒とすべき忠言は明君聖主のみが知っていることなのである。


二、
君主が人の言説を聴くのに、功用によって基準を決めなければ、説者は棘の彫刻の話や白馬の話のような言説が多くなる。
的を定めて弓を射なければ、射る者はみな羿のような名人になる。

君主は言説について、みな燕王が道を学んだ話のようになり、そして人が言説を長く弁じ立てるのは、みな鄭の人が年を争ったようなものである。
これによって言説が繊細で微妙、難解なものは実益のないものである。
ゆえに李、恵、宋、墨の言説はみな絵空事である。

論が深遠広大なものは、実用できないものである。
ゆえに魏、長、詹、陳、荘の言説はみな妖である。

行動しては世に逆らい堅苦しいものは、功とならないものである。
ゆえに務、卞、鮑、介、墨翟の言説はみな堅瓠である。

かつ、虞慶は建築者をやり込めたが屋根を壊し、范且は工芸者を困らせたが弓を折った。
これらのことから、真実を求める者は、家に帰って食うのでなければいけないのである。


三、相手のためにという思いを挟むと、相手を責めたり怨んだりする。
自分のためにという思いでやれば、物事は行われる。
ゆえに父子が怨み罵り合うし、人を雇って働かせる者は美味い汁を与える。

その例は、文公が宣伝した話や、勾践が如皇の台を非難した話がある。
ゆえに桓公は蔡への怒りを抑えて楚を攻め、呉起が傷の治った後の実利を考慮して傷の膿を吸った。

かつ、先王を讃えた詩や鐘や鼎の銘文は、みな潘吾山の足跡や華山の博奕の類である。
しかし先王の期待したものは利であり、用いたものは武力であった。
築社の諺はこの二つの眼目を示したものである。
それなのに学者に意見を許し、でたらめを先王の名を借りて行わせようとするのは、今に合わぬことではないか。

このようなことを改めることができないのは、鄭県の人が車のくびきを拾う話や、衛の人が弋の手伝いをする話や、卜子の妻が破れて袴を作る話や、乙子の妻がすっぽんに水を飲ませた話や、そして少年が年長者を真似た話などがある。

先王の言葉は、その重要ではないことを世の人がこれを重要だと思い、また、その重要であることを世の人がこれを重要ではないと思うこともあり、必ずしもはっきりとわかるものではないのである。

その例は、宋の人が書を読んだ話や、梁の人が記を読んだ話がある。
先王の書が郢の書のように誤って読まれ、後世の人に燕の人の解釈が多く広まる。
国のためにならないのに先王の道を説くのは、みな家に帰って足の寸法を測る類の話である。


四、
利のあるところに民は集まり、名誉のあるところに士は死ぬ。
よって、功績が法に適わず、しかも賞が与えられれば、お上が利とするものを下々より得ることもできなくなる。
名誉が法に適わず、しかも名誉が与えられれば、士はその名誉を求めて、君主のために働かなくなる。

その例は、中章と胥己が官職に就いてからは、中牟の民は田畑を棄て学問に従事する者が邑の半分に及んだ話、平公が脚が痛み足が痺れているのに、脚を崩さなかったので、晋で官職を辞して叔向を慕い身を寄せる者が国の半分に及んだ話がある。
この三人は、言説が法に適っていれば政府の役人として用い、行動が事に適っていれば法令に従う良民である。
しかし二君は礼遇を過剰に行った。

もし言説が法に背き、行動が功に遠いならば、規定外の無益な民である。
二君はどうしてまたこれを礼遇するだろうか。
礼の正当を失ったことになる。

かつ、学問に従事する者は、国が平和な時は労力を用いることなく、戦が起こっても甲を身につけず、礼遇すれば耕戦の士の務めを果たさず、礼遇されねば君主の政治を嘲笑し、国が安泰であればその身は尊ばれて名声は高く、国が危難であれば屈公の如くふるまう。
君主はどうして学者から得られるものがあるだろうか。
ゆえに明主は李疵が中山王を見て述べた説を用いるのである。


五、
詩に言う。君主がみずから行わねば、庶民は信用しないだろう、と。
斉王の師傅はこれを説いて紫の衣を着るのをやめさせ、子産は鄭の簡公に行わせ、宋の襄公は尊い位と強い権勢を持ちながらみずから耕し戦うことを責められた。

そもそも君主がそれぞれの職分を明確にせず、その誠実を責めず、みずから下々のことを行ってみることは、斉公が車を降りて走った話や魏王が法を習いながら眠った話やかの賤しい服を着てその服を上から覆った話がある。

孔丘はこの事情を知らなかったので、君主は盂のようなものだと言った。
鄒君もまた事情を知らなかったので、人々に先だって恥をかいてみせた。
明主の道は、叔向が猟の獲物を分けたように、韓の昭侯が申不害の話を聴かないと言ったようでなければならない。


六、
小さい信義が行われてこそ、大きな信義が成される。
ゆえに明主は信義を積む。

賞罰が必ず行われなければ、禁制や命令は行われなくなる。
その例は、晋の文公が原を攻めた話や、晋の箕鄭が飢饉を救うことについて述べた話がある。

呉起は約束通り故人を待って食事をし、魏の文侯が虞の人と出会って狩をした話がある。

ゆえに明主は信義を示すことは、曾子が豚を殺して料理した話のようなものである。
信義を守らないことの害は、楚の厲王が警鼓を打った話や、李悝が左右の兵を欺いた話がある。


右は経である。



一、
宓子賤が単父を治めていた。
有若が宓子賤に会って言った。
そなたは何とも痩せてしまったなぁ、と。
宓子は言った。
我がご主君は私が不肖であることをご存じなく、単父を治めさせますので、職務が忙しく、気疲れします。ですから痩せたのです、と。
有若は言った。
昔、舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌っていれば、天下は治まった。
今、そなたは単父のような小さな町でも治めるのに難儀している。
天下を治めるとなったら、そなたはいったいどうするのかね、と。
有若は言った。
昔、舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌っていれば、天下は治まった。
今、そなたは単父のような小さな町でも治めるのに難儀している。
天下を治めるとなったら、そなたはいったいどうするのかね、と。

