韓非子 内儲説 上 七術

君主が用いるものに七術があり、察知すべきものに六微がある。

では七術とは。

一、衆端を参観すること。
二、必罰して威を明らかにすること。
三、信賞して能を尽くさしめること。
四、一聴して下を責めること。
五、疑詔し詭使すること。
六、知を挟んで問うこと。
七、言を倒にし事を反すこと。

この七つが君主の用いる術である。

人の言と行動を観なければ実情はわからない。言説を聴くとき、取り次ぎするものを定めると、臣下はそれにつけ込んで君主の耳を塞ごうとするだろう。
その例は、侏儒が夢に竈を見た話、哀公が多勢であれば迷うことはないと言った話に挙げられる。斉の人が河伯を見せる話、恵子がその半ばを失う話もある。この術を知らぬことの弊害は、豎牛が叔孫を飢えさせた話、江乞が荊の俗を説く話にある。嗣公は治めようとしたがこの術を知らぬが故に、敵を作った。よって名君は鉄を積んで矢を防ぐ話から類推して一市の患を察するのだ。
これが「参観の術」である。

寵愛する者が多いと法は立たず、権威が弱いと下が上を侵害する。よって刑罰が必ず行われないときは禁令は行われない。その例は、董子が石邑を巡行した話、子産が游吉を戒めた話に挙げられる。
仲尼が霜が降ることについて説いた話、殷の法では灰を捨てる者を罰した話、将行が楽池を去った話、公孫鞅が軽罪を重く扱った話もある。この術を守らなかった故に、麗水の金は守られず、積澤の火は消されず、成驩は君主の行き過ぎた仁が斉を弱くすると思慮し、卜皮は慈恵によって魏王は滅びると思慮した。また、管仲はこの術を知っていたから死人の体を断ち、嗣公もこの術を知っていたから奴隷を買い戻したのである。
これが「必罰の術」である。

賞誉が薄く確実でなければ、人々は働かず、賞誉が厚く確実であれば、人々は死をも軽んじて働く。
その例は、文子が臣民を鹿のようだと言った話に挙げられる。越王が宮殿を焼いた話、呉起が車の轅を寄せた話、李悝が訴訟を決するのに弓を射て行った話、宋の宗門では喪に服して衰弱死した話もある。勾踐はこの術を知っていたから威勢の良い蛙に礼をし、昭侯もこの術を知っていたから破れた袴をとっておいたのだ。
厚く賞することによって、人を孟賁や専諸のような勇士にする。婦人でも蚕を手で掴み、漁師は鰻を手で握るのも、賞誉が厚いから、そのようにするのである。
これが「賞誉の術」である。

ひとりひとり話を聴かなければ臣下の賢愚はわからない。言行一致を臣下に求めなければ比べることはできない。
その例は、鄭に要求した話、竽を吹かせた話に挙げられる。その弊害は、申子が趙紹と韓沓で試した話にある。また、公子汜が河東の割譲を議論した話、応侯が上党の兵を移そうと謀った話もある。
これが「一聴の術」である。

しばしば招いて会い、その度に待たせて官職に任じなければ、姦臣は鹿の群れのように散り去り、人を使うのにそれとは関係のない他のことを問えば、自分を売り込むことができない。
この術を心得ていたから龐敬は公大夫を退かせ、戴讙は命じて轀車を監視させ、周君は玉簪を失い、商の太宰は牛の糞の話をしたのである。
これが「詭使の術」である。

知っていることを隠して問えば、知らないことまで聞き出すことができ、一つの物事を深く知っていれば、多くの隠されている物事までがその動きを変えるだろう。
その例は、昭侯が爪をひとつ握っていた話に挙げられる。この術を知っていたから昭侯は南門を調べ、他の三門の情報を得ることができ、周主は曲がった杖を探して臣下を恐れさせ、卜皮は庶子を使い、西門豹は車轄を失ったふりをした。
これが「挟智の術」である。

わざと反対のことを言い、事実とは逆のことを言い、それによって疑いのある相手の反応を試せば、その邪な腹の中がわかる。
この術を心得ていたから、陽山君は樛竪を欺き、淖歯は秦の使者として偽者を作り、斉の人は乱を起こそうとし、子之は白馬を用い、子産は訴える者を引き離し、嗣公は市場の門を通らせたのである。
これが「倒言の術」である。



