韓非子 説林 上

1)
殷の湯王は夏の桀王を滅ぼして世界中から自分を貪欲だと言われることを恐れた。そこで天下を務光に譲ろうとしたが、実際は、本当に務光に受けられると困ると思っていた。そこで人を務光に遣わして説かせた。
「湯王は主君であった桀王を殺しました。湯王は、その主君殺しの悪評をあなたに押し付けようとして、天下を譲ると言っているのです」と。
務光はそれを聞いて自分から黄河に身を投げた。

2)
秦の武王が甘茂に侍従と外交官とどちらをやりたいかを選ばせた。
孟卯は言う。「あなたは侍従になる方が良い。あなたは外交手腕に優れているから、侍従になっても、王はあなたに外交を任せるだろう。あなたは侍従の印を提げ、外交官でもあり、兼任することができる」と。

3)
子圉は孔子を宋の宰相に引き合わせた。孔子が退出すると、子圉が入っていって「宰相に孔子はどうでしたか」と尋ねた。
宰相が言うには「孔子に会ったあとで、そなたを見ると、そなたは蚤や虱のようにちっぽけに見える。私はすぐにでも孔子を主君に会わせよう」
子圉は孔子が主君に重用されては困ると思い、宰相にこう言った。「主君が孔子に会ったあとであなたにお会いになると、主君もあなたのことを蚤や虱のようにちっぽけに見えるのでしょうな」
宰相はその後、孔子を主君に引き合わせることはなかった。

4)
魏の恵王が臼里の地で会盟を開いて周王朝の天子の復権をはかろうとした。
彭喜は鄭の君主に言った。「従ってはいけません。大国にとって天子の存在は邪魔ですが、小国にとっては利になります。もし主君が他の大国と一緒に従わなければ魏は小国と組んで天子をたてたりしないでしょう」

5)
晋国が邢を攻めた。斉の桓公がそれを救おうとした。
すると鮑叔が言った。「まだ早いです。邢が滅びなければ晋は疲弊しません。晋が疲弊しなければ斉の力は強くなりません。それに、危機を救ってやる功績より、滅んだ国を復興してやる方が評判がより大きくなります。主君、救いに行くのはもっと遅くして晋を疲弊させましょう。そうすれば我が斉に実利をもたらします。さらに邢が滅びるのを待ってから復興させます。そうすれば斉の名声もまた高まるでしょう」
これを聞いた桓公は邢をすぐに救いに行くのをやめた。

6)
伍子胥が楚から出奔した。いよいよ国境という時に、国境の見張り役に見つかった。
伍子胥は言う。「お上が私を追っているのは、私が美しい宝玉を持っているからだ。しかし、今はその宝玉を無くしてしまった。私を捕らえるというなら、私はあなたが私の宝玉を奪って呑み込んでしまった、と言おう」
国境の見張り役はそれを聞いて伍子胥を見逃した。

7)
慶封は斉で反乱を起こし、越に亡命しようとした。
一族の者が言う。「晋の国の方が斉から近い。どうして晋に行かないのか」と。
慶封は言う。「越は遠い。だからこそ災難を避けるのには良いのだ」と。
一族の者は言う。「反乱を起こそうとするその心根を改めれば、晋に居ても問題ない。その心根を改めなければ、遠く越の国へ行ったとて穏やかには過ごせまい」

8)
智伯は魏宣子に土地を譲るように要求した。
しかし魏宣子は与えなかった。任章は何故与えないのかと問うた。
魏宣子は言う。「理由もなく土地を要求してきたから与えないのだ」と。
任章は言う。「理由もないのに土地を要求すれば隣国はきっと恐れるでしょう。智伯が欲深くことごとく奪おうとすれば、天下はみな必ず恐れるでしょう。ご主君、土地をお与えなされ。土地を与れば智伯は必ず驕り、敵を軽視するでしょう。そうすれば近隣の国々は恐れて親密に連合するでしょう。親密に連合した軍で敵を軽視している国に当たれば、智伯の命運は尽きたも同然です。周書に「これを破ろうと思えば、まずはしばらくこれを助けよ。これを奪おうと思えば、まずはしばらくこれに与えよ」とあります。ご主君、まずは智伯に土地を与えて驕らせるのがよいでしょう。ご主君はどうして天下の諸国と智伯を討つ相談をせずに、ひとり我が国だけが智伯の標的になろうとするのですか」と。
君主は「よし」と言い、智伯に一万戸の土地を与えた。
智伯はとても喜び、趙へも土地を要求した。
しかし趙は与えない。そこで智伯は趙の晋陽を包囲した。
韓と魏はその外側で寝返り、趙は内側から呼応し、智氏は滅んだ。