術を心得て統御すれば、その身は廟堂の上に座り、若い娘のような顔色をしていても、政治に害はなく、術を心得ずに統御すれば、その身は疲れ痩せ衰えても、それでもまだ政治に益はないだろう。


楚王が田鳩に言った。
墨子は顕著な学者である。
その身の行いはよいが、その言葉数は多いが雄弁ではないのは何故であろうか、と。
田鳩は言った。
昔、秦伯がその娘を晋の公子に嫁がせたとき、行列を飾り立て、美しい刺繍を施した衣を着た腰元七十人を従えて晋に行かせました。
晋の人々はその腰元の中の妾を大切にして公女を大切にしませんでした。
これでは妾を立派に嫁がせたと言えるのであって、公女を立派に嫁がせたとは言えません。
楚の人で宝玉を鄭へ売る者がおりました。
木蘭の櫃を作って入れ、桂椒の香で香りづけし、真珠を綴ったものをかけ、玫瑰で飾り、翡翠を連ねました。
鄭の人はその櫃を買い、中の宝玉を返しました。
これは立派に櫃を売ったと言えるのであって、立派に宝玉を売ったとは言えません。
今の世の論説を見ますに、皆言葉巧みに飾り立てたものばかりです。
世の君主はその飾られた文ばかりに気を取られ有用かどうかは考えません。
墨子の言説は先王の道を伝え、聖人の言葉を論じ、人々に告げ知らしめるものです。
もしその言葉を巧みにしますと、恐らく人々はその飾られた文に気を取られ、その本質を考えないでしょう。
飾られた文によってその有用性が損なわれてしまいます。
これは楚の人が宝玉を売り、秦伯が娘を嫁がせるのと同じことです。
ですから言葉数は多くても雄弁には致しません。


墨子が木鳶を作ったとき、三年かかって完成したが、飛ばしたところ一日で壊れた。
弟子が言った。
先生の技巧は木で作った鳶を飛ばせてしまうほどです、と。
墨子は言った。
私は車の梶棒を作る者の技巧には及ばない。
八寸か一尺の木材を用いて、ひと朝ほどの時間もかけずに作り、しかも三十石の荷を引き、遠くへ運べるほど力が強く、長い年月保つことができる。
今、私は鳶を作ったが三年もかかって作り、飛ばしたところ一日で壊れたのだ、と。

恵子がこれを聞いて言った。
墨子は技巧というものを心得ている。
梶棒を作ることを技巧であると言い、鳶を作ることを拙いと言ったのだ、と。


宋王が斉を憎しみ争っていたころ、武宮を築いた。
謳い手の癸が音頭をとると、道行く人は足を止めて聴き、築く人も疲れなかった。
王はこれを聞いて、癸を召して賞を賜った。
癸は答えて言った。
私の師の射稽の歌は、私の歌より優れております、と。
王は射稽を召して歌わせた。
すると道行く人は足を止めず、築く人も疲れを感じた。
王は言った。
道行く人は足を止めず、築く人も疲れを感じたのに、その歌が癸よりも勝っているとは思えないが、どうかね、と。
答えて言った。
王は試しにその仕事の成果をお調べください、と。
癸が謳った場合は四板、射稽が謳った場合は八板であり、壁の堅さを突いて調べると、癸の場合は五寸入り、射稽の場合は二寸入った。

良薬は口に苦いけれども、智者は進んでこれを飲む。
身に入って病を癒すことを知っているからである。
忠言は耳に逆らうけれども、明主は聴き入れる。
それによって功があがることを知っているからである。



二、
宋の人で、燕王のために棘の棘の先に雌猿を彫りましょう、と願い出た者がいた。
必ず三月の間、物忌みし、その後にこれをみることができます、と。
そこで燕王は三乗の地を与えてこれを養った。

右御の冶工が王に申した。
私は聞いております。
君主が十日も宴を開かず物忌みを行う、などということはありません。
今、王は長く物忌みを続けて用の無い彫刻を見ることなどできないと分かっていて、三月という期間を設けたのです。
そもそも彫刻の、のみとは、その削る物よりも必ず小さいものなのです。
今、私は鍛冶を生業としておりますが、そのような小さいのみを作ったことはありません。
これは実際にはありもしない物なのです。
王はこのことをよくお考えください、と。
そこで王はその男を捕えて問いただした。
はたして嘘であった。
そこでこの男を殺した。
冶工の者が王に申した。
物事を計るとき、はかりを用いなければ、論客の中には棘先に猿を彫るなどという類の言説が多いのでございます、と。

また一説にはこうある。
燕王は微細な工芸品を好んだ。
衛の人が言った。
私は棘の先に雌猿を彫ることができます、と。
燕王は喜んで、五乗の俸禄を与えてこれを養った。
王は言った。
私は試しに客人が棘の先に雌猿を彫るのを見てみたい、と。
客人は言った。
君主がこれをご覧になろうとすれば、必ず半年後宮に入らず、酒を飲まず肉を食わず、雨があがって日が出たときに、これを暗い方から明るい方へと視るなら、棘の先に雌猿を見ることができます、と。
そこで燕王は衛の人を養ったが、雌猿を見ることはできなかった。

鄭に台下の冶者がいて、燕王に申した。
私はのみを作る者ですが、どのような微小な物も必ずのみを使って削ります。
そして削る物は必ずのみよりも大きいのです。
今、棘の先にのみの刃は入りません。
王は試しに客人ののみをご覧ください。
できるかできないか分かりましょう、と。
王は言った。
よろしい、と。
衛の人に言った。
客人よ、棘の先に雌猿を彫るのに、何を使うのかね、と。
のみを使います、と答えた。
王は言った。
私はそれを見てみたい、と。
客人は言った。
それでは宿舎に行って取って参ります、と。
そしてそのまま逃亡した。


兒説は宋の人で弁説に長けた者である。
白馬は馬にあらず、という持論でもって、斉の稷下の弁説家たちを抑えていた。
しかし、白馬に乗って関所を通ったとき、白馬の税を取られてしまった。

