韓非子 喩老

天下に道があり、危急な困難もなければ、世は静であると言い、駅伝の早馬を用いるようなことは起こらない。
ゆえに老子は言うのである。
早馬として用いずに田畑を耕すために用いる、と。

天下に道がなければ、戦争は止まず、国防すること数年に及び、甲冑には虱がわき、帷幄の中に燕や雀が巣を作り、しかも兵士は帰郷することもできない。
ゆえに老子は言うのである。
軍馬を君主の近臣から出さねばならない、と。


翟の人で大きな狐と黒豹の毛皮を晋の文公に献上した者がいた。
文公はその客の毛皮を受けて嘆いて言った。
この毛皮の美しさのせいでその身の禍となったのだ、と。

国を治める者が、名誉称号を求めたせいで身に禍したのは、徐の偃王がそうである。
城や土地を求めたせいで身に禍したのは、虞と虢の君がそうである。
ゆえに老子は言うのである。
罪は欲望よりも大きいものはない、と。


智伯は、范氏と中行氏を併合して趙を攻め、戦をやめずに続けたので、韓と魏が反き、智伯の軍は晋陽で敗れ、その身は高梁の東で死に、国は分けられ、その首は漆で塗られて酒器にされた。
ゆえに老子は言うのである。
禍は満足することを知らないことよりも大きいものはない、と。


虞君は屈の名馬四頭と垂棘の壁玉を欲しがり、宮之奇の諫言を聴かなかった。
ゆえに国は亡び、その身は死んだ。
ゆえに老子は言うのである。
咎は物を得ようとすることよりも痛ましいものはない、と。


国は存続していることが普通なのであり、覇王となるのはその上でのことである。
身は生きることが普通なのであり、富貴になるのはその上でのことである。
みずから自分を害することを欲しなければ、その国は亡びず、身は死なないだろう。
ゆえに老子は言うのである。
足るを知ること、これを満足すると言うのだ、と。


楚の荘王が晋に河雍で勝ち、帰って孫叔敖を賞した。
孫叔敖は漢水流域の砂や石ころばかりの地を請うた。
楚の国の法では、臣に禄を与えると孫の世代には没収することになっているが、ただ孫叔敖のみそのままであった。
国にその土地が没収されなかったのは、土地が痩せていたからである。
ゆえに九代ののちも先祖の祭祀が絶えることはなかった。
ゆえに老子は言うのである。
しっかり建てれば抜けず、しっかり抱えれば脱落せず、子孫は祭祀が代々絶えることはない、と。
孫叔敖のことを言ったのである。


統制の権力が己にあるのを重といい、己の地位を離れないのを静という。
重であれば軽を使うことができ、静であれば躁を使うことができる。
ゆえに老子は言うのである。
重は軽の根であり、静は躁の君となる、と。

ゆえにまた、老子は言うのである。
君子は終日旅をしても輜重から離れない、と。

国は君主にとっての輜重である。
趙の主父は生きているうちに国を子に譲った。
これはその輜重から離れたことになる。
ゆえに代や雲中の地を楽しんでいたが、すでに趙の国を失っていたのである。

主父は万乗の国の君主でありながら、その身をもって天下を軽々しく扱った。
威勢を無くしたことを軽といい、地位を離れたことを躁という。
こうして主父は生きながら幽閉されて死んでしまった。
ゆえに老子は言うのである。
軽であれば臣を失い、躁であれば君位を失う、と。
主父のことを言ったのである。


権勢が重いのは、君主にとっての淵である。
君主たる者が、権勢を臣下に対して失えば、再び取り戻すことはできない。
斉の簡公は権勢を田成子に奪われ、晋公は権勢を六卿に奪われ、国は亡び、その身は死んだ。
ゆえに老子は言うのである。
魚は深淵から抜け出してはいけない、と。


賞罰は国の鋭利な武器である。
君主にそれがあれば臣下を制することができ、臣下にそれがあれば君主に勝つことができる。
君主が賞しようと示せば、臣下は君主の賞を少なく見せかけて自分の恩徳を売り、君主が罰しようと示せば、臣下は君主の罰を重く見せかけて自分の権威を示す。
君主が賞を示すと、臣下はその権勢を利用し、君主が罰を示すと、臣下はその権威に便乗する。
ゆえに老子は言うのである。
国の鋭利な武器は、人に見せてはならない、と。


越王勾践は呉に敗れて呉王夫差のもとへ入朝して仕えた。
そして呉王に斉を伐つように勧め、呉を疲弊させようとした。
呉の兵が既に斉の兵と戦って艾陵で勝つと、長江から済水にかけて威勢を張り、黄地で会盟を開き、強大さを示した。
ゆえに越は五湖の地で呉を制圧することができた。
ゆえに老子は言うのである。
これを縮めたいと思えば、まずこれを張ってやれ。
これを弱めたいと思えば、まずこれを強くしてやれ、と。


晋の献公は虞を攻めようとして、まず玉璧と馬を贈った。
智伯は仇由を攻めようとして、まず大きな車を贈った。
ゆえに老子は言うのである。
これを取ろうと思えば、まず与えよ、と。


まだ形に現れないときに事を起こして、大きな成功を天下に得ようとする。
これを微明という。
弱小の立場にいて、さらにみずからへりくだることを、老子は弱が強に勝つ、という。

形ある物は、大は必ず小から始まる。
長く存続する物は、多いものは必ず少ないものから始まる。
ゆえに老子は言うのである。
天下の難事は必ず易しいことから始まり、天下の大事は必ず微細なことから始まる、と。

このことから物事をうまく制しようとするなら、それが微細なうちに処理する。
ゆえに老子は言うのである。
難しいことはそれが易しいうちから計り、大きいことはそれが微細なうちから処理する、と。

千丈の堤も蟻や螻蛄のあけた小さな穴から潰れ、百尺の家も小さな隙間から入った煙がもとで焼けてしまう。
ゆえに白圭が堤を巡るのに、小さな穴を塞ぎ、老人が火を用心するのに、壁の隙間を塗る。
これによって白圭が巡れば水害は無く、老人が用心すれば火災は無い。
これらは皆、易しいうちに注意をして難しくなるのを避け、微細なうちに用心して大きくなるのを防ぐ者である。


医者の扁鵲が蔡の桓侯にまみえた。
立ったまましばらくして扁鵲は言った。
君には病がおありです。それは皮膚の表面におありです。治療しなければ深くなるでしょう、と。
桓侯は言った。
私に病など無い、と。
扁鵲は退出した。
桓侯は言った。
医者の物好きよ。病でもないのに治したと言って自分の功績にしようとしておるのだ、と。

それから十日が過ぎた。
扁鵲はふたたびまみえて言った。
君の病は皮膚の中におありです。治療しなければますます深くなるでしょう、と。
桓侯は返事をしなかった。
扁鵲は退出した。
桓侯は不機嫌であった。

それから十日が過ぎた。
扁鵲はふたたびまみえて言った。
君の病は胃腸におありです。治療しなければますます深くなるでしょう、と。
桓侯は返事をしなかった。
扁鵲は退出した。
桓侯は不機嫌であった。

それから十日が過ぎた。
扁鵲は桓侯を遠くから見て、走り逃げ帰った。
桓侯は人をやって問わせた。
扁鵲は言った。
病が皮膚の表面にあるうちは、湯の湿布で治りました。
皮膚の中にあるうちは、針をうつことで治りました。
胃腸にあるうちは、煎じ薬で治りました。
骨髄に至ってしまえば、司命の関わる領域です、と。

それから五日が過ぎた。
桓侯は体が痛んだ。
人をやって扁鵲を探させたが、すでに秦へ逃げてしまっていた。
桓侯はとうとう死んでしまった。

ゆえに良医が病を治すには、まず皮膚の表面のうちに手を打つ。
これは皆、物事が小さいうちに片付ける、というのである。

物事の禍福にもまた皮膚の表面のような時がある。
ゆえに聖人は早く物事にあたるのである。


昔、晋の公子重耳が亡命した。
その途中、鄭に立ち寄ったが、鄭君は礼遇しなかった。
叔瞻が諫めて言った。
これは賢明な公子です。ご主君は手厚くもてなし、恩を売っておくのがよろしいでしょう、と。
鄭君は聴き入れなかった。
叔瞻はまた諫めて言った。
手厚くもてなすのでなければ、殺してしまった方がよろしいでしょう。後の禍となってはいけません、と。
鄭君はまた聴き入れなかった。
公子重耳が晋へ帰り君主となったとき、兵を挙げて鄭を伐ち、大いに破って八城を奪い取った。


晋の獻公が垂棘の璧を贈って虞に道を借りて虢を伐とうとした。
虞の大夫宮之奇が諫めて言った。
いけません、脣亡びて歯寒し、とあるように、虞と虢は互いに救っても恩を受け合わない間柄です。今日、晋が虢を滅ぼしてしまえば、明日には虞もこれに従って亡びるでしょう、と。
虞君は聴き入れず、その璧を受け取り、晋に道を貸した。
晋は虢を取って、その帰りに虞を滅ぼした。


この二臣は皆、皮膚の表面のうちに片付けようとしたのである。
しかし二君は用いなかった。
そうであるなら、叔瞻、宮之奇は、虞や鄭にとっての扁鵲である。
しかも二君は聴き入れなかった。
ゆえに鄭は敗れ、虞は亡んだ。
ゆえに老子は言うのである。
物事が安定しているうちは持ち易く、物事がまだ起こらないうちは謀り易い、と。


昔、紂が初めて象牙で箸を作ったとき、箕子は恐れた。
思うに、象牙の箸は必ず土器の碗には用いず、犀の角や玉の杯を用いるようになるだろう。
象牙の箸に玉の杯を使うならば、必ず豆や豆の葉の汁物に使わず、必ず牛や象の肉や豹の腹子といったものに使われるだろう。
牛や象の肉や豹の腹子を使うならば、必ず丈の短い粗衣を着て、茅葺屋根の下に座って食うことはせず、錦の衣を九重に着て、広い室や高台に座るようになるだろう。
私はそうして贅沢な結果になることを恐れる。
だからその始まりとなる象牙の箸を見て恐れるのだ、と。

そうして五年が経つと、紂は肉の畑を作り、焙烙を設け、酒粕の丘に登り、酒池を臨んで、紂はとうとう亡んでしまった。
箕子は象牙の箸を見て、天下の禍を知ったのである。
ゆえに老子は言うのである。
小を見抜くことを明であると言う、と。


越王句践は呉に入朝して、みずから盾と戈を取って呉王の先駆けとなった。
ゆえに姑蘇で夫差を殺すことができた。
周の文王は玉門で罵られたが、顔色を変えなかった。
それで子の武王が牧野で紂を捕らえることができた。

ゆえに老子は言うのである。
柔を守ることを強という、と。

越王が覇者となったのは夫差の臣となることを気に病まなかったからである。
武王が王となったのは罵られることを気に病まなかったからである。
ゆえに老子は言うのである。
聖人は病むことがないのは、気に病まないからであり、これによって病むことがないのである、と。


宋の田舎者が璞玉を手に入れて子罕に献上した。
子罕は受け取らなかった。
田舎者は言った。
これは宝ですよ、君子の器をお持ちのお方がお持ちになるのがよろしく、卑しい人が用いるようなものではございません、と。
子罕は言った。
そなたは玉を宝だと思っているが、私はそなたの玉を受け取らないことを宝だと思っているのだ、と。
これは田舎者は玉を欲しがり、子罕は玉を欲しがらなかったのである。
ゆえに老子は言うのである。
物を欲しないことを欲し、得難い物を貴ばない、と。


王寿が書物を背負って歩いていると、周へ行く道で徐馮と出会った。
徐馮が言った。
事は人の行為である。行為とは時に応じて行うのであり、時に応じるということは一定であるということなどない。
書物は言葉で書かれている。言葉は知恵から生まれる。ゆえに知者は書物を蔵したりしないのである。
今、そなたは書物を背負って行くのか、と。
そこで王寿はその書物を焼き捨て、喜んで舞った。

ゆえに知者は言論で人に教えたりせず、書物を箱に蔵したりしない。
これは世の人々の行き過ぎたことであり、王寿はもとに復ったのである。
これは学ばないということを学んだのである。
ゆえに老子は言うのである。
学ばないということを学び、大衆の行き過ぎたことをもとに戻す、と。


物には決まった形がある。
そこでそれに応じて導く。
こうして物の形に従う。
ゆえに静かなときは物の本質を固め、動くときは自然の道理に順う。

宋の人で、君主のために象牙で楮の葉を作った者がおり、三年かかって完成した。
葉の厚いところ、薄いところ、茎と枝、葉の縁の様子や色つやなど、本物の楮の葉の中に混ぜても、区別がつかなかった。
この人はその功績によって宋の国の俸禄を受けた。
列子はこれを聞いて言った。
天地の自然が三年かかって一枚の葉を作るということなら、葉がある植物は少ないであろう、と。

ゆえに天地の自然の資質に頼らずに、ひとりの力に頼り、道理の決まりに随わずに、ひとりの智恵に学ぶというのでは、みなこの一枚の葉を作る行為と同じである。
ゆえに、冬に田を耕しても、農神、后稷でも豊かにすることはできず、豊年の豊かな稔りは蔵獲でさえも悪くすることはできない。
ひとりの力に頼ったのでは、后稷であっても足らず、自然に隨えば、蔵獲でもあり余る。
ゆえに老子は言うのである。
万物の自然を恃み、みずからことさらにしないのである、と。


耳目鼻口などの人体の穴は神明の戸口である。
耳目が美しい音や色に疲れ果て、精神が外側に出尽くすと、体の内側に主がいなくなる。
内側に主がいなくなれば、禍福が山のようにやってきても、それに気づくことはできない。
ゆえに老子は言うのである。
戸を出ずに天下の情勢を知ることができ、窓から伺わずに天の道がわかる、と。
これを神明が体内から離れ出ていないことを言ったのである。


趙襄主は馬の御し方を王子於期に学んだ。
あるとき急に於期と競争をした。
三度馬を取り替えたが、三度とも敗れた。
襄主は言った。
そなたは私に御し方を教えたが、その技術を教え尽くしておらぬな、と。
答えて言った。
技術はすでに教え尽くしました。その用い方を間違えたのです。
御し方で貴ぶべきことは、馬の体が馬車に添い、人の心が馬と同調し、そうなってはじめて速く遠くまで走るようになるのです。
しかし今、ご主君は、遅れれば私に追いつこうとし、先に進めば私に追いつかれることを恐れておいでです。
道を進んで遠くまで競争すれば、先に進むのでなければ後になるのです。
しかしご主君は先に進んでも後になってもその心は私を気にしておられる。
これでどうして馬と同調できましょうか。
これがご主君お負けになった原因でございます、と。


楚の白公勝は反乱を企てていた。
朝廷から退出するとき、杖を逆さに立てて顎を乗せて思案した。
杖の鋭い先端がその顎を貫き、血が流れて地に至るも気づかなかった。
鄭の人がこれを聞いて言った。
自分の顎をも忘れてしまった。
一体他に何を忘れないでいられようか、と。

ゆえに老子は言うのである。
遠くに出れば出るほど、知ることはますます少なくなってゆく、と。

智恵を遠くに行き渡らせると、身近なことは忘れてしまうのである。
ゆえに聖人は決まった行動をとらないので、広く知ることができる。
ゆえに老子は言うのである。
出て行かずに知ることができる、と。

また広く見ることもできる。
ゆえに老子は言うのである。
見ないでも明らかに見抜く、と。
時に応じて物事を行い、自然の材料を用いて功績を立て、万物の能力を活かして、そこから利益を得る。
ゆえに老子は言うのである。
何も為さずに全てを成し遂げる、と。


楚の荘王は位について三年が経った。
その間、法令を発することもなく、政治も行わなかった。
右司馬が玉座に侍して王に謎かけをした。
鳥が南方の丘にとまっております。
三年間、羽ばたきもせず、飛びもせず、鳴きもせず、黙って声も出しません。
これは何という鳥でしょうか、と。

王は言った。
三年間羽ばたきをしないのは、羽を長く伸ばそうとしてのことである。
飛ばず、鳴かないのは、民の様子を見ようとしてのことである。
飛ばないと言っても、ひとたび飛べば必ず天に至るだろう。
鳴かないと言っても、ひとたび鳴けば必ず人々を驚かせるだろう。
そなたは私のことなど捨て置くがよい。
私はこのことをよく承知しておる、と。