衛の霊公の代に彌子瑕が寵愛され、衛の国を思うがままにした。
侏儒で霊公に見える者がいた。言うには、私は正夢をみました、と。
霊公は、何の夢か、と問うた。
答えて言うには、夢で竈を見ました。これは公に見えるということを意味します、と。
霊公は怒って言った。儂は聞いている。君主に見える者は夢で太陽を見る、と。儂に見える理由に竈を見たとはどういうことか、と。
答えて言うには、太陽は天下全てを照らすものであり、一物だけその光に当たるということはできません。君主は国中の人を照らすものであり、一人だけその恩恵を受けることなどできません。ゆえに君主に見えようとする者は夢で太陽を見るのです。しかし竈は一人がその火に当たれば、後ろの人には竈を見る術がありません。恐らく今、誰か一人が主君の恩恵を独り占めする者がいるのではないでしょうか。だから私が夢で竈を見たのも、もっともなことではありませんか、と。

魯の哀公が孔子に問うた。
諺に、多勢ならば迷わない、と言う。儂が物事を始めるときは、群臣と相談しているが、国はますます乱れる。それは何故だろうか、と。
孔子が答えて言うには、明君が臣下に問うと、この臣は知っており、この臣は知らぬ、と判断できます。このようなときは明君が上にあり、群臣が下におり、議論をします。今、群臣の中で、季孫に意見を合わせないものはいません。魯の国全てがこの一色に染まっています。よって、ご主君が国内の皆にとうたとしても、国が乱れるのを免れることはできないでしょう、と。

また一説にはこうだ。
晏嬰が魯へ使者として来た。
哀公が問うて言うには、昔から三人いれば迷うことはない、と言う。今、儂は国中の者と相談しているのに、魯は乱れる一方なのは何故だろうか、と。
晏嬰が言うには、昔の所謂三人いれば迷わない、というのは、一人が誤っても、他の二人は誤らないから、三人いれば多いするに充分なのです。だから、三人いれば迷わない、と言うのです。ところが今、魯の国の群臣は数百数千と数えるほどおりますが、季氏の私利のために皆が口を揃えます。ゆえに人数は多くないわけではないのですが、、ものを言うのは一人だけと同じことです。どうして三人ならばと言えるでしょうか、と。

斉の人で、斉王に言った者がいた。
河伯は偉大なる神です。大王も試しに会ってみてはいかがか、私は大王をかはくに会わせましょう、と。
祭壇を川のほとりに作り、王とここに立っていた。
しばらくして大魚がうごめいた。それを見て言った、これが河伯です、と。

張儀は秦と韓と魏の勢力で斉と楚を伐とうとした。
しかし恵子は斉と楚と魏の勢力で他国の侵攻を防ごうとした。
二人はこのことで言い争った。
群臣皆が張子のために賛同し、斉と楚を攻めるのが利であるとし、恵子を擁護する者はいなかった。
王は結局張子の意見を採用し、恵子の意見を不採用とし、斉と楚を攻めることで方針が定まった。
恵子が参内して王に見えた。
王は言った。恵先生、言わないでくれ。斉と楚を攻めることには利があり、国中ことごとく賛成しているのだ、と。
恵子は説いた。意見はよく考えて聞かねばなりません。斉と楚を攻める策に本当に利があるなら、国中ことごとく利とするとは、なんと智恵者の多いことでしょう。斉と楚を攻める策に利がないなら、国中ことごとく利とするとは、なんと愚者の多いことでしょう。およそ相談するのは疑わしいからであり、疑うということはその策を可とする者が半分、不可とする者が半分、ということです。今、国中全てが可であるとするのは、王は国民の半分を失ったも同然です。主を脅かす姦臣とは、国民の半分を奪う者のことです。

叔孫は魯の宰相であり、地位が高く権勢を一手に握っていた。
そのお気に入りの臣下に豎牛という者がいて、叔孫の命令を一手に取り次いでいた。
叔孫に子がいて、壬という。豎牛は妬んでこれを殺そうとした。
そこで壬と魯の君主に会いに行った。魯の君主は壬に玉環を賜った。壬は拝礼をしてこれを受けたが、あえて身につけなかった。
豎牛に、これを身につける許可をとってくるよう叔孫へ求めさせた。
豎牛は壬を欺いて言った。私はすでにあなたの為に叔孫様に許可を請いました。あなたはどうか玉環を身につけてくださいませ、と。
壬はこれを聞いて玉環を身につけた。
これを受けて豎牛は叔孫に言った。壬様をご主君にお目見えさせてはいかがでしょう、と。
叔孫は言った。まだ子供であり、まだ会わせるには足りぬ、と。
豎牛は言う、壬様はすでにたびたびご主君にお目見えになり、ご主君は玉環を賜っており、壬様はそれを身につけております、と。
叔孫が壬を呼び出して会ってみると、たしかに玉環を身につけていた。叔孫は怒り、壬を殺してしまった。