ゆえに空理空論によれば、国中の弁説家に勝つことはできても、実際に調べて検討するなら、ひとりの役人をも欺くことはできないのである。


鋭利な矢じりを更に砥ぎ、弩を引いて射れば、暗闇の中でみだりに放つといえども、その矢先は秋の獣の毛に当たらないこともないだろう。
しかし同じところに再び命中するのでなければ、弓の名人とは言えない。
決められた的がないからである。
五寸の的を設け、十歩離れたところから弓を引けば、羿や逢蒙でなければ、必ず命中するとは限らないのは、決められた的があるからである。
ゆえに定められた法度があると難しく、法度がなければ易しいのである。
羿や逢蒙でも五寸の的に命中させれば功ありとし、決められた的がなければ、でたらめに射て秋の獣の毛に命中させても拙いとするだろう。

ゆえに君主が法度を設けずに応じれば弁説家は盛んに弁じ立て、法度を設けて待てば知者といえどもなお失言を恐れて、妄言を吐かないだろう。
今、君主が言説を聴くさまは、法度をもってこれに応じずに、その弁説を悦び、功績によってこれをはからずに、その行為を誉める。これが君主が長く欺かれる原因であり、弁説家が長く養われる原因である。


客人で、燕王に不死の道の修め方を教える者がいた。
王は人に命じてこれを学ばせた。
学ばさせていた者がまだ学び終わらないうちに客人が死んでしまった。
王は大いに怒って学びに行かせた者を責めた。

王は自分が客人に欺かれていることに気づかず、学びに行かせた者の学び方が遅いからだと言って責めたのである。
このように、ありもしないものを信じて、罪のない臣下を責めるのは、物事をよく考えぬことによる害である。
かつ、人が大切にするものは、自分の身に及ぶものはない。
その自分の身を不死にすることができずの、どうして王の命を長くできたりしようか。


鄭の人で、互いに年を争う者がいた。
そのうちの一人が言った。
私は黄帝の兄と同い年だ、と。
このように言い合って決まらず、あとから休息する者を勝ちとした。


客人で、周君のために、鞭に画をかいた者がいて、三年かかってできあがった。
周君がこれを見てみると、鞭に漆を塗ったものと同じようであった。
周君は大いに怒った。
鞭に画をかいた者が言った。
十板の壁を築き、八尺の窓をくり抜き、日が出始めるときに、鞭を窓にかざしてご覧ください、と。
周君はこれを作って、その鞭を眺めると、鞭の全てに龍や動物、車など万物ができあがって、充分に備わっていた。
周君は大いに悦んだ。

このように鞭に画をかくという仕事は、微細で困難でないわけではない。
しかしその実際の効用はただの漆を塗った鞭と同じである。


客人で、斉王のために画をかく者がいた。
斉王が問うて言った。
画をかくのに何が最も難しいだろうか、と。
客人は答えた。
犬や馬が難しいです、と。
では、何が易しいだろうか、と。
答えた。
化物や魔物が者が最も易しいです、と。

そもそも犬や馬は誰でも知っている。
朝に夕に人々の目にかかっているので、その通りに似せてかくのは難しい。
鬼神は形のないものであり、人々の目にかからないので、かくのが易しいのである。


〔補〕
湯が桀を伐とうとして、卞隨を頼って謀ろうとした。
卞隨は言った。私が応じることではない、と。
湯は言った。
誰が良いか、と。
卞隨は言った。
私には分からない、と。

湯はまた、務光を頼って謀ろうとした。
務光は言った。
私が応じることではない、と。
湯は言った。
誰が良いか、と。
務光は言った。
私には分からない、と。
湯は言った。
伊尹はどうであろうか、と。
務光は言った。
意志が強く屈辱にもよく耐え忍ぶことができる人物だが、私はそれ以外のことは知らない、と。

湯はついに伊尹と謀り、桀を伐ってこれに勝ち、天下を卞隨に譲ろうとした。

卞隨は辞退して言った。
そなたが桀を伐つとき私と事を謀ろうとした。
私に国を奪う賊の心があると思ったのだろう。
そして桀に勝って私に譲ろうとした。
私を貪欲だと思ったのだろう。
私は乱世に生まれて、無道の輩が二度もやって来て、私を汚そうと恥ずべき行いをさせようとした。
私はこのようなことをしばしば聞かされてはかなわぬ、と。
そしてみずから椆水に身を投げて死んだ。

湯はまた、天下を務光に譲ろうとした。
湯は言った。
知者が事を謀り、武者がこれを成し遂げ、仁者がそこに座る、というのは古来より正しい道である。
そなた、どうか立ってくれまいか、と。
務光は辞退して言った。
お上を廃するのは義ではない。
民を殺すのは仁ではない。
人が困難を犯して、私がその利を受ける、というのは廉直ではない。
私はこう聞いている。
義にあらざればその禄を受けず、無道の世ではその土を踏まず、と。
どうして私を尊ぼうというのか。
私は長くこのような目にあうには忍びない、と。
そこで石を背負ってみずから盧水に身を沈めた。

【解説】
この〔補〕の部分は、韓非子には記載の無い部分。先の「経」の所で名前は挙がっているが、例として示されていない。そこで、太田方が韓非子翼毳の中で補った部分である。
この補文は「荘子」譲王編からの引用。
「呂氏春秋」にもほぼ同様の話が見られる。


〔補〕
鮑焦田を耕して食い、井戸を掘って飲んだ。
あるとき山中で棗を食った。
ある人が言った。
この棗はそなたが植えたものか、と。
鮑焦は無理矢理吐き出そうとして、死んでしまった。

【解説】
この〔補〕の部分も前述の通り太田方による補足。この部分もまた韓非子には記載の無い部分。
この補文は「風俗通義」愆礼編からの部分引用。
なお風俗通義は「鮑焦耕田而食,穿井而飲,非妻所織不衣,餓於山中,食棗,或問之,此棗子所種耶,遂嘔吐,立枯而死」と記すが、太田方が引用したのは「鮑焦耕田而食,穿井而飲,於山中食棗,或曰,此棗子所殖耶,(焦)遂強嘔吐而死」である。
これは「芸文類集、巻八十七、果部下、棗」にある記述と一致する。(焦)の字のみ芸文類集の原文に無く、太田方が補ったものと思われる。これは、もともと「芸文類集」が「風俗通義」から引用して記したものと思われ、それを太田方が参照して引用したのだろう。