9)
秦の康公が楼台を築いて三年が過ぎた。その頃、楚が軍を起こし、斉を攻めようとした。
任妄が康公に言う。「餓えが兵を招き、病が兵を招き、労役が兵を招き、乱が兵を招きます。ご主君は楼台を築いて三年。今、楚は軍を起こしました。楚は斉を攻めようとしていますが、私は斉を攻めると公言しながら、実は秦を襲おうとしているのではと恐れています。防備を固めておくに越したことはありません」
そこで東の国境の防備を固めた。楚は進軍を取りやめた。

10)
斉が宋を攻めた。宋は臧孫子を南方へ遣わし、楚へ救援を求めさせた。
楚は大いに悦び、救援を承諾して歓待した。
臧孫子は浮かぬ顔で宋へ帰った。 御者が「救援を得たのに、どうしてそんな浮かぬ顔をしているのですか」と。
臧孫子は答えて言う。「宋は小国で斉は大国だ。小国の宋を救って大国の斉に憎まれるのは、誰でも心配することだ。しかし楚王が悦んだのは、我々に堅く守らせるためだ。我々が堅く守って斉が疲弊すれば、楚の利益となる」と。
臧孫子は宋に帰り、斉は宋を攻め、城を五つも落としたが、いまだに楚の救援が来ることがなかった。

11)
魏の文侯は趙を通してもらい、中山を攻めようとした。趙の粛侯は許そうとしなかった。
すると趙刻が言う。「それは誤りです。もし魏が中山を攻めて、取ることができなかったら、魏は疲弊するでしょう。疲弊すれば魏は軽くなり、魏が軽くなれば趙は重くなります。魏が中山を攻めて抜いても、趙を越えて中山を治めることはできないでしょう。兵を用いるのは魏、そして領土を得るのは趙となります。ご主君は魏の申し出をお受けください。ただし、許可して大いに歓迎すれば、使者はご主君が利益を得ようとしていると察し、行軍を取りやめようとするでしょう。ご主君は道を貸すけれど、やむを得ないからだと示すのがよろしいでしょう」

12)
鴟夷子皮は田成子に仕えた。田成子は斉を去り、燕へ向かった。
鴟夷子皮は通行手形を持って供をして、望という町にたどり着いた。
鴟夷子皮が言う。「あなたは涸澤の蛇の話をご存知ですか。涸澤の蛇が住まいを移そうとしたとき、小蛇がいて、大蛇にこう言いました。あなたが先に行って私がその後について行けば、人はただ蛇が行くと思うだけです。中にはあなたを殺そうとする者も出てくるでしょう。そこであなたが私の尾を咥えて、私をあなたの背に乗せて進むのが良い方法で、そうすれば人々は私を神様だと思うでしょう。そこで大蛇はその通りにして通りを進みました。すると人々は皆、道を避けて神様だと言い合いました。今、あなたは立派で私はみすぼらしい。あなたが私の主人とすると、あなたは小国の君でしかないけれど、あなたを私の従者とすると、あなたは大国の大臣です。ゆえに、あなたは私の家臣として見せた方が良いのです」
そこで田成子が通行手形を携えて従い、宿に着いた。宿の主人はとても丁重にもてなし、酒や肉を献上した。

13)
温の人が周へ行った。しかし周は外部の人間を入れなかった。外部の客人か、と問うた。それに答えて内部の主人だ、と言う。それならばと町の人間に尋ねたが、誰も彼を知らないという。役人は彼を捕らえた。
周の君主は人を遣わして尋ねさせた。「あなたは周の人間ではない。それなのに他国からの客人ではないというのは何故だ」答えて言う。「私は若い時に詩経を学びました。そこに、天下は全て王の土地。地の果てまで全て王の臣、とあります。周の君は天子です。だから私は天子の臣です。周の天子の臣である私を、どうして他所者だということができるでしょうか」と。
これを聞いた周の君主は彼を釈放した。