それから半年が過ぎると、王はみずから政治を行なった。
廃止したものが十、新たに設けたものが九、誅した大臣が五、登用した処士が六、国は大いに治まった。
挙兵して斉を誅し、これを徐州で破り、晋に河雍で勝ち、諸侯を宋に集めて会し、ついに天下に覇を唱えた。

荘王は小善を行わず、大きな名声を成した。
早く世に出ようとせず、大きな功績を挙げた。
ゆえに老子は言うのである。
大器はなかなか成らず、大音は聞き取れない、と。


楚の威王が越を伐とうとした。
杜子が諫めて言った。
王はなぜ越を伐つのですか、と。
王は言った。
政治が乱れて兵が弱いからだ、と。

杜子は言った。
私は、智恵が目のようであることを心配しているのです。
目は百歩先のものを見ることができますが、自分の睫毛を見ることはできません。
王の兵は、秦と晋に敗れて、数百里の土地を失いました。
これは兵が弱いということです。
荘蹻が国内で盗みを働いているのに、役人は捕らえることができません。
これは政治が乱れている、ということです。
王の、兵は弱く政治が乱れている、というのでは、越と変わりありません。
越を伐とうとなさるので、智恵は目のようである、と言うのです。

王は越を攻めることをやめた。
ゆえに知ることが難しいのは、他人を見ることではなく、みずからを見ることにあるのである。
ゆえに老子は言うのである。
自分で自分を見抜くのを明という、と。


子夏が曾子に会った。
曾子は言った。
どうしてそんなに太ったのですか、と。
答えて言った。
戦に勝ったからです、と。
曾子は言った。
どういう意味ですか、と。

子夏は言った。
私は家にいるときは、古の聖王の道を学んでいると、これを光栄だと思い、外にいるときは、富貴の楽しさを見ると、またこれを光栄だと思うのです。
この二つの思いが胸中で戦い、いまだに勝負がつきません。
ゆえに痩せました。
しかし今、古の聖王の道を学ぶことが勝ちました。
ゆえに太ったのです、と。

このように志を貫くことの難しさは、他人に勝つことではなく、自分に勝つことにある。
ゆえに老子は言うのである。
自分にうち勝つことを強という、と。


周に玉版があった。
殷の紂王は膠鬲を使ってこれを求めさせた。
周の文王は与えなかった。

費仲が来て求めた。
すると文王はこれを与えた。
これは膠鬲が賢者であり、費仲が無道者であったからである。

周としては、紂王に賢者の志を採用されるのを嫌ったので、費仲に与えたのである。

文王が太公望を渭水のほとりで登用したのは、これを貴んだからである。
しかし費仲に玉版を与えて助けたのは、これを愛したからである。
ゆえに老子は言うのである。
その師を貴ばず、その資を愛さないのであれば、知恵があるといえども大いに迷うであろう。
これを要妙というのである、と。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 解老

徳とは人の内面のことであり、得とは人の外面のことである。
老子のいう「上徳は徳ならず」とは、得ならず、であり、その精神が外面のことに誘惑されないことをいうのである。
精神が外面のことに惑わされなければ、その身は完全に保たれるだろう。
その身が完全に保たれる状態を徳というのである。
徳とはその身に得たもののことである。

およそ徳とは、無為であることで身につき、無欲であることによって成し得るものであり、何も考えないことによって、その身は安泰となり、何も用いないことによって確かなものとなる。
欲を出し、物事を成そうとすれば、徳は身につくことはなく、徳が身につかなければ、その身は完全に保たれることはない。
何かを思い、何かを用いれば、その身は確かなものとならず、その身が確かなものにならなければ、何の功績もあげられないだろう。
功績がないというのは、得のために生じる。
得しようとすれば徳は身につかず、得しようとしなければ徳が身につく。

ゆえに老子は言うのである。
上徳は徳ならず、つまり、得ならず、であることによって徳は保たれる、と。


何も為すことなく、思慮することなく、虚心でいることを貴ぶのは、その意思が他に支配されなくなるからである。
かの術を心得ない者は、ことさらに何も為さず思慮しないで虚心でいようとする。
かのことさらに何も為さず思慮しないで虚心でいようとする者は、その意思が常に虚心であろうとすることを考え、虚心をなそうとすることに支配されてしまっているのである。

虚心とは、その意思が何者にも支配されない状態を言うのである。
今、虚心になるために虚心になるという意思に支配されては、これは虚心ではないのである。
虚心となった者が何も為さずにいるさまは、何も為さないことを常のあり方とはしていない。
何も為さないことを常のあり方とはしていなければこそ虚心である。
虚心であれば徳は大きくなる。
その徳が大きくなったものを上徳というのである。

ゆえに老子は言う。
上徳は何も為さずにいて、しかも何ごとをも為しとげるのである、と。


仁とは、心の底から喜んで人を愛することをいうのである。
その人に福があることを喜び、その人に禍があることを憎むさまは、心の抑えきれない気持ちから生じるのであり、報酬を期待してのことではないのである。

ゆえに老子は言うのである。
上仁は、これを行なっても、行なっていないのである、と。


義とは、君臣、上下の関係のことである。
父子、貴賤の差別であり、知人友人の交際に関係し、親しいと疎遠、内外の区別である。
臣下が君主に適切に仕え、身分の賤しい者が身分の高貴な者を適切に敬い、知人友人が適切に助け合い、親しい者は内に、疎遠な者は外にと適切に区別する。
義とはその適切なことをいうのである。
適切な関係で物事を為すのである。

ゆえに老子は言うのである。
上義はこれを行なって、しかも目的を持って行うのである、と。


礼とは内心を形としてあらわすためのものであり、様々な義を修飾するものであり、君臣、父子の交わり方であり、貴賤、賢愚を区別するためのものである。
内心で相手を慕っても相手には通じない。
そこで小走りに進み、身を低くして拝礼することで、その内心を明らかにする。
真心から愛しても相手には知られない。
そこで言葉を美しくし、口数を多くして、その愛情を伝える。
礼は外面を飾って内心をあらわすものである、と。

ゆえに老子は言うのである。
礼とは内心を形としてあらわすためのものである、と。


しかし、人は外からの物によって動くものであり、我が身のために行うものであるということを知らないのである。
多くの人々が礼を行うのは、相手を尊ぶためである。
ゆえに時に励み、時に怠る。

君子が礼を行うのは、我が身ためである。
我が身のために行うので、心を信にしてあらわすことを上礼とする。
上礼は信なるものであるのに、多くの人々の礼には表裏がある。
ゆえに上礼と多くの人々の礼とは相通ずることはできない。

相通ずることができないので、老子は言うのである。
上礼は、行なっても、返ってくるものはない、と。

多くの人々の礼に表裏があるといえども、聖人は恭敬をくり返し行い、手足を動かして礼を尽くすのは衰えることがない。
ゆえに老子は言うのである。
袖をふるって礼に依る、と。


道を積み重ねて、その積み重ねによって功績が現れてくる。
徳とは道の積み重ねにいって得られる功績なのである。
功績が充実すると光り輝く。
仁とは徳の光なのである。
その光には光沢があり、光沢は様々な物事を照らす。

義とは仁が照らし出した物事なのである。
その物事には礼の区別があり、礼には飾りがある。
礼とは義を飾るものである。

ゆえに老子は言うのである。
道が失われると徳が失われ、徳が失われると仁が失われ、仁が失われると義が失われ、義が失われると礼が失われる、と。


礼とは心の内を形に現したものであり、文とは実質を飾るものである。
そもそも君子は心の内を取り上げて形を捨て去り、実質を好んで飾りを嫌うのである。
つまり、形を恃んで心の内を論じるのは、その心の内が醜いからである。
飾りを恃んで実質を論じるのは、その実質が弱いからである。
何故そう言えるのかを論じる。

和氏の璧は、五色で飾ったりはしない。
隋侯の珠は、金銀で飾ったりはしない。
その実質が最も美しく、何物をもってもこれを飾る必要がない。
飾り立ててから始めて出されるようなものは、その実質が美しくないからである。

こうしたことから、父子の間では、その礼は素朴であって明確ではない。
ゆえに老子は言うのである。
礼とは薄いものだる、と。


およそ物ごとは並び栄えることはない。
陰と陽がそれである。

道理として、奪うこともあれば与えることもある。
刑罰と賞がそれである。

実質が充実しているものは外側の形は簡素になる。
父子の礼がそれである。

これらのことから見ると、礼が繁雑なのは心の内が貧弱だからである。
そうならば、礼を行うとは、人の純朴な心を相手に通じるようにするためのものである。
ところが、多くの人が礼を行うさまは、相手が応じて返礼すれば軽々しく歓び、応じず返礼しなければ責め、怨む。

今、礼を行うのは、人の純朴な心を通じるようにするためであるのに、これをもとにして互いに責め合う材料とする。
これで争わないわけがない。
争いが起これば世は乱れる。

ゆえに老子は言うのである。
かの礼は忠信が薄くなったものであり、世の乱れの始まりである、と。


物ごとに先立って行い、自然の理に先立って動く。
これを前識という。
前識とは根拠もなくでたらめに推量することである。
何故そう言えるのか。

楚の詹何が室に座しており、弟子が側に控えていたとく、牛が門の外で鳴いた。
弟子が言った。
あれは黒い牛で、白い額です、と。
詹何は言った。
そうだ、あれは黒い牛だ。
だが白いのはその角だろう、と。
人をやって牛を見に行かせた。
果たして黒い牛であり、白い布でその角を包んでいた。

こうした詹子の透視の術が、多くの人々の心に触れると、知識がはっきり得られず危うい。
ゆえに老子は言うのである。
道の無駄花である、と。


もしも詹子の透視の術を用いずに、小さな童子を門の外へ見に行かせれば、黒い牛で、布で角を包んでいるということがわかる。
つまり詹子の透視の術を用いるに、詹子が精神をすり減らして透視するのも、小さな童子が門の外に見にいくのと、同じ結果になる。
このことから、愚の始まりだと言うのである。

ゆえに老子は言うのである。
前識とは道の無駄花であり、愚の始まりである、と。


いわゆる大丈夫とは、その智恵が深い人を言うのである。
いわゆる厚い処におり、薄い処にいない、とは、心の実情の通りに行って、飾り立てた儀礼を取り去ることである。
いわゆる実におり、華にいない、とは、必ず理にかなうやり方をして、ひとつ飛ばしなやり方をしないのである。
いわゆる彼を避けて此を取る、とは、飾り立てた儀礼や、ひとつ飛ばしなやり方をせずに、理にかなったやり方をし、心の実情の通りに行うのである。

ゆえに老子は言うのである。
彼を避けて此を取る、と。


人は、禍が起こると心は恐れ、心が恐れれば行動はまっすぐになり、心がまっすぐになれば思慮深くなり、思慮深くなれば物事の理を得られる。
行動がまっすぐであれば禍を受けず、禍を受けなければ天寿を全うする。
物事の理を得れば必ず成功し、天寿を全うすれば全くもってめでたく、必ず成功すれば富貴を得られる。
天寿を全うし富貴を得られれること、これを福という。
そして福とは禍が起こることに基づいている。

ゆえに老子は言うのである。
禍は福の寄るところ、と。

これによって成功するのである。
人は、福があると富貴が得られ、富貴が得られると衣食が良くなり、衣食が良くなると心が驕り、心が驕ると行動が道を外れ、理に反くようになる。
行動が道を外れるとその身は横死し、行動が理に反くと成功もできない。
内には横死の危難があり、外には成功の功名を得られないというのは大禍である。
このように禍は福があることから生じる。

ゆえに老子は言うのである。
福は禍が潜むとこり、と。


もし自然の道理によって物事を行うなら、成し遂げられないものはない。
成し遂げられないものがなければ、大きくは天子の権勢と尊位を得て、小さくは大臣や将軍の賞や禄を容易く得られる。
もし自然の道理を捨てて軽挙妄動するなら、上は天子諸侯の権勢と尊位を得て、下は猗頓、陶朱、卜祝のような富があったとしても、なおその民を失い、その財産を失う。
多くの人々が軽々しく道理を捨てて、軽挙妄動するのは、禍福の関係が深く、道理がこれほど遠大であることを知らないからである。

ゆえに老子は人に諭して言うのである。
誰がその極致を知るだろうか、と。


人で富貴天寿を望まない者はおらず、しかもいまだ貧賤横死の禍を免れることができないでいる。
これでは自分自身がそこに至りたいと思っても、至ることはできないのである。
およそその至りたいところへの路を失って妄動することを、迷うと言う。
迷えば、その至りたいところに至ることはできないだろう。
今、多くの人々がその至りたいと思うところに至ることができない。
ゆえに老子は迷う、と言っている。

多くの人々がその至りたいと思うところに至ることができないのは、天地が分かれてより今に至る。
ゆえに老子は言うのである。
人が迷っていることは、その日数は言うまでもなく既に久しい、と。


いわゆる方とは、内心と外形が合い、言行が一致していることである。
いわゆる廉とは、生死を運命として、財貨に執着しないことである。
いわゆる直とは、行動が必ず公正で、心に偏りがないことである。
いわゆる光とは、官位爵禄が高貴で、衣服が壮麗なことである。

今、道を心得た士は、内外の人々に信頼され従われているとしても、苦しみ堕落した人を誹謗しない。
節義のために死に、財貨を軽んじるとしても、生活に疲れて節義を怠っている人を侮りもせず貪欲な人を辱めもしない。
端正で贔屓しないとしても、心が邪な人を追い払わず私利を求める人を罰しない。
権勢があり地位が尊く衣服が壮麗であっても、身分の低い人に驕らず貧しい人を侮ったりしない。
その理由は何故であろうか。

道を失った者に、智者に聴いて教えを請えば、迷わずにすむ。
今、多くの人々が功を成そうと思いながら、しかもかえって失敗する理由は、道理を知らず、あえて智者に問わず、能ある者の言うことを聴かないことから生じるのである。
多くの人々があえて智者に問わず、能ある者の言うことを聴かないのに、聖人がその禍や失敗を説いて人々を責めても、怨まれるだけであろう。
俗人は多く、聖人は少ない。
少ない者が多い者に勝てないのは、数の道理である。

今、自分が挙動して天下の仇となるのは、その身を全うし、長生するための方法ではない。
ゆえに、節度ある行動をして世に示すのである。
ゆえに老子は言うのである。
方であって割ではなく、廉であって劌ではなく、直であって肆ではなく、光であって耀ではない、と。


聡明や叡智は天性のものである。
行動や思慮は人の意志によるものである。
人とは、天の明によって見、天の聡によって聴き、天の智によって思慮するものである。
ゆえに見ることが強すぎると目はくもり、聴くことが強すぎると耳は塞がれ、思慮が度を越すと智恵が乱れる。
目がくもれば白黒の区別をつけることができない。
耳が塞がれれば、清濁の声を聴き分けることができない。
智恵が乱れれば、損得の所在を明らかにすることができない。

目が、白黒の区別をつけることができないことを盲と言う。
耳が、清濁の声を聴き分けることができないことを聾と言う。
心が、損得の所在を明らかにすることができないことを狂と言う。

盲であれば昼間の危険を避けることもできない。
聾であれば雷鳴の危害を知ることもできない。
狂であれば人間社会の法令を犯して罰せられる禍を免れることもできない。

老子の書に、人を治める、とあるのは、人としての行動の節度が適切で、思慮の消耗を省くということである。
天に事える、とあるのは、耳目の聡明の力を使い切らず、智恵の限りを尽くさないということである。
もしも聡明の力を尽くすなら、多くの精神を費やし、多くの精神を費やすならば、盲、聾、狂などの禍がもたらされるであろう。
ゆえにこれを嗇すのである。

これを嗇すとは、その精神を惜しみ、その智恵を大切にするということである。
ゆえに老子は言うのである。
人を治め天に事えるには、嗇に及ぶものはない、と。


多くの人々が精神を用いるさまは騒がしい。
騒がしければ消費が多い。
消費が多いのを侈という。

聖人が精神を用いるさまは静かである。
静かであれば消費は少ない。
消費が少ないのを嗇という。

嗇の道は道理から生じる。
精神を嗇に用いることができるということは、道理に従い、服するということである。
多くの人々は病を患い、禍に陥っても、なお退くことを知らず、道理に服従しない。
聖人は病や禍に出会わなくても、心を虚無にして道理に服従する。
これを蚤服と称する。