壬の兄を丙という。
豎牛はまた妬んで丙も殺そうとした。
叔孫は丙のために鐘を鋳た。鐘が出来上がったが、丙はまだ打ち鳴らさず、豎牛に鐘を打ち鳴らす許可を叔孫に請わせた。
豎牛は丙のために叔孫に請わず、また丙を欺いて言った。私はすでにあなたの為に叔孫様に打ってもよいとの許可を得てきました。
そこで丙は鐘を打ち鳴らした。
叔孫はこれを聞きつけて言った。丙は私の許可を請わずに勝手に鐘を打った、と。叔孫は怒って丙を追放した。
丙は出奔し斉へ走った。一年がたち、豎牛は丙のために叔孫に詫び、叔孫は豎牛に丙を呼び戻すよう命じた。
豎牛はまた丙を呼び戻さずに叔孫に報告して言うに、私は丙様を呼び戻そうとしましたが、丙様の怒りははなはだしく、あえていらっしゃいません、と。
叔孫は大いに怒り、丙を殺させた。

二人の子供は既に死に、やがて叔孫も病に伏した。
そこで豎牛はひとりで叔孫の世話をし、左右の者を退けて人を近づけずに言うには、叔孫様は人の声を聞きたくないと仰っている、と。
そして何も食わせず飢え死させた。
叔孫が死ぬと豎牛は喪を発せず、倉の宝物を取り出し、空にして斉へ逃げた。
これは叔孫が自分の信用している豎牛の言いなりになり、父子共に人の笑いものとなった。
これが臣下の言を事実と突き合わせて確かめなかったことによる害である。

江乞は魏王の使者として楚へ赴いた。
楚王に言うには、私は楚王の領内に入り、楚の国の風俗について聞きました。すると、君子たる者は人の美点を隠さず、人の悪いところを言わない、とのこと。これは本当のことなのですか、と。
王は答える。その通りだ、と。
江乞は言う。ならば白公の乱のような場合、実に危険でございますな。本当にその通りでありますなら、私でも死罪を免れることができますな、と。

衛の嗣君は如耳を重用し、世姫を寵愛した。
しかしその寵愛につけ込んで己を塞ぎ欺くことを恐れ、薄疑の位を上げて如耳と対立させ、魏姫の位を上げて世姫と同等にし、言った。これで両方を比べれば良い、と。
嗣君は己が塞ぎ欺かれることがないようにとしながら、その術を会得していなかった。
身分の低い者でも身分の高い者のことを論じてよく、下役は必ず上役に連座する、というようにしておかず、権勢の重さを等しくし、その後に互いに論議させるのでは、ますます君主を塞ぎ欺く臣下を作ることになる。
嗣君が塞ぎ欺かれることがここから始まったのである。
矢が飛んでくるとき、その方向が決まっていれば、鉄板を重ねてそのひとつの方向に備える。
矢が飛んでくる方向が決まっていなければ、鉄板で囲んだ部屋を設けて四方八方に備える。
こうして備えれば体は傷つかない。
つまり、矢に対しては四方八方に備えれば傷つかず、臣下に対してはことごとく敵対する者に備えるから、姦臣はいなくなるのである。

龐恭は太子の供をして邯鄲へ人質として向かうことになった。
そこで魏王に言った。今、一人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。
王は、信じない、と答えた。
では、二人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。
王は、信じない、と答えた。
では、三人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。
王は、信じるだろう、と答えた。
龐恭は言った。街に虎がいないことは明らかですが、三人が言えば、虎が出たことになります。今、私は邯鄲へ行くために魏を去りますが、そこは街に行くよりはるかに遠いのです。私についてあれこれ言う者は三人ではとどまらないでしょう。願わくば、王はこのことをよくお考えください、と。
しかしその後、龐恭は邯鄲から帰ってきたが、魏王に謁見することを許されなくなっていた。

董閼于は趙の上地の長官になり、石邑の山中を巡察した。
そこの谷が深く切り立った様子は塀のようで、その谷の深さは百仭もある。
そこでその集落の者に問うた。誰かここおに落ちた者はいるか、と。
答えて言う。おりません、と。
問う。赤子、白痴、盲人、聾人、罪人などでここに落ちた者はいるか、と。
答えて言う。おりません、と。
牛、馬、犬、豚などでここに落ちた者はいるか、と。
答えて言う、おりません、と。
そこで董閼于ため息をついて言った。私は治めることができる、と。
私が発する法令に容赦するところがないようにし、この谷に落ちたら必ず死ぬのと同じようにすれば、誰もこれを犯そうとは思わないだろう。これでどうして治らないことなどあろうか、と。