14)
韓の宣王が樛留に言った。「私は公仲と公叔の二人をどちらも重用したい。良いだろうか」
樛留は答えて言う。「だめです。晋は六卿を重用し、国を分裂させました。斉の簡公は田成と闞止を重用したために殺されました。魏は犀首と張儀を重用したために西河の外の領地を失いました。今、王がこの二人ともを重用すれば、勢力の大きい方は徒党を組み、勢力の小さい方は外国の力を借りるでしょう。群臣は徒党を組んで君主に対して驕り、他方では外国と組んで領土をその外国に分け与えるということになれば、王の国は危ういでしょう」

15)
紹績昧が酔って眠り、自分の皮の衣を無くしてしまった。
宋君が酒に酔ったくらいで自分の衣を無くすものか、と言った。
答えて言うには「桀は酔って天下を無くしました。康誥に「酒を彝にすることなかれ」とあります。彝にする、とは、常にすることで、酒を常に飲み続けると天子は天下を失い、匹夫はその身を失います」と。

16)
管仲と隰朋が桓公に従って孤竹を討伐した。
春に出陣して冬に帰ってきたので道に迷ってしまった。
管仲が言う。「老馬の知恵を借りましょう」と。老馬を放して後について行ったら、道が見つかった。
また、山の中で水が無くなった。
隰朋が言う。「蟻は冬には山の南にいて、夏には山の北にいます。蟻塚の高さが一寸ならば、その下一仞の深さに水があります」と。そこで地を掘り、水を得た。
管仲のような賢人や隰朋のような知者でも、自分の知らないことに出会うと老馬や蟻でさえ師とすることを憚らない。今の人は愚かな心を持ちながら聖人の知恵を師とすることさえ知らない。これは実に誤ったことである。

17)
不死の薬を楚王に献上した者がいた。取次の者がそれを持って奥へと入っていった。奥にいた侍従が尋ねた。「これは食えるのか」と。取次は「食えます」と答えた。そして侍従は薬を奪って食べてしまった。王は大いに怒り、臣下に命じて侍従を死刑にしようとした。
侍従は人を遣り王に説いてもらって言うには「私は取次に食えるかと問うたところ、食えるというから食いました。これは私に罪はなく、罪は取次にあります。また客は不死の薬を献上したのに、私がそれを食って王に殺されれば、これは死薬です。これでは客が王を欺いたことになります。無罪である私を殺して客が王を欺いたということを世に知らしめるより、私を許してしまう方がよろしいのでは」と。
これを聞いて王は死刑にするのをやめた。

18)
田駟が鄒君を欺いた。鄒君は人をやって田駟を殺そうとした。
田駟は恐れて恵子に相談した。
恵子は鄒君に見えて言った。「今、人がいて君主に見えるのに無礼にも片目を瞑っていたらどうしますか」
鄒君は「私なら必ず殺すだろう」と答えた。
恵子は続けて言う。「盲目の者は両目ともに瞑ります。この場合はどうして殺さないのですか」と。
鄒君は答える。「盲目なのだから瞑らないわけにはいかないだろう」
恵子は続けて言う。「田駟は東では斉侯を欺き、南では楚王を欺きました。田駟は人を欺くことに関しては盲目も同然です。そんな男を怨みなさるな」
そう言われて鄒君は殺すのをやめた。

19)
魯の穆公は自分の公子たちをあるいは晋に、あるいは楚に仕えさせた。
犁鉏は言った。「人を越から借りてきて溺れている子を救おうとするのでは、越の人の泳ぎが達者だといえども、子は救えないだろう。火事になったのに海から水を取ってくるようでは、いかに海に水が多いといえども、火を消すことはできないだろう。遠水は近火を救わず、である。今、晋と楚が強国だといえど、魯の敵である斉は近いので、魯の心配事は消えることがないだろう」

20)
韓の厳遂は周の君と仲が悪いので、周の君はこのことを気にしていた。
馮沮が周の君に言った。「厳遂は韓の宰相で、韓傀は韓の君に重んじられています。韓傀を暗殺するのが良いでしょう。そうすれば韓の君は厳遂の仕業だと思うでしょう」と。

21)
張譴は韓の宰相だったが、病にかかり死期が迫っていた。
公乗無正三十金を賄賂として懐に忍ばせて見舞った。
韓の君主が張譴を見舞い、問うた。「もしあなたが亡くなったら、後事を誰に託せば良いだろうか」と。
張譴は答えて言った。「無正は法を重んじ、上を敬う人物ですが、公子の食我が民の人望を得ているのには及びません」
張譴は亡くなり、公乗無正が宰相に任ぜられた。