ゆえに老子は言うのである。
ただ嗇であること、これによって蚤服となる、と。


人を治めることを心得た者は、その思慮が静かである。
天に事えることを心得た者は耳目鼻口が虚空である。
思慮が静かであれば、身につけた徳を失うことはない。
耳目鼻口が虚空であれば、自然の調和の気が日ごとに体に入ってくる。
ゆえに老子は重積徳と言うのである。


身につけた徳を失わず、日ごとに新しく自然の調和の気を体に入れてゆくなら、蚤服の境地に至るだろう。
ゆえに老子は言うのである。
蚤服に至る、これを重積徳と言う、と。


徳を積み上げることで、精神は静かになる。
精神が静かになることで、心の調和が多くなる。
心の調和が多くを占めることで、物ごとの計画がうまくいく。
計画がうまくいくことで、万物を制御することができる。

万物を制御することができるなら、戦えば敵に勝つのも容易く、戦って敵に勝つのが容易ければ、その論説は世を覆うように皆に受け入れられる。
ゆえに老子は言うのである。
克たざるなし、と。


勝てないものはない、とは、重積徳に基づくものである。
ゆえに言うのである。
重積徳であれば勝てないものはない、と。
戦って敵に勝つのが容易ければ、天下を併合でき、論説が世を覆えば、人民は皆、従うであろう。
進んでは天下を併合し、退いても人民は従う。
しかもその道が深遠であれば、多くの人々はその一端をも見ることができない。
その一端をも見ることができなければ、その極意を知ることができる者などいない。

ゆえに老子は言うのである。
勝てないものがなければ、その極意を知る者はいない、と。


およそ今、国を保っていても、後にこれを失い、今、身を保っていても、後に禍に陥いる、というのでは、国を保ち身を保つ、とは言えない。
うまく国を保つことができれば、必ず社稷を安んじ、その身を保つことができれば、必ず天寿を全うすることができるだろう。
そうなってこそ国を保ち身を保つ、ということができる。

国を保つことができ、その身を保つ者は、必ず道を体得している。
道を体得していればその智恵は深く、智恵が深ければその謀は遠大である。
その謀が遠大であれば多くの人々はその極致を見ることができない。
ただ人々にその極致を見させないようにする。
人々にその極致を見させないならば、その身を保ちその国を保つことができる。

ゆえに老子は言うのである。
その極致を知る者がいなければ、国を保つことができるであろう、と。


いわゆる、国を保つ母、というのは、道である。
道というものは国を保つための術を生む。
国を保つための術であるから、これを国を保つ母という。
そもそも道とは世とともに変遷するものであり、その生を活かすに長く、禄を維持するに久しい。
ゆえに老子は言うのである。
国を保つ母は長久である、と。


樹木には曼根と直根がある。
直根とは老子の書にある柢である。
柢とは木が生育するための基となるものである。
曼根とは木の生命を維持するためのものである。

徳とは人が生育するための基となるものである。
禄とは人の生命を維持するためのものである。
今、自然の理に基づいて生きる者は、禄を久しく維持することができる。

ゆえに老子は、その根を深くせよ、と言う。

道を修めた者は、その生命は長久である。
ゆえに老子は、その柢を固くせよ、と言う。

柢が堅固であれば生命を長く保つことができ、根が深ければ長く生きて世を見ることができる。
ゆえに老子は言うのである。
その根を深くし、その柢を固くすることは、長生きし、長く世を見ることができる道である、と。


職人がしばしば仕事を変えれば、その成果は得られず、耕作者がしばしば計画を変更すると、その成果は得られない。
一人の仕事で、一日に半日分の損失があるなら、十日で五人分の成果を失うことになる。
一万人の仕事で、一日に半日分の損失があるなら、十日で五万人分の成果を失うことになる。
そうであるなら、しばしば仕事を変えると、その従事する人が多いほど、その損失も大きくなるのである。

およそ法令が改まると人々の利害も変わり、利害が変われば民が励む内容も変わってしまう。
民が励む内容が変わるというのは、仕事を変えることと同じである。
ゆえに道理から考えると、民衆を使ってその仕事をしばしば変えると成功は少なく、大きな器を蔵うのにその場所をしばしば移すのでは傷つける機会が多く、小魚を煮るときにこれをかき混ぜればその形を損ない、大国を治めるのにしばしば法を変えれば民は苦しむだろう。
これらのことから、道を心得た君主は、安静を貴び、変法を重んじない。

ゆえに老子は言うのである。
大国を治めるのは小魚を煮るようなものだ、と。


人は、病にかかると医者を貴び、禍にあうと鬼神を恐れる。
聖人が上にいて治めれば、民は欲が少なくなり、民に欲が少なければ、血気は良くなり行動も正しくなる。
行動が正しくなれば禍は少なくなる。
もし自分の身の内に腫れものやできものの害が無く、身の外に刑罰の禍がなければ、鬼神を軽んじること甚だしい。

ゆえに老子は言うのである。
道に従って天下を治めれば、鬼神も霊妙な力を持たなくなる、と。

よく治まった世の民は鬼神と害しあうことがないのである。
ゆえに老子は言うのである。
鬼神が霊妙な力を持たないのではない、その霊妙な力が人を害することがないのである、と。

鬼神が祟ると人を病気にさせる、これを鬼神が人を害する、と言う。
人が祈祷して鬼神を追い払う、これを人が鬼神を害する、と言う。
民が法令を犯す、これを民がお上を害する、と言う。
お上が民を処刑する、これをお上が民を害する、と言う。
民が法を犯さなければ、お上もまた刑罰を行わない。
お上が刑罰を行わない、これをお上が民を害さない、と言う。

ゆえに老子は言うのである。
聖人もまた民を害さない、と。

お上は民と害しあわず、人は鬼神と害しあわない。
ゆえに老子は言うのである。
ふたつとも害しあうことがない、と。

民があえて法を犯さなければ、お上は内では刑罰を用いずにすみ、外では産業で得られる利益を貪ることもない。
お上が内では刑罰を用いず、外では産業で得られる利益を貪ることもないなら、民は繁栄し、民が繁栄すれば、物資の蓄積も多くなる。
これを有徳と言うのである。

そもそも、いわゆる鬼神が祟る、とは、人から魂魄が抜け去って精神が錯乱することである。
精神が錯乱すると徳は無くなる。
もし鬼神が人に祟らなければ魂魄は抜け去らない。
魂魄が抜け去らなければ、精神は錯乱しない。
精神が錯乱しない状態を有徳と言う。

ゆえにお上が物資の蓄積を多くして、鬼神が民の精神を錯乱させなければ、徳がことごとく民に備わる。

ゆえに老子は言うのである。
ふたつとも害しあわなければ、徳はすべて民のものとなる、と。
徳が上にも下にも盛んになり、ともにすべて民に帰することになる、ということである。


道を心得た君主は、国外は隣国に怨みや仇を持つ敵は無く、国内は人民に恩沢が行き渡っている。
もし国外に隣国に怨みや仇を持つ敵がいなければ、諸侯をもてなすにも礼義を守る。
もし国内の人民に恩沢が行き渡っていれば、民事を治めるのに農業を第一とする。
諸侯をもてなすのに礼義を守っていれば、戦役が起こることは稀であり、民事を治めるのに農業を第一とすれば、贅沢は行わなくなるだろう。

およそ馬が大いに用いられるのは、外では軍事に用いられ、内では贅沢品を運ぶためである。
今、道を心得た君主は、外は軍事を起こすことが稀であり、内は贅沢を禁じる。
お上は馬を戦闘や追撃に用いることなく、民は馬を用いて遠くに贅沢品を運ぶこともせず、力を用いるところはただ耕作のためだけである。
力を用いるところが、ただ耕作のためだけであれば、必ずそれは土を耕し、水を撒くことになる。

ゆえに老子は言うのである。
天下に道があるときは、馬を速く走らせず耕作に使う、と。


君主が無道であると、内では民を暴虐に扱い、外では隣国を欺き侵略する。
内で民に暴虐であれば民の産業は絶え、外で隣国を欺き侵略すれば戦争がしばしば起こるだろう。
産業が絶えれば家畜は少なくなり、戦争がしばしば起これば士卒が尽きる。
家畜が少なければ軍馬は乏しくなり、士卒が尽きれば軍は保てなくなる。
軍馬が乏しくなれば将軍の馬も駆り出され、軍が保てなければ君主の近臣も兵役につかねばならならないだろう。
馬は軍の重要な手段であり、郊とは都に近いところを言うのである。
今、軍に補給するために、将軍の馬や近臣から駆り出される。

ゆえに老子は言うのである。
天下に道がなければ、軍馬は君主の近臣から生じる、と。


人は欲を持つと判断力が乱れ、判断力が乱れると欲が激しくなり、欲が激しくなれば邪心が勝ち、邪心が勝てば物事の正しい処理ができず、物事の正しい処理ができなければ禍が起こるだろう。このことから考えると、禍は邪心から生じ、邪心は欲望に誘いだされる。
欲望の類は、進んでは良民に姦悪を働かせ、退いては善人に禍を被らせる。
姦悪が起これば、上は君主を侵害して弱め、禍が降りかかれば人民の多くは被害を受ける。
そればらば欲望の類は、上は君主を侵害して弱め、下は人民を傷つける。
上は君主を侵害して弱め、下は人民を傷つけるのは大罪である。

ゆえに老子は言うのである。
罪は欲望よりも大きいものはない、と。


ゆえに聖人は五色の美しさに惹かれず、音楽に乱されることもない。
名君は愛玩物を賤しみ淫靡を取り除く。
人には羽毛はない。
衣服を着なければ寒さを凌げない。
上は天にあるものではなく、下は地に根付くものではない。
胃腸を根本として栄養をとっているのだから、物を食わねば生きていくことはできない。
そこで利益を求める欲望の心から免れない。
利益を求める欲望の心を除けないのは、その身の憂いである。

ゆえに聖人は、衣服は寒さを凌げる程度で充分で、食べ物は空腹が満たされれば充分であれば、憂うことはない。
しかし多くの人々はそうではない。
大は諸侯となろうと、小は千金の資産を残そうと、その物を得ようとする欲望の憂いが除かれることはないのである。
囚人でも解放されることはあるし、死刑囚でも時には赦されることがある。
今、満足することを知らない者の憂いは、生涯解けることはない。

ゆえに老子は言うのである。
禍は満足することを知らないことよりも大きいものはない、と。


ゆえに利益を求める欲望が激しければ憂うことになり、憂いが起これば病が生じ、病が生じれば智恵が衰え、智恵が衰えれば見込みが狂い、見込みが狂うと行動がでたらめになり、行動がでたらめになると禍害が降りかかり、禍害が降りかかれば病が身の内に纏わり、病が身の内に纏われば大きな禍が外に迫り、大きな禍が外に迫れば胃腸の間に苦痛が起こり、胃腸の間に苦痛が起これば人を傷つけることいたましく、いたましければ身を退いてみずからを咎めることになる。
身を退いてみずからを咎めることになるのは、利益を求める欲望から生じる。
ゆえに老子は言うのである。
咎めるべきは利益を求める欲望よりも大きなものはない、と。


道とは万物がそうあるべき根拠であり、万理が集まる根本である。
理とは物を成り立たせる筋道であり、道は万物を成り立たせる根本である。ゆえに老子は言うのである。道とは万物を理によって秩序づけるものである、と。

物には理があり、互いに他を侵すことはできない。
ゆえに理が万物を制御し、万物はそれぞれに異なった理を有する。
万物それぞれが異なった理を有するが、道はことごとく万物の理を備え合わせる。
ゆえに道は常に変化せずにはいられない。
変化せずにはいられないので、常に決まったあり方というものが無い。
決まったあり方というものが無いので、人の生死もそこから受け、万人の智恵もそこから汲み取り、万事がそこから興り廃れるのである。

天は道を得て高く、地は道を得て万物を覆い、北斗の星は道を得てその威勢を示し、日月は道を得て常に光を放ち、木火土金水の五行は道を得てその立場を保ち、諸星は道を得てその運行を正しくし、春夏秋冬の四季は道を得てその気の変化をなし、軒轅氏は道を得て四方を服させ、赤松氏は道を得て天地を統べ、聖人は道を得て文明を作り上げた。

道は堯、舜と共に思慮深く、接輿と共に狂い、桀、紂と共に滅び、湯、武と共に栄えた。
道は近くにあるかと思えば、四方の極限にある。
遠くにあるかと思えば、常に我が側にある。
暗いものかと思えば、明々と光っている。
はっきり見えるかと思えば、暗くて見えない。
こうして天地を作り上げ、雷霆を起こし、宇宙の万物はこの道によって成るのである。

およそ道の実情として、制御されず決まった形もない。
柔軟に時に従い、物の理に相応じる。
万物は道を得て死に、道を得て生きる。
万物は道を得て失敗し、万物は道を得て成功する。

道を何かに喩えるなら水のようであり、溺れる者が多く水を飲めば死んでしまうし、喉が渇いた者が適切に水を飲めば生きられる。
また、道を他の何かに喩えるなら剣戟のようであり、愚人が怒りに任せて振るえば禍を引き起こすし、聖人が暴徒を誅すれば福がもたらされるだろう。
ゆえに道を得て死に、道を得て生き、道を得て失敗し、道を得て成功する、というのである。


人が生きている象をみることは稀である。
そこで死んだ象の骨を得て、その図を考えてその生きた姿を想像する。
ゆえに人々が心の中で想像したものを皆、象と言うのである。

今、道は見聞きすることができないといえども、聖人はその現れた物事を取り上げて、その道の形を現そうとする。
ゆえに老子は言うのである。
無状の状、無象の象、と。


およそ理とは、方形と円形、短いと長い、粗いと細かい、堅いと脆いなどの区別である。
ゆえに理が定まった後に道を得ることができるのである。
ゆえに定まった理には存亡があり、生死があり、盛衰がある。

そもそも物が存在したかと思えば無くなったり、たちまち死んだかと思えば、たちまち生まれたり、初めは盛んでも後には衰えたりするのは常というわけにはいかない。
ただそれが天と地が別れたときに共に生まれ、天地が消滅するときがきても死なず衰えないものが常と言える。
常は変わることがなく、定まった理を持たない。
定まった理が無いものは、常に決まった場所に存在するものではない。
これによって道とすることはできないのである。
聖人はその暗く虚ろな世界を観察し、その周回する動きを捉え、強いて名付けて道と呼び、こうして論じることができるようになった。

ゆえに老子は言うのである。
道の道とすべきは常の道にあらず、と。


人は生に始まり、死に終わる。
始まることを出ると言い、終わることを入ると言う。
ゆえに老子は言うのである。
生に出て死に入る、と。

人の体には三百六十の骨節があり、四肢と九つの穴はその重要な器官である。
四肢と九つの穴の十三の器官は、ことごとく生に属する。
この属のことを徒と言う。
ゆえに老子は言うのである。
生の徒は十三である、と。


死に至ると十三の器官は皆、還って死に属する。
死の徒もまた十三なのである。
ゆえに老子は言うのである。
生の徒は十三、死の徒は十三、と。

およそ民は生き生きと生きているときは動き回るが、動き続けていれば身を損傷する。
そこで動かすことをやめなければ、身を損傷すつのをやめないことであり、損傷するのをやめなければ生命は尽きてしまう。
生が尽きることを死と言う。
すると十三の器官というものはすべて死へ向かうものとなる。
ゆえに老子は言うのである。
民が生き生きと動き、動いて皆、死へと向かうのもまた、十三の器官である、と。


こうしたわけで聖人は精神を愛し、心を静かに保つことを貴ぶ。
そうでなければ野牛や虎の害より甚大になる。
野牛や虎には縄張りがあり、その動静にも時が決まっている。
その場所を避け、その時を考えれば、その野牛や虎の害を免れることができるだろう。
民はただ野牛や虎に爪や角があるのを知っているだけで、万物にことごとく爪や角があることを知らず、万物の害を免れることができない。
何故そうなのかを論じる。