子産は鄭の宰相だった。
病で死に臨み、游吉に言い聞かせた。私が死んだ後は、君がきっと鄭を治めることになるだろう。その時は必ず厳格に人に対処しなさい。
あの火というものは見た目からして恐ろしい。だから火で怪我をする者は少ない。
ところが水は見た目が優しいので、水で溺れてしまう人が多い。
君は必ず刑罰を厳しくし、優しさによって人々を溺れさすようなことがないようにしなさい、と。
そして子産は死んだ。
游吉はなかなか刑罰を厳しくしなかった。
鄭の若者は徒党を組んで盗みをはたらき、雚澤を拠点にし、ついには鄭の害となりそうである。そこで游吉は戦車や騎兵を率いて戦った。一日一夜かかってようやくこれを打ち破った。
游吉はため息をついて言うに、私がもっと早くに子産様の教えの通りに行っていたら、このようになって後悔することはなかったであろうな、と。

魯の哀公が仲尼に問うた。春秋の記述に、冬十二月、霜が降ったが菽は枯れなかった、とあるが、何故これを記したのですか、と。
仲尼は答えて言う。これは殺すねきであるのに殺さなかったことを言うのです。殺すべきであるのに殺さずにいると、梅や李が冬に実るでしょう。天が道を失えば、草木までもがこの道に背こうとするのです。ましてや人の世の君主においてその道に背くなら、なおさらのことです、と。

殷の法律では、灰を街路に捨てた者は死刑となった。
子貢はそれは重すぎると思い、仲尼に問うた。
仲尼は言う。それは政治の道理を知っているからだ。灰を街路に捨てると、他の人にかかる。他の人にかかれば、その人は怒るだろう。怒れば争いになる。争いになれば三族同士が殺し合うことになる。灰を捨てるということは、三族同士の殺し合いの原因である。だから死刑としても良いのだ。
そして重罰は人が嫌うものであり、灰を捨てないというのは簡単なことであり、人に簡単なことをさせて嫌うことを避けさせるのは、政治の道理なのである、と。

また一説にはこうだ。
殷の法律では灰を公道に捨てた者は、手を切断される罰を受けた。
子貢が言うに、灰を捨てるという罪は軽く、手を切断される罰は重い、昔の人は何と剛毅なことでしょう、と。
すると仲尼が言うに、灰を捨てないというのは簡単なことであり、手を切断されるのは嫌がることである。簡単なことによって、嫌なことことにあわない、昔の人はこれはやり易いと考えたからこそ、この法律を実行したのだよ、と。

中山の宰相、楽池が車百乗を率いて趙への使者として行くことになった。
自分の食客の中から智恵と能力のありそうな者を選び、行列の将とした。
途中で行列が乱れた。
楽池がその食客に言った。私はあなたは智恵者だと思って、行列の将にしたのに、途中で行列が乱れるとは何ごとか、と。
食客は任を辞して言った。あなたは政治を知らない。罰があれば人を服従させることができ、賞があれば人を奨励させることができるから、人は治まるのです。ところが今、私は若輩者の食客にすぎません。年少者が年長者を監督し、下賤の者が高貴な者を治めるのに、賞罰の権限を持って彼らを制することができないので、乱れたというのが理由です。
試しに私に彼らの働きの中で善い者は大臣に取り立て、善くない者は私に斬首の刑を実行させれば、どうして治らないことなどありましょうや、と。

公孫鞅の法では、軽い罪でも重く罰する。
重罪は人が犯しにくいもので、小さな過失は人が気をつけることができるものである。人にその容易に気をつけさせ、犯しにくい重罪をさらに犯しにくくさせる。これが政治のやり方である。
小さな過失は生ぜず、大罪にもならなければ、人々に罪を犯すものはなく、国の乱れも生じないのである。

また一説に言う。
公孫鞅が言うに、刑を行うとき、軽罪を重く罰せば、軽罪を犯す者はいなくなり、重罪を犯す者も出てこない。これが刑をもって刑を去る、ということだ、と。

荊南の地、麗水の中で金が採れるので、金を盗み採る者が多かった。
金を盗み採ることへの禁令は、捕まれば市場で磔にされる。
しかし盗む者はとても多く、麗水に柵をめぐらせ入れなくしても、金を盗みにくる者が絶えない。
罪罰として市場に磔にされるより重い刑はないのに、それでもやめないのは、必ずしも捕まらないからである。
つまり、今ここに人がいて、そなたに天下を与える、しかしそなたを殺す、と言えば、凡庸な人でも受けないだろう。
天下を手に入れるのは大きな利益である。それだも受けないのは、必ず殺されることがわかっているからである。
ゆえに必ずしも捕まらなければ、磔にされるといえども、金を盗む者は絶えない。必ず死ぬとわかれば、天下でさえも受けないであろう。