〔補〕
晋の文公が国に帰った。
しかし介子推には爵禄が与えられなかった。
とうとう去って介山の上に行ってしまった。
文公が介子推を探し求めたが得られず、その介山を焼いた。
しかし介子推は出てこずに焼け死んだ。

【解説】
この〔補〕の部分も前述の通り太田方による補足。この部分もまた韓非子には記載の無い部分。
この補文は「韓非子翼毳」によると「新書」からの引用とあるが、記述が見当たらない。しかし「新序」節士編に同様のエピソードが見られることから、引用書名の間違いか。


斉に居士田仲という者がいた。
宋の人の屈穀がこれに会って言った。
私は聞いております。
先生は義として人を仰いで食うことを当てにしない、と。
今、私は瓠を植える方法を心得ております。
その堅さは石のようで、分厚くて穴は開いていません。
これを献上致しましょう、と。
田仲は言った。
そもそも瓠に価値があるのは、それに物を入れることができるからです。
今、分厚くて穴がないならば、割いて物を入れて運ぶことができず、石のように堅ければ、割いて水を酌むことができない。
私はそのような瓠をもらってもどうにもできません、と。
屈穀は言った。
そうです。私もこれを捨てようと思っていました、と。
今、田仲は人を仰いで食うことを当てにしないが、また田仲は国にとって益なく、石のように堅い瓠と同じようなものである。


虞慶が家を建てた。
匠人に言った。
屋根が高すぎる、と。
匠人は答えた。
これは新築です。
壁は塗りたてで椽は生です。
塗りたての壁は重く、生の椽は重さで撓みます。
撓んだ椽と塗りたての壁の重さで、屋根は低くなります、と。
虞慶は言った。
そうではない。
日が経って久しくなれば、壁は乾燥して椽は乾く。
壁が乾燥すれば軽くなり、椽が乾けばまっすぐになる。
まっすぐな椽と乾燥した壁では、屋根はますます高くなるだろう、と。
匠人は言いくるめられ、言う通りにしたところ、家は壊れた。

また一説にはこうある。
虞慶が家を建てようとした。
匠人が言った。
材木が生で、壁は濡れています。
材木が生ならば撓み、壁が濡れていれば重いのです。
撓む材木で重い壁を支えるので、今は完成したとはいえ、久しくなれば必ず壊れてしまいます、と。
虞慶は言った。
材木が乾けばまっすぐになり、壁が乾けば軽くなる。
今、完成して、壁が乾くのを待って材木が日増しにまっすぐになれば、久しくたっても壊れたりしないのだ、と。
匠人は言いくるめられた。
その通りに作って完成した。
しばらくすると果たして家は壊れた。


范雎が言った。
弓を作るとき、弓が折れるのは、必ず終わりの方であり、始めの方ではない。
そもそも工人が弓を作るのに、檠にかけること三十日、それから弓を踏みつけて弦を張り、一日おいて矢を射てみれば、その始めは慎重で終わりは急激なやり方である。
どうして折れずにいようか。
また、檠にかけること一日、それから弓を踏みつけて弦を張り、三十日おいて矢を射てみれば、その始めは急激で終わりは慎重なやり方である、と。
工人は言いくるめられて、その通りに作ったが、弓は折れた。


范雎や虞慶の言葉は、みな言葉巧みで優れているが、物事の実情に反している。
君主はこういう言葉を悦んで、禁止しない。
これが失敗する理由である。

つまり実際に国を治め兵を強くする効果を考えず、弁説巧みだという評判を良しとする。
これは術を心得た者を退けて、家を壊し、弓を折るような者に任せるやり方である。
ゆえに君主が国政を行うに、工匠が家を建て弓を張る労力には及ばないのである。
そして術を心得た者が范雎や虞慶などに苦しめられるのは、空論は無用であるのに勝ち、実際に効果のある事柄は変わることのない確実なものであるのにやりこまれるためである。

君主は無用の弁説を良しとし、変えることのない実用の言葉を疎かにする。
これが世の乱れる理由である。
今、范雎や虞慶のような者が絶えず、君主はこれを悦ぶことをやめない。
これは家を壊し弓を折るような弁説を貴び、知術を心得た者を工匠のようだとするやり方である。

工匠が正しい技巧を施すことができないから、家は壊れ弓は折れる。
政治のやり方を心得た人が、正しい方法を行うことができないから、国は乱れ君主が危うくなる。

かの幼児たちが共に遊ぶとき、砂を飯とし、泥を汁とし、木片を肉としてままごとをする。
しかし日が暮れたら、必ず家に帰って食事をするのは、砂の飯や泥の汁では、遊ぶことはできても、食うことはできないからである。
かの古代の伝説を述べ立てるのは、流麗で能弁であっても誠実ではなく、先王の仁義の道を説くが、実際に国を正しく治めることができないならば、遊びで行うことはできても、政治を行うことはできないのである。

そもそも仁義を慕って弱くなり乱れた国は三晋である。
慕わずよく治まり強くなったのは秦である。しかも秦は強くても、いまだに帝となれないのは、治め方がまだ充分ではないのである。



三、
人が幼児のとき、父母の養いかたが疎かであると、子は成長してから父母を怨む。
子が成長して成人して、父母への仕えかたが粗末であると、父母は怒って子を責める。
親子は最も親しい間柄であるのに、あるいは責め、あるいは怨むというのは、皆、相手の為にしてやっている、という気持ちを差し挟んで、自分の為にしてくれることが充分ではない、と思うからである。