季節の雨が降り続き、広い原野は静かであるのに、早朝や日暮れに山川に押し入れば、風や露の爪や角に害されるだろう。
お上に仕えるのに不忠で、軽々しく禁令を犯せば、刑法の爪や角に害されるだろう。
郷里にいて礼節を守らず、愛憎が激しく度を越せば、闘争の爪や角に害されるだろう。
嗜好や欲望に際限がなく、動静に節度がなければ、できものや腫れものの爪や角に害されるだろう。
自分勝手な智恵を好んで用い、道理を捨てれば、天の網の爪や角に害されるだろう。

野牛や虎には縄張りがあり、万物の害には原因がある。
その縄張りを避け、その原因を防げば、諸々の害を免れることができる。

およそ武器や甲冑は害に備えるためのものである。
生命を重んじる者は、軍に入っても怒り争う心を持たない。
怒り争う心を持たなければ、害を防ぐための手段を用いることもない。
これはただ野戦の軍のみに言えることではない。

聖人が世に悠々と暮らすのは、人を害する心を持たないからである。
人を害する心を持たなければ、必ず人からも害されない。
人から害されることがなければ、人に備えることもない。
ゆえに老子は言うのである。
陸路を行くに野牛や虎に会わない、と。

従軍しても武備に頼って害を防ぐこともない。
ゆえに老子は言うのである。
従軍しても武備に頼らない、と。

諸々の害から遠ざかる。
ゆえに老子は言うのである。
野牛も角をぶつけるところがなく、虎もその爪を立てるところがなく、武器もその刃を当てるところがない、と。


備えをせずとも必ず害されることがないのは、天地の道理なのである。
天地の道を体得するのである。
ゆえに老子は言うのである。
死地無し、と。
行動しても死地がない、これを善く摂生する、という。


子を愛する者は子を慈しむ。
生を重んじる者は身を慈しむ。
功績を貴ぶ者は事を慈しむ。
慈母は幼児に対して幸福になるように努める。
幸福になるように努めれば、その禍を除くことを仕事とする。
その禍を除くことを仕事とすれば、思慮深くなる。
思慮深くなれば物事の理がよく分かる。
物事の理がよく分かれば、必ず成功する。
必ず成功すれば、その行動に迷いはない。
迷わない状態を勇と言う。
聖人が万事において、常に慈母が幼児のために思慮するようなものである。
ゆえに必ず行うべき道を見つける。
必ず行うべき道を見つけるならば明らかであり、事を行うのに迷いがない。
迷いがないことを勇と言う。
迷いがないのは慈から生じる。

ゆえに老子は言うのである。
慈であるがゆえに勇たり得るのである、と。

周公は言った。
冬の日の凍り方が固くなければ、春夏の草木の生育はよくない、と。


天地も常に贅沢に浪費することはできない。ましてや人においては尚更である。
ゆえに万物には必ず盛衰があり、万事には必ず緩急があり、国家には必ず文武があり、政治には必ず賞罰がある。

こうして智恵のある士は財産を倹約して家を富ませ、聖人は精神を大切に使って精力を盛んにし、君主は兵卒を戦わせるのを慎重にして民を多くし、民が多くなれば国は広くなる。
このことを指して老子は言うのである。
倹であるがゆえに広げることができる、と。


およそ形のある物は、裁ち易く、割き易い。
なぜそうなのかを論じる。

形があれば長短があり、長短があれば大小があり、大小があれば方円があり、方円があれば堅い脆いがあり、堅い脆いがあれば軽重があり、軽重があれば白黒がある。
長短、大小、方円、堅脆、軽重、白黒、これらを理と言う。
理が定まっているので、物は割き易いのである。
ゆえに朝廷で議論するときに他より後で物を言うのは、かの権謀に優れた士がよく心得ていることである。

方円を画こうとして定規に従えば、万事に功績が現れ、こうして万物には定規となるものがあるのである。
権謀の士は物事の定規をわきまえている。
聖人はことごとく万物の定規に従う。

ゆえに老子は言うのである。
あえて天下の先とならず、と。

あえて天下の先とならなければ、物事を成し遂げられないことはなく、功績が上がらないことはなく、その謀が世を覆う。
高官になるまいと思っても、そうはいかない。
高官に就くということは、物事を成し遂げる長になることを言う。

これらのことから老子は言うのである。
あえて天下の先とならないので、物事を成し遂げる長となることができる、と。


子を慈しむ者は、子に衣食を絶やさないようにし、我が身を慈しむ者は、あえて法に背かず、方円を慈しむ者は、あえて定規を捨てない。
ゆえに戦争に臨んで士卒を慈しむなら、戦えば敵に勝ち、防備の道具を慈しむなら、城は堅固である。

ゆえに老子は言うのである。
慈しみをもって戦えば勝ち、守れば堅固である、と。


もしみずからの身を全うして、ことごとく万物の理に従うならば、必ず天の生命を持っている。
天の生命とは、万物の生成の意志である。
ゆえに天下の道はことごとく生成の道である。
もし慈しみによってこの道を守れば、物事は必ず万全で行動が当たらないことなどない。
これを宝と言う。

ゆえに老子は言うのである。
我に三つの宝がある。これを保持して宝とする、と。


老子の書にある大道とは、正道のことである。
書にある貌施とは、邪道のことである。
径大とは、佳麗のことであり、佳麗とは邪道の一種である。
朝廷がはなはだ掃除されているのは、訴訟や裁判が多いからである。
訴訟や裁判が多くなれば田畑が荒れ、田畑が荒れれば朝廷の倉は空になり、朝廷の倉が空になれば国は貧しくなり、国が貧しくなれば民の風俗が乱れる。
民の風俗が乱れれば衣食に関する職業は廃れ、衣食に関する職業が廃れれば、民は巧妙に詐り飾り立てるようになり、巧妙に詐り飾り立てるようになると模様を彩るようになる。
模様を彩るようになることを、文采を服す、と言う。
訴訟や裁判が多く、倉庫は空で、乱れた風俗となれば、国の害となるその様は、鋭い剣で刺すようなものである。

ゆえに老子は言うのである。
鋭い剣を帯びている、と。


人々が小賢しい智恵を飾り立て、国を害するようになると、その家は必ず富む。
私家が必ず富むので、老子は言うのである。
財貨が余っている、と。

国にこのような者がいれば、愚かな民はそれに倣って真似るようになり、これに倣えばこそ泥が生まれる。
このことから見ると、大きな姦悪が起これば小盗が従い、大きな姦悪が唱えれば小盗が応じる。

竽は五音の中心である。
ゆえに竽が先に吹かれて鐘や瑟などがみな従って続き、竽が鳴って他の楽器が皆和する。
今、大きな姦悪が起こると俗人が唱え、俗人が唱えると小盗は必ず和するだろう。

ゆえに老子は言うのである。
文采を服し、鋭い剣を帯び、飲食に厭きて、財貨が余っている者、これを盗竽と言う、と。


人は賢愚なく、己の行動の取捨選択をする。
心静かで無欲にして安らかであれば、禍福がどのようにやって来るかを分かるものである。
好悪の心があり、心を乱すものに誘われて、その後乱れてゆく。

その理由は、人は外界の者に心を引かれ、好きな物に心が乱されるからである。
心静かで無欲であれば取捨選択を正しく判断でき、安らかであれば禍福の分別も分かる。
しかし今や好きな物に心を引かれ、外界の物に引かれる。
心を引かれてゆく。
ゆえに老子は、抜く、と言う。

聖人の場合はそうではない。
ひとたびその取捨選択して基準をたてると、好きな物を見ても、心を引かれることはない。
引くことができないことを、抜けない、と言う。
ひとたび精神が統一されると、欲しい物があったとしても、精神は動じない。
精神が動じないことを、脱しない、と言う。
人の子孫たる者、この道を体得し、宗廟を守って滅びないことを、先祖の祭祀が絶えない、と言う。


身は精神を積むことを徳とし、家は資財を蓄えることを徳とし、郷や国や天下は皆、民を増やすことを徳とする。
今、身を治めて外界のものに精神を乱されることがない。
ゆえに老子は言うのである。
これを身に修めれば、その徳は真である、と。

真とは固く慎んでいることである。
家を治めて、無用な物にその家計を動かされることがなければ、資財は余るようになる。
ゆえに老子は言うのである。
これを家に修めて、その徳は余る、と。

郷を治める者がこの節度を守って行えば、家財の余る者がますます多くなる。
ゆえに老子は言うのである。
これを郷に修めて、その徳は長く続く、と。

国を治める者がこの節度を守って行えば、郷の財産の余る者がますます多くなる。
ゆえに老子は言うのである。
これを国に修めて、その徳は豊かになる、と。

天下に臨む者がこの節度を守って行えば、民の生活はその恩沢を受けることになる。
ゆえに老子は言うのである。
これを天下に修めて、その徳は普く行きわたる、と。

身を修める者は、これを基準に君子と小人を見分け、郷を治め、国を治め、天下に臨む者には、それぞれにこの科条によって善し悪しを観察すれば、万に一つも失敗はない。
ゆえに老子は言うのである。
身によってその身を観察し、家によってその家を観察し、郷によってその郷を観察し、国によってその国を観察し、天下によってその天下を観察する。私は何によって天下がそうなるのか、を知るのかと言えば、これによって知るのである、と。




テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 右下

一、
賞罰の権限が君臣で共有されたなら、法令禁制は行われない。
何故そうなのかを明らかにしていく。

その例は、造父や於期を御す話がある。
子罕猪の役を務め、田恒が畑や池の役を務めた。
また、宋君や簡公が殺された。
害悪としては、王良と造父が車を共に御する話、田連と成竅が琴を共に弾じる話がある。


二、
国が治まり、兵が強くなるのは、法が行われることで生じ、国が乱れて弱くなるのは、法が曲げられることで生じる。
君主がこのことに明らかであれば、賞罰を厳しく行っても不仁ではない。
爵禄は功績に基づいて生じ、誅罰は罪に基づいて生じる。
臣下がこのことに明らかであれば、死力を尽くして仕えても、忠義であるということではない。
君主が不仁を理解し、臣下が不忠を理解するなら、君主は天下の王となることができる。

その例は、昭襄王が君主の実情を知り、五苑の食糧を民に分け与えなかった話がある。
田鮪が臣下の実情を知り、田章に教えた話。
また、公儀が贈られた魚を断った話もある。


三、
君主が法術に頼らず外国の君主のやり方を手本にすると、外交は失敗する。
その例は、蘇代が斉王を誹った話がある。

君主が古の聖王のやり方を手本にすると、処士が現れてくる。
その例は、潘壽が禹の故事をひいた話がある。

君主に覚悟が足りないところがある。
方吾はこれを知って衣服を同族と同じくすることを恐れた。
ましてや君主の権勢を貸し与えるなどなおさらである。

呉章はこれを知り、好悪の感情を偽り臣下に対する。
ましてや誠の心情を臣下に見せるなどなおさらである。

趙王虎の目を嫌って臣下に塞がれた話がある。
明主のやり方は、周の外交官が衛公を退けた話のように厳正である。


四、
君主は法を守って成果を求め、功績を成そうとするものである。
官吏が乱れていても民はおのずから治まっている、ということは聞くが、民が乱れていて官吏がよく治めている、ということは聞かない。
ゆえに明主は先に官吏を治めて民を治めない。

その例は、木の根元を動かす話と、網の綱を引く話がある。
また、火災のときの官吏の話も論ぜねばならない。
火災から救うには、官吏が自分で壺を持って火消しに走るのではひとりの働きをしたにすぎないが、鞭をとって人々を指揮するなら万人を動かすことができる。

また、術を使いこなせる例には、造父が馬車を乗りこなした話がある。
馬を引いても車を押しても進むことができないときに、巧みな御者に代わって鞭をとれば馬はみな走らせることができる。
このことの例は、鉄槌が物を平らにする話、矯め木が棒をまっすぐにする話がある。

そうでなければ害は、淖歯が斉で用いられて閔王を殺した話、李兌が趙で用いられて主父を飢え死にさせた話がある。


五、
物事が自然の理に従っていれば、労せずに成功する。
その例は、慈鄭子が車の長柄に腰かけて歌い、高梁台へ登った話がある。

自然の理に従わなかった場合の害は、趙簡主の税吏が税の軽重を問うた話、薄疑が国では中が満ち足りていると言い、趙簡主が喜んでいる間に国倉は空になり、民は飢えて姦吏が富んだ話がある。
また、桓公が民を巡察したとき、管仲は朝廷内の腐るほど余る貯えがないように、宮中に独り身の女がいないようにと進言した話がある。

自然の理に従わなかった場合の害は、延陵の卓子が馬を進められず、造父が通りかかりこれを見て泣いた話がある。


右は経である。



一、
造父は四頭の馬を御し、縦横に駆けさせ、思う通りに馬を乗りこなした。
思う通りに馬を乗りこなせたのは、手綱と鞭の権限を握っていたからである。
しかし馬の前に豚が飛び出してきて驚けば、造父でも引き止め制御することができないのは、手綱と鞭の威厳が足りないからではない。
威力が飛び出した豚によって分散されたからである。

王於期が、副馬をつけても、手綱と鞭を用いずに馬を思う通りに御すのは、まぐさと水の利を握っていたからである。
しかし馬が畑や池のそばを通り過ぎるときに、副馬が勝手に動きだすのは、まぐさと水の利が足りないからではない。
利が畑や池に分散されたからである。

王良と造父は、天下の名御者である。
しかし王良が左の手綱を執って馬を叱咤し、造父が右の手綱を執って鞭を振るわせば、馬は十里を行くこともできないだろう。

田連と成竅は、天下の琴の名人である。
しかし田連が琴の上を弾き、成竅が琴の下を押さえれば、一曲を弾き成すこともできばいだろう。
これもまた琴を共にしたからである。

王良と造父の技術をもってしても、手綱を共有して御せば、馬を乗りこなすことはできない。
君主はどうして臣下と権力を共有して国を治めることなどできようか。

田連と成竅の技術をもってしても、琴を共有すれば、一曲を弾き成すことはできない。
君主はどうして臣下と権勢を共有して功を成すことなどできようか。


一説にはこうある。
造父が斉王の御者となり、馬の喉を渇かせて命じ、従ったら水を与えるという方法で調教し終えた。
馬車を御して畑に至った。
喉の渇いた馬が畑の池を見つけて、車を置き去りにして池に走り、造父の御は失敗した。

王於期は趙簡主のために馬車で道を馳せ、千里の目標を競った。
馳せ始めて間もなく、溝の中に豚が潜んでいた。
王於期が手綱をそろえて鞭を執って馬車を進めた。
豚が溝から飛び出し、馬が驚き、馬車を御すのに失敗した。


司城子罕が宋君に申した。
功績を賞し物を賜るのは民が喜ぶことですから、ご主君はご自身で行いなさいませ。
罪を罰し刑を執行するのは民が憎むことですから、どうか私にこの役目をお与えください、と。
宋君は言った。
わかった、と。

そこで君主の威勢で大臣を罰するときにも、君主は言った。
子罕に問え、と。
これによって大臣たちは子罕を恐れ、賤しい民は子罕に従った。

こうして一年が経つと、子罕は宋君を殺して政権を奪った。
つまり子罕は飛び出した豚の役をして、君主から国を奪ったのである。


斉の簡公が君位にあったとき、誅罰は重く厳しく、税を重くし、民を殺した。
しかし田成恒は慈愛を施し、寛大であることを示した。
簡公は斉の民を喉の渇いた馬とし、恩を民に与えず、田成恒は慈愛寛大という池を設けたわけである。


一説にはこうある。
造父が斉王の御者となり、馬に水を与えず喉が渇いた状態にして従わせ、百日かけて服従させた。
服従させてから馬を斉王に見せようと願い出た。
斉王は言った。
馬を宮園で見せよ、と。

造父は馬車を駆って宮園に入った。
馬が宮園の中の池を見つけて駆け出し、造父はこれを御すことができなかった。
造父は喉を渇きによって馬を服従させるのに長くかかった。
しかし今、馬が池を見て勢いよく駆け出すと、造父といえども制御することはできない。

今、簡公は厳しいやり方で長く民を禁じてきたが、田成恒はこれを利用した。
つまり田成恒は宮園の池を傾けて、渇きに飢えた民に見せたのである。


一説にはこうある。
王於期は宋君のために、千里を駆って見せることになった。
すでに馬は車につながれ、馬の口をそろえて手綱を執り、出発しようとした。
馬を駆って前に進めれば、車の轍は測ったようにまっすぐであり、手綱を引いて後ろに戻せば、馬はもとの足跡を踏む。
そこで鞭を打って馬を出発させたところ、豚が垣の穴から飛び出し、馬が驚いて後ろに下がった。
鞭を打っても前進させることができず、次に馬は前に走り出し、手綱を引いても止めることができなかった。