22)
楽羊は魏の将軍となって中山を攻めた。
楽羊の子が中山にいたので中山の君主がその子を捕らえて殺し、その子の肉を煮て汁物を作って楽羊に送りつけた。楽羊は幕下に座してその汁を啜り、一杯を食べ尽くした。
魏の文侯は堵師賛に言った。「楽羊は私のために我が子の肉を食べたのだ」すると堵師賛は答える。「我が子の肉ですら食ったのです。一体誰の肉なら食わないというのでしょう」と。
楽羊が中山から帰ってきた。文侯はその戦功を賞したものの、楽羊の心の内を疑った。

孟孫が狩りに行き、子鹿を捕らえた。
秦西巴に命じて車に乗せて持ち帰らせようとしたところ、子鹿の母がついてきて啼くので、秦西巴は憐れんで子鹿を母鹿へ返した。
孟孫は帰ってきて秦西巴に子鹿を持ってくるよう命じた。
秦西巴が答えて言うには「憐れに思って母鹿に返しました」と。孟孫は大いに怒って秦西巴を追放した。
ところが三ヶ月後、再び秦西巴を呼び戻して自分の子の守り役に任じた。
御者が尋ねた。「先日は罰しようとしていたのに、今は召し戻して守り役にしたのはどうしてですか」と。
孟孫が言うには「子鹿でさえ憐れみいたわったのだから、私の子を可愛がらないはずがない」と。

だから言うのだ「巧詐は拙誠に如かず」と。
楽羊は功績があったのに疑われ、秦西巴は罪があったにも関わらずますます信用されたのだ。

23)
曾従子は剣の鑑定が得意であった。衛の君主は呉王を怨んでいた。
曾従子は言う。「呉王は剣を好みます。私は剣の鑑定者ですから、呉王のもとへ行って剣の鑑定をし、剣を抜きとって王に見せ、衛君のためにそのままこの剣で刺し殺して参りましょう」
衛君は言った。「あなたがそれをするのは義のためではなく、あなたの利益のためであろう。呉は強国で豊かだが、衛は弱国で貧しい。あなたが呉へ行ったらあなたは呉王のために今の策を私に対して使うのではないかと恐れるのだ」と。そして曾従子を追い出した。

24)
紂王が象牙の箸を作ったので、賢臣箕子は恐れて思うに「象牙の箸を使えば汁物を土器の器に入れず、きっと犀や玉の器に盛るだろう。玉杯や象牙の箸を使うなら、豆や葉の汁物など食べず、牛肉や象肉、豹の腹子などの珍味を食べるだろう。そうなると短い毛衣を着て茅葺屋根の家には住まず、錦の衣を何重にも着て広い高殿に住むようになる。この贅沢にしたがって求めていけば、天下の財を全て費やしても足りぬであろう」と。

「聖人は微を見て以って明を知り、端を見て以って末を知る」という。だから箕子が象牙の箸を見て恐れたのは、天下の財を全て費やしても王の贅沢は止まらないだろうと察したからである。

25)
周公旦は周がすでに殷に勝ってから商蓋を攻めようとした。
辛公甲が言った。「大敵は攻めにくく、小敵は服従させやすいものです。まず周りの小国を屈服させ、大国を脅かすのがよいでしょう」そこでまず九夷を攻めた。これにより商蓋は服従した。

26)
紂王は長夜の宴を催し、楽しんで日どりさえも忘れた。左右の者に尋ねたが、皆忘れ、誰も知らなかった。
そこで人を箕子へ遣わし尋ねさせた。
箕子は家中の者へ言った。「天下の主が日にちを忘れ、国中皆忘れるようでは天下は危うい。国中皆が知らぬのに、私だけが知っているのでは、我が身が危うい」
そこで使者には私も酒によって忘れた、と伝えた。

27)
魯に靴をうまく織る人がいた。その妻は絹を織るのがうまかった。この夫婦が越に移住しようと思った。
ある人が「越に行ったらあなた達は困ることになる」と言うので、「何故だね」と訳を尋ねた。
「靴は履くためのものだ。しかし越の人は裸足で歩く。また、絹の織物は帽子にするものだ。しかし越の人は髪のために帽子をかぶらない。あなた達の得意なことが必要とされていない国へ行こうというのだから、困らないようにと望んでも、叶わない話ではないか」と答えた。