人を雇って種を蒔いたり耕したりさせるとき、主人は家財を使って食事を美味いものにし、布を吟味して銭にかえて備えるのは、雇っている者を愛するからではないのである。
このようにすれば、深くしっかりと耕し、草抜きをしっかりと抜き取ってくれるだろう、と思うからである。
雇っている者が力を尽くして早く耕し草抜きをし、力を尽くしてしっかりと畝を作り畦を作るのは、主人を愛しているからではないのである。
このようにすれば、汁は美味くなるだろうし、銭や布を支払ってくれるだろう、と思うからである。

主人が労力を出す者を雇っているのは、父が子に恵みを与えるようであり、そして雇われている者が心を周到に行き届かせるのは、皆、自分の為にやっている、という心持ちでいるからである。

故に人が事を行い施し与えるのは、これを己の利益に結びつけようという心持ちでいれば、越の人とでも仲良くなれるし、己の害になるという心持ちでいれば、父子の間柄であっても離反し、かつ怨むことになるだろう。


晋の文公が宋を伐った。
そこでまず宣言した。
私は聞いている。
宋君は無道で、長老たちを侮蔑し、財の分け方が公平でなく、教育や命令が誠実ではない、と。
私は宋へ来て民のために宋君を誅するのである、と。


越王が呉を伐った。
そこでまず宣言した。
私は聞いている。
呉王は如皇の台を築き、深い池を掘り、万民を疲れ苦しませ、財貨を浪費し、民の力を使い尽くした、と。
私は呉へ来て民のために呉王を誅するのである、と。


蔡の公女は斉の桓公の夫人であった。
桓公は夫人と舟遊びをした。
夫人は舟を揺さぶった。
桓公は大いに恐れて止めさせようとしたが、止めなかった。
桓公は怒って夫人を蔡へ返した。
そして再び夫人を召し戻そうとした。
しかし蔡は公女を再び他家へ嫁がせてしまっていた。

桓公は大いに怒り、蔡を伐とうとした。
管仲が諫めて言った。
夫婦の私的な遊びごとでの揉め事で他国を伐つわけにはいきません。
大功を望むことなどできなくなりましょう。
どうかこのことで事を計るのはおやめください、と。
しかし桓公は聴き入れない。

管仲はさらに言った。
どうしても止めることができないと仰るのなら、楚が菁茅を天子に献上せぬこと三年になりますから、ご主君は挙兵して天子のために楚を伐つということになさいませ。
楚が服従しましたら、引き返して蔡を襲って、こう申すのです。
私は天子のために楚を伐った。
しかし蔡は兵を出してこれに従わなかった。
よって蔡を滅ぼそうぞ、と。
このようにすれば、大義名分を得て実利も得られましょう、と。

つまり、必ず天子の為に誅すると言いながらも、その実は仇をうつという実利を狙ったものなのである。


呉起が魏の将軍として中山を攻めた。
軍人の中に腫れ物を病んだ者がいた。
呉起は跪いて、みずからその膿を吸い出した。
するとその病人の母が立って泣いた。
人が問うた。
将軍はあなたの子にこれほど良くしてくれているのに、なぜ泣くのかね、と。
母が答えて言った。
呉起将軍は、あの子の父のできものを吸ってくださったために、父は死にました。
今またこの子も死んでしまうことになるでしょう。
だから私は泣くのです、と。


趙の主父は工人に命じて、鉤梯を使って潘吾の山によじ登らせ、大きな足跡を山頂に刻ませた。
幅三尺、長さ五尺とし、こう刻みつけた。
主父はかつてここに遊んだ、と。


秦の昭王は工人に命じて、鉤梯を使って華山に登らせ、松柏の木の芯を使って長さ八尺の博箭と、八寸の棊を作らせ、こう刻みつけた。
昭王はかつて天神とここですごろくをした、と。


晋の文公国に帰ろうとしていた。
黄河に至り、命じた。
これまで使っていた竹や木の食器を捨てよ、むしろや藁の敷物は捨てよ、手足が荒れた者や、日焼けして顔の黒い者は後ろに回れ、と。
咎犯はこれを聞いて、夜、声をあげて泣いた。
文公は言った。
私は亡命して二十年、今ようやく国に帰ることができる。
咎犯はこれを聞いて、喜ばずに声をあげて泣いた。
私が国に帰ることを望まないのかね、と。
咎犯は答えた。
竹や木の食器は食うためのものであり、むしろや藁の敷物は寝るためのものですが、ご主君はこれを捨てました。
手足が荒れ、顔が日焼けして黒くなったのは、苦労して功績をあげた者ですが、ご主君はこれを後ろに回しました。
今、私も後ろに並ぶ者の中におります。
私はその哀しみに耐えられず、声をあげて泣いておるのです。
かつ私はご主君のために幾度となく偽りの計略を用い、国に帰らせようと致しました。
私でさえ自分を嫌悪します。
ご主君におかれましては尚更のことでしょう、と。
再拝して去ろうとした。
文公はこれを引き止めて言った。
諺に言う、社を築くには、労働のための服装で、祀るときは礼服で行う、と。
今、そなたは私と晋を取りながら、私と共に晋を治めず、私と晋の社稷を築きながら、私と共に祀らない。
どうしてそんなことができようか、と。
左の副馬をはずして供物として黄河に捧げて盟った。


鄭県の卜子が妻に袴を作らせようとした。
妻が問うた。
今度の袴はどのように作りましょうか、と。
夫は言った。
私の古い袴と同じように作ってくれ、と。
そこで妻は新しい布を破って古い袴の通りに作った。


鄭県の人で車の軛を拾った者がいた。
しかしその名前を知らなかった。
人に問うた。
これは何というものかね、と。
答えて言った。
これは車の軛だ、と。

そしてまたすぐに軛を拾って人に問うた。
これは何というものかね、と。
答えて言った。
これは車の軛だ、と。

問うたこの男は大いに怒って言った。
さっきは車の軛だと言い、今また車の軛と言った。
この軛というものはそんなに多くあるのかね。
そなたは私を騙そうとしているのだろう、と。
とうとう二人は喧嘩を始めた。