一説にはこうある。
司城子罕が宋君に申した。
人を賞し物を賜るのは、民が喜ぶことです。ご主君はご自身で行いなさいませ。
罪を罰し刑を執行するのは、民が憎むことです。私がこの役目に当たりましょう、と。

こうして賤しい民を殺したり、大臣を罰するときは、宋君は言った。
子罕と相談せよ、と。

それから一年が経つと、民は生殺の命が子罕に握られていることを知り、国中が子罕に従った。
ゆえに子罕は宋君を脅かし、その政権を奪っても、法で禁ずることができなかった。


ゆえに言う。
子罕は飛び出した豚となり、田成恒は畑の池となった、と。
今、王良と造父が同じ車に乗り、それぞれが手綱を執って門に入ろうとするなら、馬は必ず乱れて道を進むことができないだろう。
今、田連と成竅が同じ琴を使ってそれぞれが一絃を抑えたり弾いたりすれば、必ず音は乱れて、一曲を奏でることはできないだろう。



二、
秦の昭王が病を患った。
民は里ごとに牛を買って殺し、家ごとに王のために祈った。

公孫述は外出してその様子を見て、宮に入って王を祝って申した。
民はみな、里ごとに牛を買って殺し、王のために祈っております、と。

王は人をやってこれを確かめさせたところ、果たしてその通りであった。
王は言った。
民を罰して人ごとに二甲を取り立てよ。
そもそも命じてもいないのに勝手に祈るのは、私を愛してくれているからであろう。
民が私を愛すからといって、私もまた法を曲げて、民に心をもって応じれば、法は行われなくなってしまうだろう。
法が行われないのは、国が乱れ亡ぶもとである。
人ごとに二甲を罰とし、再び共に治めていくに越したことはない、と。


一説にはこうある。
秦の襄王が病んだ。
民は王のために祈った。
王の病が癒えると、民は牛を殺して神に感謝して祭った。

郎中の閻遏と公孫衍が外出してこの様子を見て言った。
今は臘祭の時期でもないのに、なぜ牛を殺して祭っているのだろうか、と。

怪しんで民に問うた。
民は言った。
ご主君が病だと聞き、そのために祈りました。
今、病が癒えたので、牛を殺して祭っておるのです、と。

閻遏と公孫衍は悦んで、王に見えて祝賀して言った。
堯、舜にも優ります、と。
王は驚いて言った。
何のことを言っているのか、と。
答えて言った。
堯も舜も、民が二人のために祈るには至りませんでした。
今、王は病んで、民は牛を供えて祈り、病が癒えたので牛を殺して祭っておるのです。
ゆえに私は、王は堯、舜よりも優れておられる、と思ったのです、と。

そこで王は人をやって、このことを調べさせた。
どこの里でこれを行なったのか、と。
その里の長と長老たちを罰するのに、ひとつの村から二甲を取り立てた。
閻遏と公孫衍は恥じて何も言えなかった。

こうして数箇月経ち、王は酒を飲んで楽しんだ。
閻遏と公孫衍は王に申した。
前に私たちは王を堯、舜にも勝ると思いましたのは、ただ諂って申したのではありません。
堯、舜は病んでも、その民は二人のために祈るまでには至りませんでしたが、今、王が病んだら民は牛を供えて祈り、病が癒えたら牛を殺して祭りました。
今、その里の長と長老を罰して、村ごとに二甲を取り立てるとは、私たちはこれを訝しんでおります、と。

王は言った。
そなたたちはどうしてこれが分からないのか。
あの民が私に用をなす理由は、私が民を愛しているから私のために用をなすのではないのだ。
私の権勢のために私の用をなすのだ。
私は権勢を捨てて民と共に治めようとしようか。
もしそのようにすれば、私がたまたま民を愛さないようなことがあれば、民は私の用をなさなくなるだろう。
ゆえに私は民を愛するやり方を絶ったのだ、と。


秦が飢饉にみまわれた。
応侯が請うて言った。
宮廷の園の野草、とち、棗、栗の実などは、民を活かすに充分です。
どうぞこれらを開放して民にお与えください、と。

昭襄王は言った。
我が国、秦の法では、民に功績があれば賞を与え、罪があれば罰を受けさせる。
今、宮廷の園の野菜や木の実を開放して民に与えれば、功績のある民も功績のない民も皆、賞を受けることになる。
功績のある民も功績のない民も皆、賞を受けることは、これは国が乱れるもとである。
宮廷の園を開放して与え、国が乱れるよりは、野菜や木の実を捨ててでも国を乱さないように治める方が良い、と。


一説にはこうある。
今、宮廷の園の瓜、野草、棗、栗などを解放して与えれば、民を活かすには充分だが、民に功績があっても功績がなくても皆、食糧を得ることができる。
こうして民が生きても国が乱れるのであれば、民が死んでも国が治まる方が良い。
大臣、捨ておけ、と。


田鮪が子の田章に教えて言った。
そなたがその身に利を得ようと思うなら、まず君主に利を得させよ。
そなたが家を富ませようと思うなら、まず国を富ませよ、と。


一説にはこうある。
田鮪が子の田章に教えて言った。
君主は官爵を売り、臣は智恵や能力を売る。
ゆえに自分を頼りにして他人を頼りにしてはならない、と。


公孫儀は魯の宰相で、魚を好んでいた。
そこで国中の皆が我先にと争って魚を買って、公孫儀に献じた。
公孫儀は受け取らなかった。

その弟が諫めて言った。
兄上は魚を好んでおられるのに、受け取らないのはどうしてですか、と。

答えて言った。
私はただ魚が好きなのだ。
だからこそ受け取らなかったのだ。
もし魚を受け取れば、必ずその人に気を遣って遠慮してしまう。
人に遠慮してしまえば、法を曲げようとしてしまい、法を曲げようとすれば、宰相の職を免職されるだろう。
そうなれば私が魚を好むといえども、人々は必ずしも私に魚を持ってきてくれる、というわけにはいかず、私もまた自分で魚を買ってくることもできなくなるだろう。
もし魚を受け取らずに、宰相を免職されなければ、魚を好んでも、私は長く自分で魚を買って来られるだろう、と。

これが、かの人を頼りにするのは、自分を頼りにするのには及ばないことを明らかにするものである。
人が己のためにすることは、己が自分のためにすることには及ばないことを明らかにするものである。



三、
子之は燕の宰相となった。
その地位は高く、物事を取り仕切っていた。

蘇代が斉の使者として燕に来た。
王が蘇代に問うた。
斉王はどのような君主かね、と。
答えて言った。
必ず覇者にはなれぬでしょう、と。
燕王は言った。
何故かね、と。
答えて言った。
昔、桓公が覇者となったとき、国内のことは鮑叔に任せ、国外のことは管仲に任せ、桓公は冠も着けずに女たちのために馬を御し、毎日のように市場で遊びました。
今、斉王は自国の大臣を信任しておりません、と。

そこで燕王はますます大いに子之を信任した。
子之はこれを聞いて、人をやって蘇代に金百鎰を贈らせ、好きなように使わせた。


一説にはこうある。
蘇代が斉の使者として燕に行った。
燕では、子之に利益を与えなければ、決して事をなすことができずに帰ることになり、何の賞も賜ることがないと見た。
そこで燕王に見えて、斉王を誉めた。

燕王は言った。
斉王はどうしてそのように賢人なのかね。
そして天下の王になろうとしているのかね、と。

蘇代は言った。
国が亡びるのを救う暇もないでしょう。
どうして王となれましょうか、と。
燕王は言った。
どうしてかね、と。

言った。
斉王はその親愛する者を己と同等に任用しないのです、と。
燕王は言った。
その任用するとはどういうことかね、と。

言った。
昔、斉の桓公は管仲を親愛し、引き立てて仲父とし、国内を治め、外交を裁き、国を挙げてみな管仲に任せました。
ゆえに天下をひとつにまとめ、諸侯を集めて号令しました。
今、斉王は親愛する者を己と同等に任用しません。
ですから斉は亡びるだろうと思ったのです、と。

燕王は言った。
今私は子之を任用しておる。
しかし天下はこのことを知らないようだ、と。
そこで翌日、朝廷に礼を設けて子之に任せることにした。


潘寿が燕王に言った。
王は国を子之にお譲りになるのが最も良いでしょう。
人々が堯を賢人だという理由は、その天下を許由に譲ったからです。
許由は決して受けませんでした。
つまりこれは、堯は許由に国を譲ったという名声を得て、ぢかも実は天下を失わなかったのです。
今、王は国を子之に譲っても、子之は必ず受けないでしょう。
すなわちこれは、王は国を子之に譲ったという名声を得て、堯と同じ行いをなさるということです、と。

こうして燕王は国を挙げて政治を子之に委ねた。
子之の地位は大いに重くなった。


一説にはこうある。
潘寿は隠者であった。
燕王は人をやってこれを招聘させた。
潘寿は燕王に見えて言った。
私は子之が益のようにならないかと恐れております、と。
王は言った。
益とは何のことか、と。

答えて言った。
昔、禹が死ぬとき、天下を益に伝えようとしました。
すると禹の子の啓の徒党が共に益を攻めて、啓を立てました。
今、王は子之を信愛し、国を子之に伝えようとなさっております。
太子の徒党はことごとく官職についておりますが、子之の仲間はひとりも朝廷にはおりません。
もし王が不幸にして群臣を捨ててお亡くなりになれば、子之もまた益のようになるでしょう、と。

そこで王は官吏の官印で俸禄三百石以上のものをまとめて、これを皆、子之に渡した。
子之の地位は大いに重くなった。


君主の威光を鏡として照らすものは、諸侯である。
しかし今、諸侯は皆、権臣の私党である。

君主の威勢を示すための羽翼となるものは、巌穴にいる隠者である。
しかし今、巌穴の隠者は皆、権臣の私客である。

これはなぜか。
賞罰与奪の権力が子之のような権臣に握られているからである。

ゆえに呉章は言った。
君主は偽って人を憎愛してはならない。
偽って人を愛せば、その人を憎むことはできず、偽って人を憎めば、その人を愛することができない、と。


一説にはこうある。
燕王が国を子之に伝えようと思ったとき、このことを潘寿に問うた。
答えて言った。
禹は益を愛して天下を益に任せました。
しかしその時にはすでに子の啓の党徒を官吏に登用していました。
禹は老いてから啓では天下を任せるには足らないと判断して、天下を益に伝えたが、権勢はことごとく啓が握っており、啓は味方と共に益を攻めて、天下を奪いました。
これは禹が、天下を益に伝えたという名声を得て、実は啓にみずから天下を取らせたのです。
これによって、禹が堯や舜に及ばないことは明らかです。
今、王は国を子之に伝えようとして、しかも官吏は太子の郎党でない者はおりません。
これでは、子之に国を伝えたという名声を得て、実は太子にみずから国を取らせることになります、と。

燕王は官職の印で三百石以上のものを集めて、これを皆、子之に渡した。
子之の地位は重くなった。


方吾子が言った。
私はこう聞いている。
古来の礼に、外出するときには同じ服を着た者とは同じ車に乗らず、住居は同族の者とは住まない、と。
しかるに君主たる者が、その権力を貸し与えて、その威勢を自分から離すことなどは、言うまでもない、と。


呉章が韓の宣王に申した。
君主は偽って人を愛してはいけません。
別の日にまた憎むことができなくなります。
また、偽って人を憎んではいけません。
別の日にまた愛することができません。
ですから、偽って憎んだり偽って愛するというような徴候を見せてしまうと、君主に諛う者がそれを道具にして賞賛毀損をするでしょう。
そうなれば明主といえども、元に戻すことはできません。
ましてや真実の愛憎を人に見せたならなおさらのことです、と。


趙王が宮園で遊んでいた。
左右の近侍が兎を虎に与えようとしたが、やめた。
王が虎を見ると、虎はぎょろりと目玉を動かしている。
王は言った。
嫌だな、あの虎の目つきは、と。

左右の近侍が言った。
平陽君の目つきは、嫌なことこれに勝りますぞ。
虎の目を見ても害はありませんが、平陽君の目つきを見たら、必ず死なねばなりません、と。

その翌日、平陽君がこれを聞き、人をやってそう言った者を殺させた。
それでも趙王は罰しなかった。


衛君が周に入朝した。
周の取次官が衛君の名を問うた。
答えて言った。
衛侯辟疆である、と。
周の取次官は拒否して言った。
諸侯が天子と同じ名を名乗ることはできません、と。

衛君はみずから改めて言った。
衛侯燬、と。
こうしてから衛侯を入れた。

仲尼がこれを聞いて言った。
深謀遠慮なことだ、侵害を防いだのだ。
名だけすら人に許さない。
ましてや実権はなおさらであろうな、と。



四、
木を動かして、一枚一枚その葉を集めていたのでは、労力ばかりで全てに及ぶことはできない。
左右からその木の根元を打てば、葉は全て揺れ動いて落ちるだろう。
淵に臨んで木を動かせば、鳥は驚いて高く飛び、魚は恐れて水中へ潜るだろう。
巧く網を張る者は、その綱を操る。
もしひとつひとつの網目を広げて網を張るのであれば、労力ばかりで張りきれない。
巧く網を張る者は、その綱を引いただけで、魚はすでに袋に入っている。
ゆえに官吏は民の大本の綱となる者である。
ゆえに明主は官吏を治めて民を治めない。


火事を救うのに、官吏に壺や甕に水を汲んで火消しに走らせたのでは、人ひとり分の役にしか立たない。
官吏が鞭をとり、民を指揮して使えば、万人を使いこなせるだろう。
こうしたわけで、明主は民をみずから治めず、小事にみずから手を出さないのである。


造父が雑草を刈っていると、父子が馬車に乗って通りかかった。
馬が何かに驚いて進まなくなった。
その子は馬車を降りて馬を引き、父は降りて車を押し、造父に我らを助けて車を押してくれるよう頼んだ。

そこで造父は農具を片付け、作業をやめて馬車に乗り込み、その父子に手を貸して馬車に乗らせた。
そこでまず轡を調べて鞭を持ち、まだ鞭を振るっていないのに、馬は皆、走り出した。

もし造父でも御することができないなら、造父が力を尽くし、身を労し、父子を助けて車を押したとしても、馬はなお進まないだろう。今、造父が身を楽にして馬車に乗り込み、徳を施すことができるというのは、術を心得ていて馬を御したからである。

国は君主にとっての車である。
権勢は君主の馬である。
術を心得て権勢を御さねば、その身を労したとしても乱を免れない。
術を心得て権勢を御するならば、その身を安楽の地に置いたとしても、帝王の功をなすことができるだろう。


椎鍛は物の凹凸を平らにするものである。
榜檠は曲がった棒を真っ直ぐにするものである。
聖人が法を作るのは、人々の乱れたところを平らかにし、曲がったところを真っ直ぐにするものである。

淖歯が斉で用いられると、閔王の首筋を抜き出し、李兌が趙で用いられると、主父を餓死させた。
この二人の君主は皆、その椎鍛や榜檠を用いることができなかった。
ゆえにその身は殺され、天下の物笑いとなった。


一説にはこうある。
斉に入れば淖歯ひとりの名前ばかりが聞こえ、斉王の名前は聞こえてこない。
趙に入れば李兌ひとりの名前ばかりが聞こえ、趙王の名前は聞こえてこない。
ゆえに言う。
君主たる者、術を用いなければ、威勢は軽くなり、臣下がその名をほしいままにする、と。


一説にはこうある。
田嬰が斉の宰相だったとき、ある人が王に説いた。
年の終わりの会計は、王みずから数日をかけて聴き取りをしなければ、官吏の姦悪得失を知ることはできないでしょう、と。
王は言った。
よろしい、と。

田嬰はこれを聞いて、すぐさま王に願い出て会計を聞いてもらおうとした。
王はこれを聴こうとした。
そのとき、田嬰は官吏に署名した文書に数量を記載して読み上げさせた。
王はみずからその計算を聴いた。
しかし計算を聴き続けることに耐えきれず、聴くのをやめてしまった。