28)
陳軫は魏王に重用されていた。
恵子が忠告した。「よく王の側近の者達に仕えなさい。楊という木は横に植えても生え、逆さまに植えても生え、折って植えても生える。しかし、十人で植えたとしても、一人がこれを抜いてしまえば皆枯れてしまう。十人で生えやすい楊を植えても、一人に勝てないのは何故か。植えるのは難しく、取り去るのは簡単だからだ。あなたは自分を王の心に植えつけるのは巧みだが、あなたを除こうとする者は多いので、その身は危ういよ」と。

29)
魯の季孫氏がその君主を殺害した頃、呉起は季孫氏に仕えていた。
ある人が呉起に言う。「死ぬとまず血が出て、その血が死血となり、死血が灰となり、灰が土となり、土に返ると、もはや変わらない。今、季孫氏は初めの血が出たばかりの頃であり、この先どうなるかわからない」
呉起はこれを聞いて季孫氏のもとを去り、晋へ行った。

30)
隰斯弥が田成子に会った。田成子は一緒に高台に登って四方を眺めた。三方はみな開けているが、南面のみ隰斯弥の家の樹木によって覆われていた。しかし田成子は何も言わなかった。
隰斯弥は帰って人に樹木を伐らせた。斧で数箇所割いたところで隰斯弥は中止させた。家老が「何故急に気が変わったのですか」と問うた。
隰斯弥は答えた。「古の諺に、深淵に潜む魚を知る者は不吉なり、とある。田成子は大事を成そうとしている。そこへ私が些細な事を察知する奴だと知れたら、私の身があやうい。樹木を伐らずとも罪にはならず、人が口に出さないことを知る罪の方が大きいのだ」こうして伐らなかった。

31)
楊子が宋国を通過するとき、東にある旅館に着いた。そこには給仕女が二人いた。
雇い値を尋ねると、容姿の悪い方が高く、容姿の良い方が安い。
楊子が訳を尋ねると、宿の主人が答えて言うには「美人は自分で美人だと鼻にかけているので私は美しいとは思いません。容姿の悪い方は自分で醜いと思って謙遜しているので、私は醜いとは思いません」と。
楊子は弟子に言った。「行動は賢者でありながら自らを賢者だと思う心を去れば、どこへ行っても褒められるであろう」と。

32)
衛の人が我が子を嫁がせる時に教えて言った。「きっとこっそり貯蓄しなさい。嫁に行っても、後で追い出されるというのは常のことで、うまく居つけたならば幸いというものだ」そこで娘はこっそりと貯蓄した。
そのうちに姑が自分勝手だとして離縁させた。
ところが、娘が実家に帰る時には嫁入りの時の倍の財産があった。その父は自分で子に悪事を教えたことを罪とは思わず、ますます豊かになったことを自慢した。今、各国の臣下で官職につくものは、皆、この類である。

33)
魯丹は三度中山の君主に説いたが受け入れられなかった。そこで五十金をばら撒いて左右の大臣のご機嫌伺いをした。そして再び君主に謁見した。まだ何も語っていないのに君主から食事を賜った。
魯丹は退出し、宿舎にも戻らずに中山を去った。
御者が言うには「君主に謁見して始めて歓迎されたのに、何故去るのですか」と。魯丹は言った。「他人のとりなしで私の扱いが良くなるのなら、他人の讒言によって私に罪を着せるであろう」と。
魯丹がまだ国境を出ないうちに、公子が君主に讒言して言った。「魯丹は趙のために来た間者です」と。中山の君主はこれを聞いて魯丹を探し出して罪した。

34)
田伯鼎は賢者を好んでおり、君主を救った。白公は賢者を好んでおり、楚国を乱した。
賢者を好むという点は同じだが、その行った結果は違っている。
公孫支は自ら足斬りをして賢者の百里を尊位におき、豎刁は自ら去勢して桓公に取り入った。
自らに刑罰を施した行為は同じだが、その理由は異なっている。
恵子は言う。「狂人が東へ走り、追う者も東へ走る。その東へ走るということは同じだが、東へ走る理由は違うのだ」と。
だから言うのだ。同じ行為をしている人でも、理由をよくよく観察せねばならぬ、と。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。
中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

通背拳の伝承、指導。
日本白猿通背拳研究会を設立。

儒学者、近藤篤山の研究。
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
http://p-kies.net/rongo/#r1/

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