魯の人が積澤で焼き狩りをした。北風が吹いて火が南に広がり、都までも焼いてしまう恐れがある。
哀公は心配し、自ら人々を指揮し、火を消すことを促した。
しかし左右に従う人はなく、皆が獣を追い、火を消そうとしない。
そこで仲尼を召し寄せて問うた。
仲尼は言う。獣を追う者は楽しみこそあれ罰はなく、火を消す者は苦しいばかりで賞もない、これが火を消す者がいない理由です、と。
哀公は、よろしい、と言った。
仲尼は続けて言う。事は急を要します。賞を与える余裕もありません。火を消す者すべてを賞せば、国を分けても足りません。そこで罰だけを与えるようにしてはどうでしょう、と。
哀公は、よろしい、と言った。
そこで仲尼は命令を下して言った。火を消さない者は敵に降るのと同等の罪とし、獣を追う者は禁止されている区域に入ったのと同等の罪とする、と。
命令が下々に行き渡らぬうちに、火は消されてしまった。

成驩は斉王に言った。王は余りにも仁であり、余りにも情け深いお方です、と。
王は言った。余りにも仁、余りにも情け深いのは、善い評判ではないか、と。
成驩は応えて言った。それは臣下であればこその善い評判なのであり、君主が行うべきことではありません、と。臣下であれば仁であってこそ、君主は共に相談ができ、人に対して情け深くてこそ近く交わることができるのです。不仁では相談できないし、情け深くなければ近く交わることもできません、と。
王は問う。それならば儂のどの部分が余りに仁で、余りに情け深いのか、と。
成驩は応えて、王は薛公に対して仁で、田氏一族に対して情け深いのです。薛公にばかり仁に過ぎれば他の大臣は軽く見え、田氏一族に情け深すぎると王本家の父兄が法を犯しましょう。諸大臣が重く扱われなければ、兵は弱くなり、本家の父兄が法を犯せば内政は乱れます。兵は弱く、政治も乱れるのでは、国が滅びるもとでございます、と。

魏の恵王が卜皮に問うた。私の評判について君はどのように聞いているかね、と。
卜皮が答えて言う。私は、王が慈恵であると聞いております、と。
王はたいそう喜んで言った。それならば私の功績はどういうことになるだろうか、と。
卜皮が答えて言うに、王の慈恵は国を亡ぼすおとになりましょう、と。
王は言う。慈恵は善の行いである。それを行って亡ぶとはどういうことかね、と。
卜皮は答えて言う。そもそも慈であれば人を気の毒がり、恵であれば人に与えることを好みます。人を気の毒がれば、過ちがあっても罰せず、与えることを好めば、まだ功績がないのに賞を与えます。過ちがあっても罰せず、功績もないのに賞せば、国が亡びると言ってもよいのではありませんか、と。

斉国では葬儀を厚く行うことが好まれた。
布織物は死者に着せる衣服や覆いに使い尽くされ、材木は棺に使い尽くされる。
桓公はこれを憂いて管仲に言った。布織物が尽きては弊帛をつくることができず、材木が尽きては防備を固めることができない。しかし、人々は葬儀を厚くして止めることはない。これを止めさせるにはどうしたらいいか、と。
管仲は答えて言った。だいたい人が何かをするのは、名誉のためか利益のためです、と。
そこで法令を出して告げた。棺が度を超えて立派であれば、その尸を打ち壊し、その喪主にあたる者を罰する、と。
尸を打ち壊されては名誉を損ない、喪主が罰せられては利益もない。これでは何の為に葬儀を厚くするだろうか。

衛の嗣君の時、囚人が脱走して魏へ行き、襄王の后に仕えて病を治療した。衛の嗣君はこれを聞き、使者に五十金を持たせてその囚人を譲り受けようとした。しかし使者が五度往復しても魏王は承諾しない。そこで左氏の地をもって囚人と交換しようとした。
群臣みなこれを諫めて言う。都ひとつで囚人を買うのはいかがなものでしょう、と。
衛君は答えて言う。君たちのわかることではない。国を治めるには何事も小さいこととせず、乱が起きても大きなことだとしない。法が守られず罰が行われないなら、左氏が十あったとしても利益はない。法が守られ罰が行われるなら、左氏を十失っても損害とはならない、と。
魏王はこれを聞いて言った。君主が国をよく治めようとしているのに、それを聴かないのは不詳である、と。
そして囚人を車で護送し、そのまま衛君に献じた。

斉王は文子に問うた。国を治めるにはどのようにするのか、と。
答えて言うに、賞罰による方法が有効です。君主が固くこの権限を握り、人に見せてはなりません。そうすれば臣下は鹿も同然で、茂った草のあるところに行くだけです、と。