食後に再び席に戻り、計算を聴くのを続けたが、夕食も取れない。
田嬰は再び申した。
群臣が年中日夜、怠らずに務めた結果です。
王は一晩中お聴きくだされば、群臣の励みとなりましょう、と。
王は言った。
わかった、と。

しかし、たちまち王は眠ってしまった。
すると官吏は皆、小刀を取り出し、その文書の計算を削り書き換えた。
王はみずから計算を聴いたことで、この文書を認めたことになってしまった。
斉の乱はこうして始まった。


一説にはこうある。
武霊王は恵文王に政治をさせた。
そして李兌が宰相となった。
武霊王はみずから生殺の権限を握らなかった。
ゆえに李兌に脅かされることになった。



五、
慈鄭子が手車を引いて高い橋に登ろうとした。
ところが車を支えきることができず登れない。
慈鄭は長柄に腰かけて歌った。
すると前を行く人は立ち止まり、後ろから来る人は駆け寄り、皆が車を押して橋を登った。

もし慈鄭に術によって人を引き寄せることができなかったら、力を出し尽くして死んでしまったとしても、手車は橋を登らなかっただろう。
今、その身は苦労せずに、手車を登らせたのは、人を引き寄せる術があったためである。


趙簡主が徴税の官吏を送り出した。
官吏が税の軽重を問うた。
簡主は言った。
軽すぎても重すぎてもいけない。
重くすればお上に利が入り、軽くすれば民に利が入る、と。
そこで官吏は私欲なく公正に徴税した。

薄疑が簡主に言った。
ご主君のお国は中が満ち足りております、と。
簡主は喜んで言った。
どのようにかね、と。
答えて言った。
国の倉庫は空で、民は皆が貧しく餓えておりますが、姦悪の官吏だけは富んでおります、と。


斉の桓公が微賤の服装で民家を巡った。
年老いてひとりで暮らしている者がいた。
桓公はその理由を問うた。
答えて言った。
私には三人の子がおります。
しかし家が貧しくて、妻をとらせることもできません。
そこで子らは傭われて出てゆき、まだ帰ってこないのです、と。

桓公は帰って管仲に告げた。
管仲は言った。
国庫に蓄えが積もり、腐って捨てるほどの財があるなら民は飢餓し、宮中に嘆く女がいるなら民に妻がいないものです、と。
桓公は言った。
よろしい、と。

そこで宮中の婦人の状態を調べて民に嫁がせ、民に命令を下して言った。
男は二十歳になれば妻を迎え、婦人は十五歳になれば嫁がせよ、と。


一説にはこうある。
斉の桓公が微賤の服装で民間を巡った。
鹿門稷という者がいて、七十歳になるが、妻はいない。

桓公は管仲に問うた。
民で老いても妻がいない者がいるのか、と。
管仲は言った。
鹿門稷という者がおります。
七十歳になりますが、妻はおりません、と。

桓公は言った。
どうすれば妻をもたせることができるだろうか、と。
管仲は言った。
私はこう聞いております。
お上に積もるほどの財があるときは、民は必ず困窮し、宮中に嘆く女がいるときは、老いても妻がいない者がいる、と。
桓公は言った。
よろしい、と。

宮中に命令を下して、女子のうちで未だ桓公に目どおりしていない者は宮中から出して嫁がせた。

そしてまた命令を下した。
男子は二十歳になれば妻を迎え、女子は十五歳になれば嫁ぐように、と。
すると宮中では嘆く女はいなくなり、外では妻を持てぬ男はいなくなった。


延陵の卓子が蒼くて桃の模様がある大きな馬が引く馬車に乗った。
馬の胸の前に鉤飾があり、後ろに錯錣がある。
馬が進もうとすれば鉤飾がそれを妨げ、退こうとすれば錯錣が馬に刺さる。
そこで馬は横に跳ねた。

造父が通りかかり、馬を見て涙を流して言った。
古の聖王が人を治めるやり方もまた、そのようである。
そもそも賞は善行を奨励するものであるのに、謗りを受けることがあり、罰は悪行を禁じるものであるのに、名誉を受けることがある。
ゆえに民は中立の立場をとり、どうすれば良いのかわからなってしまう。
これもまた、聖人が見たら泣くことになるだろう、と。


一説にはこうある。
延陵の卓子が蒼くて斑模様のある大きな馬が引く馬車に乗った。
馬の胸の前には錯飾があり、後ろには鋭利な錣筴がついている。
馬が進もうとすれば錯飾を引き、退こうとすれば鞭打つ。
馬は進むこともできず、退くこともできず、避けて横に跳んだ。
そこで卓子は馬車を降り、刀を抜いて馬の脚を斬った。

造父はこれを見て泣き、一日中何も食べず、天を仰いで嘆いて言った。
馬を鞭で打つのは、馬を進ませるためであるのに、錯飾が前にあって進めない。
馬を引くのは、馬を退かせるためであるのに、鋭利な錣筴が後ろにある。

今、君主がその人の清廉潔白なのを誉めて取り立てておきながら、左右の近臣の意にそわないために退けられ、その人が公正なのを誉めて取り立てておきながら、君主に従順でないために捨てられてしまう。
民は恐れ、中立の立場をとり、どうすれば良いのかわからなってしまう。
これも聖人が見たら泣くことになるだろう、と。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 右上

君主が臣下を治める方法には三つある。

一、君主の権勢によって従わせることができない臣下は取り除くべきである。
師嚝の答え、晏子の言説、ともに皆、権勢で治めるという容易な方法を捨てて、徳行で治めるという困難な方法を説くものである。
これは獣と駆け争うも同然であり、君主の害を除く方法を知らないのである。

害を除く方法は、子夏が春秋を説く中にある。
権勢をよく保持する君主は、早く臣下の姦悪のきざしを絶つ。
ゆえに季孫は仲尼を責めるのに君主の権勢を借りた。
ましてや君主に権勢があるなら尚更である。
これによって太公望は狂矞を殺し、臧獲は駿馬に乗らなかった。
嗣公はこのことを心得ていたので、鹿に車を引かせなかった。
薛公はこのことを心得ていたので、双子と博奕をした。
これらは皆、同と異が相反するというようなことを心得ているのである。
ゆえに明主が臣下を治める方法には、烏を養うやり方にある。


二、君主は臣下の利害の関心の的である。
君主の心を射止めようとする者は多く、君主は狙われている。
ゆえに君主の好悪が臣下に分かると、臣下はそれを手がかりにして、君主は惑わされてしまうだろう。
進言した言葉が他者にすぐに通じるようでは、臣下は君主に進言するのを憚るようになり、君主は神妙な存在とはなれないであろう。

その例は、申子が六慎を説いた話や、唐易が弋のやり方を説いた話がある。
君主が害を被る例は、国羊が変をを願った話や、宣王が嘆息した話がある。
またこれを明らかにするのには、靖郭君が十対の耳環を献じた話や、犀首、甘茂が穴から王の言葉を聞いた話がある。
堂谿公は術を心得ていたので、玉の盃を問うた。
昭侯は術を心得ていたので、堂谿公の話を聴いてからは、独りで寝るようにした。
明主の道は、申子が君主に独断を勧めた話の通りである。


三、君主が術をうまく行えないのには理由がある。
酒屋の犬を殺さねば、そこの酒は酸い、というように、国にもまた犬がいて、かつ左右の近臣はみな社の鼠のようなものである。
君主には、堯が二臣を誅したことや、荘王が太子の願いに応じなかったことなど、皆、薄媼が蔡嫗に裁決してもらったのと同じである。
知者は音楽を教えるときの方法によって、まずは測ってみることを貴ぶ。
呉起が愛妻と離別し、文公が顚頡を斬ったのは、皆その人情に背いたものである。
ゆえに人に自分のできものをえぐらせる者は、必ずその痛みを耐え忍ばねばならないのである。


右は経である。



一、
賞されても、名誉を得ても、喜ばず、罰せられても、謗りを受けても恐れない。
これら四つのものが加えられても動じない、というような者は、取り除かねばならない。


斉の景公が晋へ行き、晋の平公に招かれて酒を飲んだ。
そばに師曠が侍していた。
景公は政治について師曠に問うた。
太師、何か私にお教えください、と。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

途中、宴もたけなわのころ、景公は退出しようとした。
そこで再び政治について師曠に問うた。
太師、何か私にお教えください、と。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

景公は退出して客舎に行き、師曠はこれを送って出た。
そこで再び政治について師曠に問うた。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

景公は客舎に帰り、考えたが、まだ酒の酔いから醒めぬ間に師曠の言った意味が分かった。
公子尾と公子夏は、景公の二弟である。
ともに甚だ斉の民心を得ており、家は富貴で民に好かれており、その様は公室と同じようである。
これは我が地位を危うくする者である。
ゆえに今、私に民に恵めと言うのは、私に二弟と争って民心を得よ、ということではないか、と。

こうして景公は国に帰り、穀倉を開いて貧しい民に分け与え、国庫の貯えを散じて孤児や寡婦に与えた。
穀倉に古い穀物はなくなり、国庫の貯えもなくなった。
宮廷の女で景公に侍せぬ者は出して他家へ嫁がせ、七十歳になった者は米を賜った。
こうして徳を売り、民に恩恵を施し、二弟と民心を得ることを争った。

そうすること二年、二弟は逃げ去った。
公子夏は楚に逃げ、公子尾は晋に逃げたのである。


景公が晏子と少海へ出かけ、柏寝という台地に登って斉の国を見渡した。
言うには、すばらしいな、水は深く広く、山は雄大である。
後の世では誰がこの国を支配するのだろうか、と。

晏子は答えて言った。
それは田成子でしょうな、と。

景公は言った。
私が今、この国を支配しておるのに、田成子がこの国を支配するとは、どういうことかね、と。

晏子は答えて言った。
そもそも田成子ははなはだ斉の民心を得ております。
その民に対するさまは、お上には爵禄を願い大臣に与えられるようにし、下には穀物を量る枡を勝手に大きく作って民に貸し出し、枡を小さく作って民に穀物を返させます。
祭祀で牛を殺せば、自分は一椀ほどの肉だけを取って、残りは全て士に与えて食わせ、年末に朝廷に納められる織物は、自分は二制だけを取って、残りは全て士に与えて着せます。
ゆえに市場の材木の価格は山での価格と変わらず、魚、塩、鼈、蛤などの価格は海辺での価格と変わりません。

ご主君は民から重税を取り、田成子は民に厚く施しておるわけです。

斉はかつて大いに飢饉にみまわれ、道端で餓死する者は数えきれぬほどでございました。
しかし父子が手を引きあって田成子のところへ赴けば、助からなかった者はおりませんでした。
ゆえに斉の民は皆、共に歌いあって言いました。
ああ、芑を摘もう、という詩に倣い、田成子のもとに移ろうではないか、と。

詩にこうあります。
徳が汝に与えるものはないけれど、歌い、また舞おう、と。
今、田成子の浅薄な徳であっても、民は歌い舞うというのは、民はそれを恩徳だと感じて心服していくのでございます。

ゆえに申したのです。
それは田成子でしょうな、と。

景公は涙をはらはらと流して言った。
何と悲しいことであろう。
私がこの国を治めておるのに、田成子のものになろうとしておるとは。
今のうちにどうにかすることはできぬものか、と。

晏子は答えて言った。
ご主君、どうしてご心配なさるのか。
もし田成子から民を取り戻そうとお思いならば、賢人を近づけ、不肖の者を遠ざけ、民の悩みごとを片付け、刑罰を緩くし、困窮している者を賑わせ、孤児や寡婦を憐れみ、広くすみずみまで恩恵を施せば、民はご主君の元に帰ってまいりましょう。
そうすれば、田成子が十人いたとしても、ご主君をどうこうすることはできません、と。


ある人が言った。
景公は権勢を用いることを知らず、師曠、晏子は害を除くことを知らない。
そもそも狩りをするときは、安全な車を用い、六頭の馬に引かせ、王良のような御者に轡を持たせれば、己の身は労せずに、脚の速い獣に追いつくことができる。

今、車を用いることの利を用いず、六頭の馬の脚と王良の御を使わず、地に降りて走って獣を追うなら、樓季のような俊足であっても、獣に追いつくことはできないだろう。
良馬と堅固な車に任せれば、臧獲であっても充分に追いつくことができるだろう。

国は君主にとっての車であり、権勢は君主にとっての馬である。
その権勢に乗って、身勝手に民を手なづけようとする臣を罰せずに、必ず君主は徳を厚く施すことによって天下万民に接し、身を正して臣と名誉を競い合うようでは、これは皆、君主の車に乗らず、馬の利を用いず、車を捨てて地に降りて走るようなものである。

だから言うのだ。
景公は権勢を用いることを知らない君主であり、師曠、晏子は害を除くことを知らない臣である、と。


子夏が言った。
春秋に、臣下が君主を殺し、子が父を殺したことを記すところが数十件ある。
これらは皆、一日で起こったことではないのである。
次第に進んでいった結果である、と。

およそ姦悪は、久しく行われてその成果が積もり、それが積もって勢力が大きくなり、勢力が大きくなって君主や父を殺すものである。
ゆえに明主は早いうちに姦悪を絶つ。

今、田常が乱を起こしたのは、姦悪が次第に明らかになってきても君主は罰しなかった。
晏子は君主に、君主を侵害する臣を防がせず、君主に仁恵を施させようとした。
ゆえに簡公がその禍を受けた。

ゆえに子夏は言ったのだ。
うまく権勢を保つ者は、早いうちに姦悪の萌を絶つ、と。


季孫が魯で宰相だったとき、子路は郈の長官となった。
魯は、五月に民衆を集めて、長い堀を造った。
このとき、子路は自分の俸禄の穀物で酒と飯を作り、堀を造る人たちを五父の辻へ出迎えてふるまった。

孔子はこれを聞いて、子貢を行かせてその飯をひっくり返し、その器を壊して言った。
魯君の民である。そなたはなぜ民に食わせるのか、と。

子路はふつふつと怒り、袖をたくし上げて、孔子に教えを請うて言った。
先生は私が仁義を行うのが憎いのですか。
先生に学んでいることこそが仁義ですぞ。
仁義は天下の人々と財を共有し、その利益を同じく受けることです。
今、私は自分の俸禄の穀物を民にふるまいましたのに、だめだとはどうしてですか、と。

孔子は言った。
由の粗野なことよ。
私はそなたならば分かっておるだろうと思っておったのに、そなたはいまだに分かっておらぬ。
だからそなたはこのように礼儀を知らぬのだ。
そなたが民に食わせたのは、民を愛するからであろう。

そもそも礼とは、天子は天下を愛し、諸侯は国内を愛し、大夫は官職を愛し、士は己の家を愛するものである。
その愛する範囲を超えることを侵害するというのだ。
今、魯の君が民を治めておるのに、そなたは勝手に民を愛して私恩を施したのだ。
これは侵害というのだ。
戯言を言うでない、と。

その言葉を言い終わらぬ間に、季孫の使者が到着し、責め立てて言った。
私が民を召集して使っておるのに、先生は弟子に命じて労役の者たちに飯を食わせたとか。
私から民を奪おうというのですか、と。
孔子は馬車を駆って魯を去った。

孔子ほどの賢人であっても、季孫は魯の君主でもないのに、臣下の身分で君主のやり方を借りただけであるが、その姦悪を早いうちに形として現れる前に禁じておけば、子路が私恩を施すこともなく、国に害を及ぼすこともなかった。
ましてやそれが君主であればなおさらである。
景公の権勢をもって、田常の侵害を禁じていれば、必ずや子孫が脅かされ殺されるといった禍は起こらなかったであろう。


太公望が東の斉に封じられた。
斉の東海のほとりに処士の兄弟がいた。
狂矞、華士という。

この二人が論じて言うには、私たちは天子の臣とはならず、諸侯の友とならず、自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲む。
私は人に何も求めない。
お上から受ける名誉は無く、君主から受ける俸禄も無く、宮仕えをせず、耕作に励むのだ、と。

太公望は営丘に着くと、官吏に兄弟を捕らえて殺させ、刑罰の始まりとした。

周公旦が魯でこれを聞き、急使を発して問いただした。
かの二人は賢者です。
今、国を賜ったばかりなのに賢者を殺すとは何事ですか、と。

太公望は言った。
この兄弟は論じて言いました。
我らは天子の臣とはならず、諸侯の友とならず、自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲む。
我らは人に何も求めない。
お上から受ける名誉は無く、君主から受ける俸禄も無く、宮仕えをせず、耕作に励む、と。