衛の人で佐弋の職に就いている者がいた。
鳥が飛んできた。
そこでまず棬を持って鳥をさしまねいた。
鳥は驚いて逃げて射ることができなかった。


鄭県の人、乙子の妻が市へ行ってすっぽんを買って帰った。
潁水のそばを通りかかったとき、すっぽんも喉が渇いているだろうと思い、川に放して水を飲ませた。
そのまますっぽんに逃げられてしまった。


年少者が年長者に侍して酒を飲むとき、まず年長者が飲んだら自分も飲むものである。
ある話では、魯の人で我が身を善く修める者がいた。
年長者が酒を飲んで、飲みきれずに吐き出したのを見て、自分もそれに倣って酒を吐き出した。

また一説にはこうある。
宋の人で年少者がいた。
他の人の善行を見習おうとして、年長者が酒を残さず飲み干したのを見て、自分はそれほどの酒を飲むのに堪えることができないのに、飲み尽くそうとした。


古の書にこうある。
之を紳し、之を束す、と。
宋の人でこの書を修める者がいた。
そこで自分で紳という帯と束という帯を二重にして身につけた。
人が問うた。
それは何というものですか、と。
答えて言うには、古の書でこう言っており、もともとこうするものなのです、と。


古の書にこうある。
既に雕し、既に琢し、その樸に還帰す、と。
梁の人でこの書を修める者がいた。
動作ひとつひとつに学問を持ち出し、行動するのにも古の文句を引用した。
この者が言うには、これを彫り磨けば、かえって真実を見失ってしまうものだ、と。
人が問うた。
それはどういうことですか、と。
答えて言うには、古の書でこう言っており、もともとこうするものなのです、と。


郢の人で、燕の宰相に手紙を送った者がいた。
夜に書いたので、灯りが暗く、そこで燭台を持っていた者に言った。
燭台をもっと挙げなさい、と。
そして誤って、燭を挙げよ、と書いた。
燭を挙げよ、とは、手紙に書きたかったことではなかったのである。

燕の宰相は手紙を受け取り読み解いて言った。
燭を挙げよ、とは、賢明を高くすることである。
賢明を高くせよ、とは、賢者を挙げて職に任ずることである、と。
燕の宰相は、燕王に申し上げた。
王は大いに悦び、国はよく治まった。
治まるには治まったが、手紙の真意ではなかった。

今、世の学者は、この誤解と同じようなことをやっているのである。


鄭の人で履を買いに行こうとする者がいた。
まず自分で足の大きさを計り、その寸法書を座席に置き、市へ出かけるときになって、持っていくのを忘れた。
市で履屋を見つけたあとで言った。
私は寸法書を忘れてきた、と。
家に引き返して寸法書を取ってきたが、戻ってみると市はもう終わっており、とうとう履を買いそこなった。
人が言った。
どうして自分のその足で試し履きしなかったのかね、と。
答えて言った。
むしろ寸法書は信用できるが、自分の足のことなど信用できないからだ、と。



四、
趙の王登が中牟の長官であったとき、趙襄主に上申した。
中牟に中章と胥已という士がおります。
その身の修養は甚だよく、その学問は甚だ博いのです。
ご主君はどうかこれらを用いなさいませ、と。
襄主は言った。
そなた、ふたりを目通しさせよ。
中大夫に取り立てようぞ、と。

襄主の相室が諫めて言った。
中大夫は晋の重職でございます。
今まだ功績も無いのにその職を受けるのは、晋の群臣の望むところではありません。
ご主君は耳で聞いただけで、まだ目でご覧になってはいないでしょう、と。
襄主は言った。
私が登を任用するとき、耳で聞き、目でも見た。
その登が任用して欲しいという者を、私がまた耳で聞いて目で見るというのでは、人を耳で聞いて目で見るというやり方がずっと終わらないではないか、と。

王登は一日のうちにふたりを襄主に見えさせ、襄主はふたりに田地と邸宅を与えた。
そこで中牟の人びとは田畑を耕すのをやめ、その家や田畑を売って、学問を生業にしようとする者が、邑の半分にのぼった。


叔向が晋の平公のそばに坐し、国事を奏上した。
平公はふくらはぎが痛み、足は痺れ、足がつっても、堪えて正座を崩さなかった。
晋国の人びとはこれを聞き、皆が言った。
叔向は賢者である。
だから平公は礼儀を正し、足がつっても堪えて正座を崩さなかったのだ、と。
晋国ではその官職を辞して、叔向を慕って集まる者が、国の半分にも及んだ。


鄭県の人で屈公という者がいた。
戦場で敵だと聞くと恐れて死に、敵が去って恐怖が去ると生き返った。


趙の主父が李疵に中山を攻めるべきかどうかを偵察させた。
帰ってきて報告して言うには、中山をお伐ちください。
ご主君が速やかにお伐ちにならねば、斉や燕に遅れをとりますぞ、と。
主父は言った。
なぜ攻めるべきなのかね、と。
李疵は答えて言った。
中山の君は巌穴の士を好み、会うと車の蓋を傾け共に車に乗り、貧しい里や狭い巷に隠れ住む隠士に会いに行くこと数十を数え、無官の士に対等の礼をとること数百を数えます、と。

主父は言った。
そなたの言葉を聞く限り、中山の君は賢人である。どうして攻めることができようか、と。
李疵は答えた。
そうではありません。
もし好んで巌穴の士を用いて参朝させれば、戦士たちは行軍を怠るでしょう。
上は学者を尊び、下は処士を参朝させるならば兵は弱く、農夫が耕作を怠るならば国は貧しくなります。
兵は敵に対して弱く、国の内部は貧しいというのに、亡びなかった国など、未だありません。
これを伐たずにおれましょうか、と。
主父は言った。よろしい、と。
兵を挙げて中山を伐ち、ついに滅ぼした。