越王は大夫文種に問うた。私は呉を伐とうと思うがどうだろうか、と。
答えて言う。よろしいでしょう。私は賞を厚くして必ず与え、罰は厳しくして必ず行って参りました。これを確かめたいなら、試しに宮殿に火をかけてみてください、と。
そこで王は宮殿に火をかけた。しかし誰も火を消そうとしない。
そこで命令を発して言った。
火を消して死んだ者は、敵と戦って死んだ者と同等に賞する。
火を消しても死ななかった者は、敵に勝った者と同等に賞する。
火を消さない者は、敵に降るのと同等の罪とする、と。
人々は体に泥を塗り、濡れた衣服を着て火に入る者が、左から三千人、右からも三千人であった。
王はこれで必勝の勢があることがわかった。

呉起は魏の武侯に仕え、西河の太守となった。
秦との国境に秦の砦あり、呉起はこれを攻めようと考えた。これを攻め、除かなければ農民たちに害を及ぼすからだ。これを除くのに軍勢を徴収するほどのことでもない。
そこで呉起は車の長柄を北門の外に立てかけて、令を発した。これを南門の外に移すことができた者には上等の田地と上等の住宅を与える、と。
しかし、これを移そうとする者はあらわれない。そのうち、これを移す者があらわれると、令を発した通りに賞を与えた。
にわかにまた一石の赤菽を東門の外に置き、令を発した。これを西門の外に移すとができた者には、前と同じように賞を与える、と。人々は先を争ってこれを移した。
そこで呉起は命令を下して言った。明日、あの砦を攻める。一番乗りできた者は大夫に任じ、上等の田地と上等の住宅を与える、と。
人々は先を争って攻め寄せ、朝のうちにこれを攻め落とした。

李悝が魏の文侯に仕えて上地の太守となった。
そして人々が皆、巧みに弓を射ることができるようにと望んだ。
そこで法令を発して言った。どちらが正しいか疑わしい訴訟については、その両者に的を射させ、命中した者を勝ちとし、命中しなかった者を負けとする、と。
法令が発せられるや、人々はすぐに弓を習い、日夜休みもしない。
やがて秦と戦うことになり、大いに秦を打ち破った。これは人々が弓矢を射るのが巧みであったためである。

宋の崇門の町人が親の喪に服して衰え、甚だ痩せた。
宋君は親孝行であるとして、取り立てて官職を与えた。
翌年、親の喪に服して衰弱死する者が十数人にのぼった。子が親の喪に服するのは、親を愛するがためである。しかし、それでさえも賞によって奨励することができる。
ましてや民の君主に対する態度については、なおさらのことである。

越王は呉を伐とうと考え、国民が死を軽んじて戦ってくれることを望んだ。
そこで外出して蛙が力んでいる姿を見て、車上から敬礼をした。
従者が言う。なぜ蛙に敬礼をなさるのですか、と。
王は言答えた。それは勇気があると見えたからである、と。
翌年、己の首を王に献上しようと願い出る者が十数人いた。
このことから見ると、誉めるということでも人を死なせることができるということだ。

また一説に言う。
越王勾踐は蛙が力んでいるのを見て、車上から敬礼をした。
御者は、なぜ敬礼をするのですかと尋ねた。
王は言う。蛙にもこのように勇気があるのだ。敬意を表さずにはおけないだろう、と。
士人がこれを聞いて言った。勇気を見せた蛙にでさえ、王は敬意を表すのだ。士人で勇気がある者に対しては言うまでもなかろう、と。
この年、自分で首を斬って死に、その首を王に献上する者がいた。

越王は呉に復讐しようとして、国民の訓練をした。
楼台を焼いて太鼓を鳴らし、人々を火に飛び込ませたのは、火を消すことに賞があったからである。
河に臨んで太鼓を鳴らし、人々を水に飛び込ませたのは、河を渡ることに賞があったからである。
いざ戦いに臨んで人々に首を斬られ、腹を裂かれても後ろを振り返らなかったのは、戦うことに賞があったからである。
法によって政治を行う賢士を取り立てたならば、その功績はこれよりも甚だ大きいであろう。

韓の昭侯が人に命じて自分が履き古した袴をしまわせた。
侍従が言った。それでは不仁です。履き古した袴さえも左右の者に賜らずにしまってしまうのですから、と。
昭侯は言う。お前にはわからぬことであろうよ。私は聞いているのだ。名君たる者、一嚬一笑をも惜しむものだ、と。つまり眉をひそめるには眉をひそめるべきことがあり、笑ってみせるのには笑ってみせるべきことがあるのだ。今、それが袴ともなれば、ただ眉をひそめるとか笑ってみせるとといったこととはほど遠い。私は必ずやそれ相応の功績のある者を待って与えねばならない。だからこれをしまっておいて、まだ誰にも与えないのだ、と。