あのような天子の臣とはならない者を私が得て臣とすることはできません。
諸侯の友とはならない者を私が得て使うことはできません。
自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲み、人に何も求めない者を、私は賞罰によって励ましたり禁じることはできません。

かつ、お上から名誉を受けぬというのでは、知恵者といえども私の用をなしません。
君主から俸禄を受けぬというのでは、賢者であるといえども私の功績を立てません。
宮仕えせぬなら、臣として治めることはできず、官職に任じられぬなら、忠誠を尽くすことはありません。

かつ、先王がその臣民を使った方法は、爵禄か刑罰です。
今これら四つを使うことができないなら、私はいったい誰の君となれましょうか。

兵站に従事せずに出世し、耕作をせずに名誉を得るというのは、国の人々を導くやり方ではありません。
今ここに馬がいるとしましょう。
これが駿馬のようであれば、天下で最良のものです。
しかし、これを駆っても進まず、引いても止まらず、左にも向かず、右にも向かぬ、というのでは、藏獲のごとき愚人であっても、その馬には頼らないでしょう。
藏獲が駿馬に頼るのは、駿馬の利を得て害を避けることができるのを願うからです。
今これが人の役に立たぬのなら、藏獲のごとき愚者といえども頼ったり致しません。

自分では世の賢士だと思っていても、君主の用をなさず、自分ではその行動が極めて立派だと思っていても、君主に仕えないのでは、明主でも臣とすることができず、また駿馬を左右に向かせることができないようなものです。
ですから私はあの兄弟を誅したのです、と。


また一説にはこうある。
太公望が東の斉に封じられた。
海沿いの地域に賢者狂矞がいた。
太公望はこれを聞きつけて会いに行った。
三度とも馬を門の外に止めさせ、しかも狂矞はこれに応えて会おうとしなかった。
太公望はこれを誅殺した。

この時に至って、周公旦は魯におり、駆けつけてこれを止めようとした。
到着するに及んで、すでに誅殺した後であった。

周公旦は言った。
狂矞は天下の賢者です。
あなたはどうして彼を誅殺したのですか、と。

太公望は言った。
狂矞はその主義として天子の臣とはならず、諸侯の友とはならないので、私は彼が法を乱し、国の教えを軽んじることを恐れたのです。ゆえに始めに誅殺しました。
今ここに馬がいるとしましょう。
その容姿は駿馬のようです。
しかしこれを駆っても進まず、引いても止まらないのでは、藏獲といえどもこれを頼みにして車を走らせたりはしないでしょう、と。


如耳が衛の嗣公に説いた。
衛の嗣公は悦んで嘆息した。
左右の近臣が言った。
公、どうして彼を宰相にしないのですか、と。

嗣公は言った。
馬が鹿に似て速ければ、千金に値するだろう。
しかし百金の馬がいて、一金の鹿がいないのは、馬は人の役に立っても、鹿は人の役に立たないからである。
今、如耳は万乗の国の宰相の器であるが、外の大国で用いられようという心積もりであって、その心は衛にはない。
弁説に丈け、智恵者であるといえども、私の用にはならない。
だから私は彼を宰相にしないのだ、と。


薛公が魏の昭王の宰相になったとき、王の近臣に双子の臣下がいて、陽胡、潘其といった。
王にはなはだ重んじられているが、薛公のためには働かない。
薛公はこれを心配した。

そこで二人を招いて双六をした。
まず人ごとに百金を与えて、この双子の兄弟と双六をさせ、また人ごとに二百金を益し与えて双六をさせた。

しばらくして取次の者が言った。
張季の子が門に参っております、と。

薛公は憤然として怒り、剣を撫でて取次の者に渡して言った。
張季を殺せ。
私は、季が私のためには働かないと聞いておる、と。

取次の者がしばらく立っているときに、季羽が側にいて言った。
そうではありません。
私はひそかに聞いております。
季は薛公のために働くことはなはだしい、と。
思いますに、季の人柄として表立って目立たないので、いまだにお耳に入っていないだけでしょう、と。

そこで薛公は命令をやめて殺さず、客として大いに礼遇して言った。
先ほどまではそなたが私のために働かないと聞いていたので、そなたを殺そうと思っていた。
今、そなたは本当に私のために働いてくれていると聞いた。
どうしてそなたを粗末にできようか、と。

薛公は穀倉の役人に命じて千石の穀物を贈り、財府の役人に命じて五百金を贈り、厩の役人に命じて良馬と堅固な車を二乗贈った。そして宦官に命じて宮廷の美女二十人を併せて季に贈った。

すると双子の兄弟は互いに言い合った。
薛公ために働けば必ず利益があり、薛公のために働かなければ必ず害がある。
我らは何が惜しくて薛公のために働かないでいようか、と。
そこでひそかに競い励んで薛公のために働いた。

薛公は臣下の権勢で、君主のやり方を借り、それによって害が生じるのを避けた。
これが君主であるなら、なおさらである。

烏を飼うには、その羽の先を切る。
その羽の先を切れば、必ず人に頼って食わねばならない。
これでどうして人に馴れずにいようか。

明主が臣下を従わせるのもまた同じことである。
君主に与えられる禄を利とせざるを得ず、お上の名に服せざるを得ないようにさせるのである。
君主の禄を利とし、お上の名に服させれば、どうして服せずにいられようか。


二、
申子が言った。
お上の明察が知られると、臣下は君主に用心して備え、明察でないことが知られると、臣下は君主を惑わそうとする。
君主が知っていると分かると、臣下はそれを飾り立て、君主が知っていないと分かると、臣下はこれを隠そうとする。
君主が無欲であると分かると、臣下は様子を伺い、君主に欲があると分かると、臣下はこれを餌にしてつけ入ろうとする。
ゆえにこう言うのだ。
相手の実情を知る方法は、ただ何も為さずに様子を伺うことだけである、と。


一説にはこうある。
申子が言った。
汝の言葉を慎め、人はその言葉によって汝を知ろうとする。
汝の行いを慎め、人はその行いによって汝に追随しようとする。
汝の知恵を見れば、人は汝に隠そうとする。
汝が無知だと分かれば、人は汝を欺こうとする。
汝に知識があると分かれば、人は汝に隠そうとする。
汝に知識がないと分かれば、人は汝を害しようとする。
ゆえに言う。
ただ何もせずにじっと伺うべきだ、と。


魏の田子方が唐易鞠に問うた。
鳥を射る弋者は何を戒めとするのかね、と。
答えて言った。
鳥たちは数十の目であなたを見ています。
あなたは二つの目で鳥に向かいます。
あなたは隠れているところを見つからないように気をつけることです、と。

田子方は言った。
よろしい。そなたはこの方法を弋で用いる。
私はこの方法を国を治めることに用いよう、と。

鄭の賢人がこれを聞いて言った。
田子方は身を隠すようにせねばならぬと分かっていても、いまだ身を隠す方法は分かっておらぬな。
心を虚無にして何も行わず、人に見せない、というのが身を隠すということなのだよ、と。


一説にはこうある。
斉の宣王は弋の心得を唐易子に問うた。
弋では何を重視するのかね、と。
唐易子は言った。
その身を隠すことが大切です、と。
王は言った。
身を隠すとはどういうことかね、と。

答えて言った。
鳥たちは数十の目で人を見ていますが、人は二つの目だけで鳥たちを見ます。
これでは身をうまく隠さざるを得ません。
だから言うのです。
身を隠すことが大切です、と。

王は言った。
それならば、天下を治める心得も、この弋のときの身を隠すという心得と同じではないか。
今、君主は二つの目で国中を見るが、国の人民は数万の目で君主を見ている。
君主はどうやってその身を隠すのが良いだろうか、と。

答えて言った。
鄭の賢人が言った言葉があります。
それは心を虚しく静かにし、その身は何も行わないようにし、人に何も見せないようにすることだ、と。
この言葉を、この身を隠すやり方だと言えましょう、と。


国羊は鄭君に重用されていた。
やがて鄭君が己を憎むようになったと聞きつけ、宴会で君に侍した機会に先んじて君に言った。
私がたまたま不幸にして過ちを犯しておりましたなら、どうかご主君、私にお申し付けください。
私はそれを改めます。
そうすれば私も死罪を免れましょう、と。


ある論客が韓の宣王に説いた。
宣王は悦んで嘆息した。
左右の近臣が、王が悦んでいたと引き合いに出して、その論客に告げ、恩を売ろうとした。


靖郭君が斉の宰相だったとき、王后が亡くなり、あとに誰がつくのかを誰も知らなかった。
そこで靖郭君は玉の耳飾りを献じ、王が誰に与えるかによってあとにつく者を知った。


一説にはこうある。
薛公が斉の宰相だったとき、斉の威王の夫人が亡くなった。
後宮に十人の妾がおり、皆、王に寵愛されていた。
薛公は、王が次に誰を夫人に立てようとしているのかを探り、その一人を夫人にするように推薦しようとした。

もし王がこれを聴き入れれば、薛公の意見は今後も王に用いられ、新たな夫人にも重用されようが、王がこれを聴き入れなければ、薛公の意見は今後用いられなくなり、新たな夫人にも軽んじられるであろう。

そこでまず、王が次に置こうとしているのが誰かを知り、王に推薦して夫人に立って欲しいと思った。
そこで十の玉の耳飾りを作り、そのうちの一つを特に美しく作って献上した。

王はこれらを十人の愛妾に分け与えた。
翌日、美しい耳飾りを付けている妾を見つけて、王に推薦して夫人にした。


甘茂は秦の恵王の宰相であった。
恵王は公孫衍を寵愛し、これと密約して言った。
私はそなたをすぐにでも宰相にしてやろう、と。
甘茂の部下が室の穴からこれを聞き、甘茂に告げた。

甘茂は室に入って王に見えて言った。
王は優れた宰相を得られましたとか。
私は是非とも再拝して祝賀致しとうございます、と。

王が言った。
私は国の政治をそなたに託しておる。
どうして他に宰相を得る必要があろうか、と。

答えて言った。
犀首を宰相にしようとしたではありませんか、と。

王は言った。
そなたはどうやってこれを聞いたのかね、と。

答えて言った。
犀首が私に言いました、と。

王は犀首が密約を漏らしたと怒り、これを追放した。


一説にはこうある。
犀首は天下の名将であり、梁王の臣下である。

秦王は犀首を得て共に天下を治めたいと思った。
犀首は言った。
私は梁王の臣下です。
我が主人の国を離れたり致しません、と。

それから一年が過ぎて、犀首は梁王に罪を受け、逃れて秦へ入った。
秦王は大いに礼遇した。

樗里疾は秦の将軍である。
犀首が自分に代わって将軍になるのではないかと恐れ、王がいつも密談をする室に穴を開けた。

すると俄かに王は犀首と計って言った。
私は韓を攻めようと思うのだが、どうであろうか、と。
王は言った。
私は国の政治をそなたに委ねたい。
そなたは必ずこのことを漏らさぬように、と。

犀首は繰り返し再拝して言った。
ご命令をお受け致します、と。

このとき樗里疾はすでに穴からこの話を聞いていた。

近臣たちは皆言い合った。
兵を秋に起こして韓を攻め、犀首を将軍にするそうだ、と。

この日のうちに近臣は皆これを知り、この月のうちに国中の皆がこれを知った。

王は樗里疾を召し出して言った。
どうしてこのように騒々しいのか。
この話はどこから出たのか、と。

樗里疾は言った。
犀首からのようです、と。

王は言った。
私は犀首と何も話していない。
犀首に約束したとはどういうことか、と。

樗里疾は言った。
犀首は最近罪を得て旅して仕えておりますから、その心は孤独でございます。
このように言いふらして自ら人びとに売り込もうとしているのでしょう、と。

王は言った。
そうであろう、と。

王は人をやって犀首を召し出そうとしたが、すでに逃げて他の諸侯の国に入っていた。


堂谿公が韓の昭侯に申した。
今ここに千金の玉杯があるとします。
もしそれに穴が空いていて底がなかったなら、水を入れて溜めることができますか、と。

昭侯は言った。
できない、と。

では土器があって、水漏れしないとしたら、酒を入れて溜めることができますか、と。

昭侯は言った。
できる、と。

堂谿公は言った。
そもそも土器は賤しいものですが、水漏れしなければ、酒を入れることができます。
しかし千金の玉杯は高価なものですが、底がなくて水が漏れるなら、水を入れておくことはできません。
これではいったい誰が飲み物を注ぐでしょうか。
今、君主として、群臣から聞いた言葉を他に漏らすなら、それは底のない玉杯と同じことです。
賢智の者がいるといえども、その力を尽くすことはできますまい。
君主が漏らしてしまうためです、と。

昭侯は言った。
その通りだ、と。

昭侯は堂谿公の言葉を聞いて、この後、天下の大事をなそうとするときは、独りで寝なかったときはない。
寝言を人に聞かれてその謀を知られることを恐れたからである。


一説にはこうある。
堂谿公が韓の昭侯に見えて申した。
今、白玉の杯があって底がなく、素焼きの土器があって底があるとしたら、ご主君は喉が渇いたとき、どちらを使って飲むでしょうか、と。

昭侯は言った。
素焼きの土器を使うだろうな、と。

堂谿公は言った。
白玉の杯は美しいのに、ご主君はそれを使って飲まないというのは、底がないからですか、と。

昭侯は言った。
そうだ、と。

堂谿公は言った。
君主たる者、群臣から聞いた言葉を他に漏らすのは、喩えば玉杯に底がないようなものです、と。

堂谿公が昭侯に見えて退出した日は、昭侯は必ず独りで寝るようにした。
ただ寝言によって妻や妾に秘密が漏れることを恐れたからである。


申子が言った。
自分の目で物事をみるのを明といい、自分の耳で直接聞くのを聡という。
ゆえに自分で判断できる者は、天下の主となることができる、と。



三、
宋の人で、酒を売る者がいた。
計り方は公平で、客を甚だ丁寧に遇し、作った酒は甚だ美味で、看板の幟は甚だ高く掲げていた。
しかし売れずに、酒は酸敗してしまった。

その理由が分からないので、知り合いの里の長老の楊倩に問うた。
倩は言った。
そなたの犬は獰猛かね、と。

答えて言った。
犬が獰猛なら、どうして酒が売れないのですか、と。

言った。
人々がその犬を恐れるからだよ。
例えば子供に銭を懐に持たせ、壺を提げて買いに行かせると、犬が待ち構えて子供を噛もうとするだろう。
これが酒が酸敗するまで売れない理由だよ、と。

国というものにもまた犬がいる。
道を心得た士が、国を治める術を抱いて、万乗の国の君主に進言しようと思っても、大臣が猛犬となって、出迎えて噛みつく。
これが君主が姦臣に覆われ脅かされる理由であり、道を心得た士が用いられない理由なのである。


桓公が管仲に問うた。
国を治めるには何に最も心配するべきかね、と。

答えて言った。
最も心配すべきは社の鼠です、と。

桓公は言った。
なぜ社の鼠を心配するのかね、と。

答えて言った。
ご主君は、かの社を造る様子をご覧になりましたか。
板を立てて壁を塗りますが、鼠がその隙間を穿ち、穴を掘ってその中に身を託します。
これを燻そうとすれば板を焼く恐れがあります。
これに水を注ぎ込もうとすれば塗った壁が崩れる恐れがあります。
こうしたわけで社の鼠を捕まえられないのです、と。

今、君主の左右に仕える臣下は、外では君主の権勢をかさにきて民から利を貪り、内では徒党を組んで君主を覆って姦悪をなす。
内では君主の実情を窺い知り外部に告げ、内外の諸臣諸官に権勢を振りかざして私腹を肥やし、役人がこれを誅罰しなければ法は乱れるが、これを誅罰すれば君主は放っておかないだろう。
そこでこれを見逃す。
これもまた社稷の鼠である。

ゆえにこのような臣下は君主の権勢を借りて禁制を好き勝手に破り、己のために尽くす者には必ず利を与え、己のために尽くさない者には必ず害が及ぶことを知らしめる。
これもまた猛犬である。