五、
斉の桓公が紫の服を好んだので、斉の国中みながことごとく紫の服を着た。
この時に当たっては、白地が五に対して紫の地一を得がたいほどであった。

桓公はこれを患い、管仲に言った。
私は紫の服を好んだので、紫の生地の値がはなはだしく高騰しており、国中の民がみな、紫の服を着ることを好んでやめない。
私はどうすればいいだろうか、と。
管仲は言った。
ご主君、どうぞ試しに紫の服を着るのをおやめなさいませ。
そして左右の臣にこう言うのです。
私ははなはだ紫の服の染料の臭いが嫌いだ、と。
ここで左右の臣でたまたま紫の服を着て進み出る者がおりましたら、必ずこう言うのです。
少し下がりなさい。
私は紫の染料の臭いが嫌いなのだ、と。
桓公は言った。
わかった、と。

するとその日のうちに、左右の臣で紫の服を着る者はいなくなり、三日のうちに国中に紫の服を着る者がいなくなった。

また一説にはこうだ。
斉王が紫の服を着ることを好んだので、斉の人は皆紫の服を好んで着た。
斉の国では、白地が五に対して紫の地一を得がたいほどであった。
斉王はこれを患いた。

傅が王に言った。
詩にこうあります。
みずから行わなければ、庶民は信じないだろう、と。
今、王が、民に紫の服を着る者がいないことをお望みならば、王はどうかみずから紫の服を脱いで朝廷においでください。
群臣で紫の服を着て進み出る者がおりましたら、近寄ってはならぬ、私はその臭いが嫌いだ、と仰いなさいませ、と。

その日のうちに近臣で紫の服を着る者はいなくなり、その月のうちに都中に紫の服を着る者がいなくなり、その年のうちに国中に紫の服を着る者がいなくなった。


鄭の簡公が子産に言った。
国が小さくて楚と晋の間に挟まれており、今、城郭は整っておらず、武器や鎧は充分備わっておらず、急なことへの備えができていない、と。
子産が言った。
私は外国の圧迫をすでに遠く閉じ込め、国内の守りはすでに固く、小国といえども危うくはございません。
ご主君はご心配なさりませんよう、と。こうして簡公はその身を終えるまで禍は起きなかった。

一説にはこうだ。
子産は鄭の宰相である。
簡公は子産に言った。
酒を飲んでも楽しむことができず、祭祀の供物を豊かにできず、鐘鼓竽瑟の美しい音色も聴くことができない、というのは、私の務めが果たされていないからだ。
国家の礎が定まらず、万民が安心せず、耕作に励まず戦争に勇敢でなく仲間同士が親睦しない、というのは、また私の罪である。そなたに職責があり、私にも職責がある。それぞれがその職責を守ろうぞ、と。

子産は退出して政治をなすこと五年、国に盗賊はいなくなり、道に落ちているものを拾う者はおらず、桃や棗が実って街路を塞ぐほどであっても、取る者はなく、錐刀を道に落とし、三日経って戻ってもそこにあり、三年不作が続いても民に飢える者はいなかった。


宋の襄公が楚の人と涿谷のほとりで戦った。
宋の人はすでに隊列を終えたが、楚の人はまだ川を渡っていなかった。
右司馬の購彊が走り寄って諫めて言った。
楚の兵は多く、宋の兵は少ないのです。
どうか楚の兵を半ば渡らせ、まだ隊列が整わぬうちにこれをお撃ちください。
そうすれば必ず破ることができましょう、と。
襄公は言った。
私はこう聞いている。
君子は傷を負った敵を再び傷つけず、白髪まじりの老兵を捕虜にせず、敵を危険な所へ推さず、敵を隘路で襲わず、敵の隊列が整わぬうちに太鼓を打って攻め寄せないものだ、と。
今、楚の兵はまだ渡り終えておらぬのに、これを撃てば、義を害するであろう。
楚の兵をみな渡らせて陣を布かせてから、太鼓を打って軍を進めることにする、と。
右司馬は言った。
ご主君、それでは宋の民を愛せず、身の安全を計らずに、ただ義を行うだけとなります、と。
襄公は言った。
隊列に戻らねば、軍法に照らして処罰するぞ、と。
右司馬は隊列に戻った。

楚の軍は隊列を整え陣を布き終えた。
襄公はそこで太鼓を打った。
宋の軍は大敗し、襄公は股に傷を受け、三日の後に死んだ。

これは、君主がみずから仁義を行うことを好んだことによる禍である。
もし必ず君主がその身をもって行い、その後に民が従うだろうと期待するなら、これは君主が自分で耕作して食料を作り、自分が兵たちと並んで戦い、それによって民が耕作し戦に出ようと承服させることである。
これでは君主の身は甚だ危うく、臣民は甚だ楽ではないか。


斉の景公が少海で遊んだ。
早馬が都から来て拝謁して言った。
嬰の病が重く、死が迫っております。
恐らく景公は間に合わないでしょう、と。
景公はすぐに起った。
早馬がまた到着した。
景公は言った。
すぐに煩且の馬車に乗り、騶子韓樞に御させよ、と。

行くこと数百歩、騶では遅いと言い、轡を奪って騶子に代わって御した。
数百歩ばかり進んだところで、馬はなかなか進まないと言い、車を捨てて走った。
煩且という名馬の速さと騶子韓樞の巧さを用いているのに、景公は、降りて走った方が速いと思ったのである。


魏の昭王が官吏の仕事を自分でやってみたいと思い孟嘗君に言った。
私は官吏の仕事をやってみたい、と。
孟嘗君は言った。
王が官吏の仕事をやってみたいとお思いなら、まずは法律について読み習いなさいませ、と。

昭王は、法律の書を読むこと十余り、横になって眠ってしまった。
昭王は言った。
私はこの法律の書を読み通すことはできぬ、と。

昭王は政治の要諦をのみ、みずから握っておらずに、臣下がなすべき仕事を自分でやろうと思ったのである。
眠くなることもまた当然であろう。


孔子は言った。
君主たるもの、盆のようであり、民は水のようなものである。
盆が四角ならば水も四角に、盆が円形ならば水も円形になるのである、と。


鄒君が冠の纓の長いものを好んで身につけた。
左右の近臣はみなこれに倣ったので、長い纓の値が甚だ高くなった。
鄒君がこれを憂い、左右に問うた。
左右の近臣が言った。
ご主君が好んで身につけますと、民もまた身につける者は多くなり、値が高騰したのです、と。