鰻は蛇に似ており、蚕は芋虫に似ている。
人は蛇を見れば驚き、芋虫を見れば身の毛がよだつ。
しかし女たちは蚕を手で摘み、漁師は鰻を手で握る。
つまり、利のあるところには、その嫌悪感を忘れて、皆、孟賁のような勇者となるのだ。

魏王が鄭王に言った。もともと鄭と魏はひとつの国だったのに、それが今では別れてしまっている。そこで今、願わくばまた鄭を頂戴し、魏に合わせたい、と。
鄭君はこれを心配し、群臣を集めて魏に答える内容を相談した。
すると公子が鄭君に言った。これは答えやすいことです。ご主君、魏にこうお答えください。鄭がもともと魏であったから併合してよいのなら、我々もまた魏を頂戴して鄭に合わせたい、と。
その後、魏王の要求は止んだ。

斉の宣王は楽士に竽を吹かせる時は、必ず三百人に吹かせていた。
南郭処士は願い出て王の前で竽を吹いた。宣王は悦び、俸禄に数百人分を与えた。
やがて宣王は死に、湣王が即位した。湣王はひとりひとりに吹かせて聴くことを好んだ。
そこで南郭処士は逃げ去った。

また一説にはこうある。
韓の昭侯は言った。竽を吹く者が多ければ、私は誰が上手なのかを知ることができない、と。
田厳が答えた。ならばひとりひとりに吹かせてお聴きになるのがよろしい、と。

趙が人を韓の申不害に遣わし、韓から兵を借りようとした。魏を攻めようとのためである。
申不害は趙の申し出を韓王へ取り次ごうとしたが、君主に、申不害自身が外国に自分の名を売ろうとしているのではないかと疑われるのを恐れた。また、取り次がなければ趙から憎まれるであろうことを恐れた。
そこで趙紹と韓沓に韓王の顔色を伺わせてから趙の申し出を取り次いだ。
こうして内は昭侯の心の内を知り、外は趙によく思われるという功を得た。

三国の兵が秦に攻め寄せた。
秦王は楼緩に言った。三国の兵が深く攻め入った。私は河東の地を割譲して講和を結びたいと思うが、どうだろうか、と。
楼緩は答えて言った。河東を割譲するのは大きな損失ですが、国難を免れるのは大きな功績です。これは王家の長老がたの任です。王はどうか公子汜様をお召しになりお尋ねください、と。
王は公子汜を召し出し、尋ねた。
汜が答えて、講和を結んでも悔い、講和を結ばなくてもまた悔いるでしょう。王が今、河東を割譲して講和を申し出れば、三国は帰国するでしょう。すると王は必ず言うでしょう、三国はもともと引き揚げようとしていたのだ。私はただ河東の三城を贈っただけだ、と。講和せねば、三国は秦へ入り、国は必ず大いに攻め取られるでしょう。王は必ず大いに悔いて言うでしょう、三城を与えなかったからだ、と。
王は言った。どのみち悔いるのなら、私は三城を失って悔いよう。国を危険にさらして悔いることのないよう、私は講和をすることに決めた、と。

秦の応侯が王に言った。王は楚の宛、葉、藍田、陽夏を手に入れ、魏の河内を押さえ、魏と韓を苦しめているのに、いまだに天下の王となれないのは、趙がまだ服従しないからです。上党の兵を移して、趙の東陽に向ければ、邯鄲は口中の虱も同然。王は手招きをして諸侯を招集し、遅れた者には兵をもって応じるのがよいでしょう。しかし、上党は安楽で、その地を守る兵はとても重要です。私はその兵を移そうとしても、反対されることが心配です。いかがお考えでしょうか、と。
王は答えた。必ずこの兵を移すこととしよう、と。

龐敬は県令である。
市場を治める役人に巡察をさせ、他の官吏を召し出して、市場の役人を呼び返した。
その役人が立ってしばらく待っても、龐敬は何を告げるでもなくまた巡察をさせた。
市場の役人は県令が他の官吏と何を話したのか疑念を抱いた。それによって役人たちの悪事が無くなった。

戴驩は宋の宰相である。
夜、人を使いに出して言った。私は聞いたことによると、毎晩のように轀車に乗って李史の家に来る者がいるらしい。しっかりと私の為に様子を探ってくるように、と。
使いに出た者が報告して言うには、轀車は見ませんでしたが、箱を持ってきて李史と話す者を見かけました。しばらくして李史はその箱を受け取りました、と。

周の君主が玉の簪を失った。
役人にこれを探させたが、三日かかっても見つけることができなかった。
周の君主は他の人にこれを探させたところ、家人の部屋で見つかった。
周の君主は言った。私は役人が仕事を仕事としてこなすことができないのだとわかった。簪を探すのに三日かかっても見つけられない。ところが私が別の者に探させたら、日を移さずに見つけることができたのに、と。
これで役人たちは皆驚き、ご主君は神の如く明察であると思った。