そこで鄒君はまず自分でその纓を短く切って朝廷に出た。
すると国中みなが長い纓を身につけなくなった。

君主が命令を下して民の服装の規則を設け、これを禁ずる、といったことができずに、纓を短く切って朝廷に出て、民に手本を示す、というのでは、まず自分自身を罰して民を戒める、というものである。


晋の叔向が猟で獲った獲物を分けるとき、功績の多かった者が多く受け、功績の少なかった者は少なく受ける、というようにした。


韓の昭侯が申子に言った。
法による政治は甚だ行い難いのだな、と。
申子は言った。
法による政治は、功績を見て賞を与え、能力によって官職を授けるものなのです。
今、ご主君は法を設けているのに、左右の近臣の願いを聴き入れなさる。
これが行い難い原因なのです、と。
昭侯は言った。
私は今からは法を確かに行うことにする。
私は近臣の願いなど聴かぬぞ、と。

ある日、申子は、その従兄を官職に任じて欲しいと請願した。
昭侯は言った。
そなたに学んだことではないな。
そなたの申し出を聴いて、そなたの言う道に背くか、そなたの申し出を聴き入れずにおこうか、と。
申子は、宿舎を出て罪に服することを請うた。



六、
晋の文公が原を攻めようとした。
十日分の糧秣を包ませ、将兵らに十日という期日を約束して、原に到着した。
十日経っても原は落ちなかった。
文公は金を打ち鳴らせて退却させ、戦いをやめて去った。

兵士が原の城内から出てきて言った。
原はあと三日で落ちるでしょう、と。

左右の群臣が諫めて言った。
原は食糧が尽き力も尽きました。
ご主君、もうしばらくお待ちください、と。
文公は言った。
私は将士と十日という期日を約束した。
ここで退かねば私は信義を失ってしまう。
原を得て信義を失うようなことは、私は行わない、と。
そして兵を退き去った。

原の人はこれを聞いて言った。
君主であのような信義の方がおられるのだ、帰順しようではないか、と。
そこで文公に降った。

衛の人がこれを聞いて言った。
君主であのような信義の方がおられるのだ、帰順しようではないか、と。
そこで文公に降った。

孔子がこの話を聞いて、記して言った。
原を攻めて、衛をも得たというのは、信義の力によるものである、と。


晋の文公が箕鄭に問うた。
民の餓えを救うにはどうすればよいか、と。
答えて言った。
それは信義を守ることでございます、と。
文公は言った。
何に対して信義を守るのか、と。
箕鄭は答えた。
名に対して信義を守れば、群臣は職分を守り、貴賤の分別を踰えず、万事怠りません。
仕事に対して信義を守れば、天の時を失わず、民は身分を踰えません。
道義に対して信義を守れば、君主の近親者は励み、遠い者も帰順致しましょう、と。


呉起が外出して昔なじみに会った。
これを引き止めて、家で一緒に食事をしようとした。
昔なじみが言うには、わかった。
今はまず君だけ帰って待っていてくれ、と。
呉起は言った。
君が来てから食事をしよう、と。

昔なじみは日が暮れても来ない。
呉起は食事をせずに待った。
翌日早くに人をやって昔なじみを探させた。
昔なじみがやってきて、はじめて一緒に食事をとった。


魏の文侯が虞人と猟の日取りを決めた。
約束の日、風が強かったので左右の近臣が行くのを止めた。
文侯は聴き入れずに言った。
だめだ。風が強いからといって約束を破るようなことは、私はしないのだ、と。

そのまま自分で馬車を駆り、風に逆らって狩場へ行き、虞人を休ませた。


曾子の妻が市に出かけた。
子が妻について行き泣いた。
母は言った。
あなたは先に帰りなさい。帰ればあなたのために豚を料理してあげる、と。

そして市に行って帰ってきた。
すると曾子が豚を捕まえて殺そうとした。
妻はこれを止めて言った。
ただ子供を騙しただけです、と。
曾子は言った。
子供を騙したりしてはいけない。
子供はまだ知恵があるわけではない。
父母を見て学んでいくのだ。
父母の教えを聴くのであり、今、そなたが子供を欺くなら、子供に欺くことを教えることになる。
母が子を欺いて、母を信じなくなっては、教えるということにならないのだよ、と。
そのまま豚を煮て料理した。


楚の厲王は、警戒すべきときは太鼓を打って民に防備をさせた。

あるとき酒を飲んで酔い、誤って太鼓を打った。
民は大いに驚いた。
王は人に命じて止めさせて言った。
私は酔って左右の近臣と戯れ、誤って太鼓を打ってしまったのだ、と。
民は皆、防備を解いた。

それから数か月、警戒すべき事態が起きた。
太鼓を打ったが民は防備に赴かない。
そこで命令を改め、号令をはっきりと定めなおして、ようやく民はこれを信じた。


魏の李悝が左右の軍門の守衛を戒めて言った。
しっかりと警戒せよ。
敵が日暮れから明朝のうちにやってきて、そなたらを撃とうと攻めてくるだろう、と。

このような戒めが再三繰り返しされたが、敵はやってこない。
すると左右の軍門の守衛は警戒を怠り、李悝を信用しなくなった。

そのまま数か月が過ぎたころ、秦軍がやって来て襲い、魏軍はほとんど壊滅しそうになった。
これは信頼を失ったことによる害である。

一説にはこうある。
魏の李悝が秦軍と戦おうとした。
左の軍門の守衛に言った。
速やかに城壁に登れ。
右の軍門の守衛はすでに登ってしまったぞ、と。
また、馬を馳せて右の軍門の守衛のところへ行き言った。
左の軍門の守衛はすでに登ってしまったぞ、と。
左右の軍門の守衛は、そのために争って登った。

その翌年、秦軍と戦った。
秦軍が襲いかかり、魏軍のほとんどが壊滅しそうになった。
これは信頼を失ったことによる害である。


テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。
中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

通背拳の伝承、指導。
日本白猿通背拳研究会を設立。

儒学者、近藤篤山の研究。
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
http://p-kies.net/rongo/#r1/

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