商の宰相が少庶子を市場へ行かせた。
そして戻ってきてから問うた。何か市場で見たか、と。
答えて言うには、特に見たものはありません。
宰相はさらに問う。そうはいっても何か見ただろう、と。
答えて言う、市場の南門の外に牛車が多く集まり、やっとのことで通れました、と。
宰相はそこで少庶子に、私がそなたに問うたことを他の人に話してはいけないと戒めて、市場の役人を召し出して責めて言った。市場の門の外にどうして牛糞が多いのか、と。
市場の役人は、宰相がこのことを知るのが速いことを不思議に思い、自分の役目を恐れ謹んで務めた。

韓の昭侯は自分の切った爪を握っておいて、詐ってひとつを無くしたと言い、これを探すよう急き立てた。
左右の者が自分の爪を切って、見つけたと言い差し出した。
昭侯はこれによって左右の者が誠実か否かを知った。

韓の昭侯が騎馬の使者を県城へ使いにやった。使者は戻って報告した。
昭侯は問うた。何を見たか、と。
すると答えて、特に見たものはございません、と。
昭侯はさらに言った。そうはいっても何か見ただろう、と。
使者は答えた。南門の外で黄色い子牛が道の端で苗を食べていました、と。
そこで昭侯は使者に戒めて言った。私がそなたに問うたことを他の人に話してはいけない、と。
そして命令を下して言った。苗が育つ時期に牛馬を田の中に入れてはならぬ、との禁令を出していたのに、役人はこのことを守らず、牛馬がはなはだ多く田の中に入っている。速やかにその数を調べて報告せよ。できねばその罪は重いぞ、と。
そこで街のすべての地域から結果を報告した。
昭侯は言う。まだ充分ではない、と。
役人が再び出向いて調べると、南門の外に黄色い子牛を見つけた。
役人は昭侯を明察だと思い、皆自分の役目を恐れ謹んで務め、悪事をなそうとはしなかった。

周の君主が命じて自分の無くした曲杖を探させた。
役人がこれを探すこと数日、見つけることができなかった。
周の君主が密かに人をやって探させたところ、日を移さずに見つかった。
そこで役人たちに言った。私は役人が仕事を仕事としてこなすことができないのだとわかった。曲杖を探すなど容易いことであるのに、役人は見つけることができない。私が人をやってこれを探させたところ、日を移さずに見つかった。これをどうして誠実と言うことができようか、と。
役人たちは皆自分の役目を恐れ謹んで務め、君主を神の如く明察だと思った。

卜皮は県令である。その御史が汚職にまみれ、愛妾もいた。
そこで卜皮は少庶子に命じて偽ってその妾に言い寄らせ、御史の隠し事を知った。

西門豹は鄴の長官である。
あるとき、偽って車轄を失ったと言い、役人にこれを探させたが見つけることができない。
他の人に探させたところ、家人の屋敷で見つかった。

山陽君は衛の宰相である。
あるとき、王が自分のことを疑っていると聞き、偽って王の寵臣の樛豎を謗り、王の心の内を知った。

淖歯は斉王が自分のことを憎んでいると聞くと、偽って秦からの使者として王へ送り込み、王の心の内を知った。

斉の人で反乱を起こそうとした者がいた。
王がこれを知ってしまうことを恐れ、偽って自分の愛臣を追い出し、王のもとへ逃げ走らせ、王の心の内を知った。

子之は燕の宰相である。
あるとき、室内に座したまま偽って言った。今、走って門から出て行ったのはどこの白馬だろうか、と。
左右の者は皆、見ておりません、と言った。
しかし一人が走って追いかけ、戻ってきて報告して、先ほどの白馬がいました、と言った。
子之はこれによって左右の者が誠実か否かを知った。

二人が共に訴えあった。
子産は二人を離して論じ合うことができぬようにし、お互いの言い分を逆にしてそれぞれに告げて、その真相を知った。

衛の嗣公が人を旅人に仕立てて市場の関門を通過させてみた。
関門の役人が無理難題を言って調べてくるので、金を与えてご機嫌伺いをした。
役人はすぐにこれを許して通した。
嗣公は関門の役人に言った。あのとき、旅人がいて、そなたの関門を通るとき、そなたに金を与えたらすぐに通したであろう、と。
役人は大いに恐れ入って、嗣公を明察だと思った。




テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。
中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

通背拳の伝承、指導。
日本白猿通背拳研究会を設立。

儒学者、近藤篤山の研究。
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
http://p-kies.net/rongo/#r1/

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