大臣は猛犬となって道を心得た士を噛みつき、左右の近臣は社の鼠となって君主の実情を窺っているのに、君主はそれを知らずにいる。
このようであれば、君主はどうして塞がれずにいられようか。
国はどうして亡ばずにいられようか。


一説にはこうある。
宋に、酒を売る者で、荘氏という者がいた。
その酒は常に美味であった。

ある人が下男に荘氏の酒を買いに行かせた。
すると荘氏の犬が下男に噛み付いた。
下男はそれ以上荘氏の店に入らず、他店の酒を買って帰った。

主人が問うて言った。
どうして荘氏の酒を買ってこなかったのだ、と。

答えて言った。
今日は荘氏の酒は酸敗していました、と。

ゆえにこう言われている。
犬を殺さねば、酒が腐る、と。


一説にはこうある。
桓公が管仲に問うた。
国を治めるのに何を心配すべきかね、と。

答えて言った。
最も心配すべきは社の鼠です。
かの社は木を立てて壁を塗ります。
鼠はそこに身を託します。
これを燻せば木は焼け、これに水を注げば壁が破れます。
これが社の鼠に苦しむ原因です、と。

今、君主の左右の近臣は、外では君主の権勢をかさにきて民から利益を貪り、内では徒党を組んで他人を欺き罵り、姦悪を覆い隠して君主を欺く。
これを誅罰しなければ法は乱れるが、これを誅罰すれば君主にも危難が及ぶので、これを許す。
これもまた社の鼠である。

ゆえに臣下は、君主の権勢を借りて禁制を好き勝手に破り、己のために尽くす者には必ず利を与え、己のために尽くさない者には必ず害が及ぶということをはっきり知らしめる。
これもまた猛犬である。

ゆえに左右の近臣は社の鼠となり、権勢を用いる大臣が猛犬となるなら、正しい政治の術が行われることはないだろう。


堯が天下を舜に譲ろうと思った。
鯀が諫めて言った。
不吉でございますな。
天下をただの平民に譲る者がおりましょうか、と。

堯は聞き入れず、兵を出して鯀を羽山の近郊で誅殺した。

共工がまた諫めて言った。
天下をただの平民に譲る者がおりましょうか、と。

堯は聞き入れず、また兵を出して共工を幽州の都で誅殺した。

こうなると、世に、天下を舜にゆずってはいけない、と諫める者はいない。

仲尼が之を聞いて言った。
堯が舜の賢能を見抜いたのは、難しいことではない。
諫言する者を誅殺して、必ず天下を舜に譲ったことこそ、難しいことである、と。


一説にはこうある。
堯が鯀と共工が疑って諫めたことによって、舜の賢能を見抜いた己の判断を曲げなかったことは、難しいことである、と。


楚の荘王のときに茅門の法があった。
群臣から大臣、諸公子まで皆、参朝する際に、馬蹄が門の溝にまで踏み込んだ者は、廷尉がその車の長柄を切り、その御者を殺す、とある。
このとき、太子が参朝して、その馬蹄が門の溝を踏んだ。

廷尉がその車の柄を切り、その御者を殺した。

太子は怒って、宮廷に入って王に泣きながら言った。
必ず私のために廷尉を誅殺してください、と。

王は言った。
法は宗廟を敬し、社稷を尊ぶためのものである。
ゆえに法を守り命令に従い、社稷を尊敬する者は社稷の臣である。
どうして誅殺することなどできようか。
もし法を犯し、命令を破り、社稷を尊敬しない者は、臣でありながら君主を侮り、下が上に逆らう者である。
臣が君主を侮れば君主は威厳を失い、下が上に逆らえば上の地位は危うい。
君主が威厳を失い、地位が危うくなれば、社稷は守られないだろう。
果たして私は何を子孫に残すことができようか、と。

そこで太子は帰り、太子の宮から出て、外で寝泊まりすること三日、王に再拝して死罪を請うた。


一説にはこうある。
楚王が急に太子を召し出した。
楚国の法では、車は茅門に入ることはできない。
しかし雨が降っていて、廷中に水たまりがあったので、太子はそのまま車を駆って茅門に入ろうとした。

廷尉は言った。
車は茅門に入ってはいけません。
法に背きます、と。

太子は言った。
王が急ぎお召しになったのだ。
水がひくのを待ってはおられぬ、と。
そのまま茅門に駆け入った。

廷尉は矛を振り上げてその馬を打ち、車を止めた。

太子は宮殿に入って王に泣きながら言った。
宮廷に水たまりが多かったので、車を駆って茅門に入ろうとしたところ、廷尉が法に背くと言って、矛を振り上げて私の馬を打ち、私の車を止めました。
王は必ずこの者を誅罰してください、と。

王は言った。
前に老いた主がいて、その命令に背かず、後に若い主がいて、そのご機嫌伺いをしない。
これはまことに我が法を守る臣である、と。

そこで爵位を二級進め、後門を開いて太子を出し、再び法に背かぬようにした。


衛の嗣君は薄疑に言った。
そなたは私の国を小国だとして、仕えるに足らないと思っているようだが、私はそなたを仕えさせたい。
爵位を進めて、そなたを上卿にしよう、と。
そこで田地一万頃を与えた。

薄疑は言った。
私の母は私に親しみ、私を万乗の国の宰相となっても充分ではないと思っています。
しかし私の家の巫女に蔡嫗という者がおり、私の母は深くこの者を愛し信頼して家事を任せております。
私の智恵でも充分に家事をすることができます。
私の母はことごとく私に相談しますが、すでに私に相談したことでも、また必ず蔡嫗にも相談して決めてもらっています。
つまり母は私の智恵や能力を評して万乗の国の宰相となっても充分ではないと思い、親しみは母と子の間柄ですが、それでもなお、家事は蔡嫗と相談せずにはいられません。

今、私とご主君の間柄は、母と子の親しみではありません。
しかもご主君には皆、蔡嫗がおります。
ご主君にとっての蔡嫗とは、その重臣のことです。
そしてその重臣は私欲をなす者たちです。

そもそも私欲をなすのは法に背くことです。
そして私の言うのは法を守ることです。
法に背くことと法を守ることは並び立ちません。
お受けすることはできません、と。


一説にはこうある。
衛君が晋へ行った。
そのとき、薄疑に言った。
私はそなたを共に連れて行きたい、と。

薄疑は言った。
母が家におります。
帰って母と相談しようと思います、と。

そこで衛君はみずから薄疑の母に頼んだ。

薄疑の母が言った。
薄疑はあなた様の臣でございます。
あなた様が疑を連れていきたいとの思し召しは、はなはだありがたいことで思います、と。

衛君は言った。
私はすでにそなたの母に相談して、母は許可してくれたぞ、と。

薄疑は帰って母に言った。
衛君が私を重んじてくださるのと、母が私を愛することは、いずれが勝りましょうか、と。

母は言った。
私が我が子を愛するのには及ばないでしょう、と。

疑は言った。
衛君が私を賢能だと思ってくださるのと、母が私を賢能だと思ってくださるのとでは、どちらが勝りましょうか、と。

母は言った。
私が我が子を賢能だと思うことには及ばないでしょう、と。

疑は言った。
母上は私と家事の相談をしてすでに決まったのに、さらにこれを占師の蔡嫗とお決めになります。
今、衛君は私を連れて行き、私と相談して決めたとしても、必ず他の蔡嫗と相談して私との決定を破るでしょう。
このようであれば私は長く臣としてお仕えすることはできないでしょう、と。


かの歌を教える者は、まず大きく声を出させ、声の抑揚を変えさせたりして、その声が音律に適する者には弟子として教える。


一説にはこうある。
歌を教える者は、まず法によって声をはかり、激しく発声して宮の音になるように、ゆっくり発声して徴の音になるようにさせる。
激しく発声して宮の音にならず、ゆっくり発声して徴の音にならなければ教えない。


呉起は衛の左氏地方の人である。
妻に組紐を織らせたところ、幅が寸法より狭かった。
呉子はこれを作りなおすように言った。
妻は言った。
わかりました、と。

できあがってまた計ってみると、やはり寸法が合わない。
呉子は大いに怒った。
妻が答えた。
最初に経糸をかけて作るものですから、直すことができなかったのです、と。
呉子は妻を追い出した。

妻はその兄に頼んで呉子のもとに帰らせてもらおうとした。
その兄が言った。
呉子は法に精通している者だ。
その法を用いて、万乗の国のために功をなそうと思っている。
必ずまず家で行なっておいて、その後に国で行おうとしているのだ。
おまえは呉子のとことへ帰ろうと願ってはならないよ、と。

その妻の弟が衛君に重用されていた。
そこで衛君の権勢に頼って呉子に頼んだ。
呉子は聴き入れず、そのまま衛を去って楚に行った。


一説にはこうある。
呉子が妻に組紐を見せた。
そしてこう言った。
そなた、私のために組紐を織ってくれ、こんなふうにしてくれよ、と。

組紐は完成し、呉子に渡した。
その組紐ははなはだ善くできている。
呉子は言った。
そなたに組紐を作らせ、こんな風に作ってくれと言ったのに、今、それとは違ってはなはだ善くできあがったのは、どうしてか、と。
妻は言った。
材料の使い方は同じですが、手を加えて善くしたのです、と。
呉起は言った。
私が言った通りにしなかったのだな、と。

妻を着替えさせ実家に帰らせた。
妻の父が出向いて詫びた。
呉起はこう言って断った。
私の家では嘘は言いません、と。


晋の文公が孤偃に問うた。
私は肥えてうまい肉はあまねく堂の臣下たちに分け与え、杯酒や高杯の肉は後宮の女たちに分け与え、壺の酒は清むことなく、生肉は乾し肉にされることなく、一匹の牛を殺しても国中にあまねく分け与え、年々の貢納される織物はことごとく士卒に与えて着せる。
こうしておれば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は言った。
足りません、と。

文公は言った。
私は関所や市場の税を弛め、刑罰を軽くした。こうしておけば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は言った。
足りません、と。

文公は言った。
我が民で財産を失ってしまった者がいれば、私みずから郎中に事情を調べさせ、罪のある者は赦し、貧しくて困窮している者には与えている。
こうしておけば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は答えた。
足りません。

これらは皆、民の生活を大切にするからですが、民を戦わせるのは、殺すことになります。
民がご主君を慕い従うのは、生活を大切にしてくれるからです。
ご主君はこの慕い従う民を迎えて殺してしまうのでは、ご主君に従う理由を失ってしまいます、と。

文公は言った。
それならばどのようにすれば民を戦わせることができるのかね、と。
狐子は答えた。
民に戦わざるを得ないようにさせることです、と。

文公は言った。
どうやって戦わざるを得ないようにさせるのかね、と。
狐子は答えた。
信賞必罰によって戦わせることができます、と。

文公は言った。
刑罰の限度はどこまでだろうか、と。
答えて言った。
ご主君に親しい者、身分の高い者でも避けず、寵愛する者にも行うのです、と。

文公は言った。
よろしい、と。

翌日、圃陸で狩りを行うことにして、その日の正午までに集まるように決め、遅れた者には軍法によって罰する、と命じた。

ここにおいて、文公に顚頡という寵愛する者がいて、期限に遅れた。
役人がその処罰を願い出た。
文公は涙を流して悲しんだ。
役人は言った。
処罰をしてくださいますように、と。
そのまま顚頡の背を斬って罰し、臣民に知らしめ、法が確実に行われることを明らかにした。

その後、臣民は皆恐れて言った。
ご主君は顚頡を寵愛すること、かくの如くはなはだしかったが、それでもなおご主君は法を行われた。
我らに対してなど何の躊躇いがあろうか、と。

文公は民を戦わせることができるようになったと判断して、兵を起こし、原を伐って勝ち、衛を伐ってその国の畝を東に並べ、衛の五鹿を奪い、陽を攻め、虢に勝ち、曹を伐ち、南では鄭の都を囲み、城壁の防備を取り除き、宋の囲みを戦わずして解かせ、引き返して楚軍と城濮で戦い、大いに楚軍を破り、引き返して踐土で会盟を行い、そのまま衡雍で天子に謁見し覇者の礼を成した。
ひとたび兵を起こし、八つの功をあげた。

こうなった理由は他でもない。
狐偃の謀に従い、顚頡の背を斬って見せたからである。


もしできものが痛むなら、骨髄まで抉らねば治らず、苦しさを堪えることはできない。
こもことを心得ていなければ、人に半寸の小さな石針でできものを抉り取らせることはできないであろう。

今、君主が政治に対するやり方もそうである。
苦痛の後に安楽が来ることを知らないわけではないだろう。
国を治めようと思う心がけがこのようでなければ、賢知の臣の言説を聴き入れ、姦臣を誅罰することはできないだろう。

姦臣は必ず重臣である。
重臣は必ず君主がはなはだ親愛する者である。
君主がはなはだ親愛する者は堅白を同じくする者である。
それを処士の身分で、君主が堅白のごとく親愛する臣を引き離そうとするのは、左の股を右の股から引き離すようなものである。
これではその身は必ず死に、その言説は行われないのである。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 左下

一、
罪を犯して罰を受けるならば、人はお上を怨まない。
ゆえに跀危は子皐を生かした。
功をあげて賞を受けるならば、臣は君主に恩義を感じない。
だから翟璜は証文を手にして軒に乗った。

魏の襄王は賞の与え方をよく分かっていなかったので、昭卯は五乗の禄を受けながら藁草履を履いているようだと言った。お上が臣下を任ずるに誤りがなければ、臣下は能力をごまかさず、臣下はかの少室周のようであろう。


二、
明君は権勢に頼り、信義に頼らない。
故に東郭牙は管仲を批判した。
明君は術に頼り、信義に頼らない。
故に渾軒は文公を誹った。
故に法術の士は、信賞によって臣下に能力を尽くさせ、必罰によって姦邪を禁じる。

人によってその言行に善し悪しはあるが、必ず利となるところを用いる。
故に趙簡主は陽虎を家宰にし、魯の哀公は孔子に一足のことを問うた。


三、
君臣の間の道理を忘れると、周の文王は自分で履物をなおすということになる。
朝廷でのときと居室でのくつろぎのときも変わらずにいると、魯の季孫は一生謹厳にしていたのに賊にあったということになる。


四、
君主が、禁じるべきことを禁じずに利益があると思い、利益があることを禁じるならば、神といえどもうまくいかないだろう。
罰すべきことを誉め、賞すべきことを謗るならば、堯といえどもうまく治めることができないだろう。

もし門を建てても入らせず、利益を見せておきながら進ませないなら、乱が生じる原因となる。
斉侯が左右の近臣の取次を聴かず、魏主が推薦者に取り合わず、明察で群臣を見分けるならば、鉅は金銭を使わず、孱は玉壁を用いなかっただろう。
西門豹は再び鄴を治めたいと願った話によって、これを知るに充分である。
そして狗盗の子が皮衣の尾を誇り、跀危の子が袴が立派なのを自慢することと同じである。
また、子綽の、左右の手で画くことや、蟻を追い蝿を払う、ということがある。
どうして、桓公が臣下が官職を求めることを憂いたことや、宣王が役人が馬を痩せさせることを心配せずにいられようか。


五、
臣下が謙遜で質素であることによって善行だとするのは、爵禄によって勧奨するには及ばない。
君主が臣下を寵愛し栄光を与えることに節度がなくなると、臣下が君主の地位を侵し圧迫するだろう。
その例は、苗賁皇が獻伯を誹った話、孔子が晏嬰を批判した話がある。

故に仲尼は管仲と孫叔敖とを論じて、出入の状態が異なると言った。
陽虎がその臣下を君主に推薦したことを言ったときに、簡主が臣下に答えたことは、君主の術を忘れたものである。
徒党を組んで互いに結束を固め、臣下が欲を得るときは、君主は孤立する。
群臣が公の心で賢人を推挙し、徒党を組んで互いに結束しないときは、君主は耳目を塞がれずものごとを見分けることができる。
陽虎が趙武の賢人ぶりを、解狐が公正に裁こうとしたのに、簡主は棘を植えたようなものだと言ったことは、国に対して教えるようなことではないだろう。


六、
公室の権力が弱くなると、臣下の直言を忌み嫌い、臣民の私的なふるまいが横行すると、公のための功が少なくなる。

その例証は、晋の范文子が直言をして、武子が杖で打ったこと、鄭の子産が忠諫し、子国がそれを怒ったこと、などがある。
また、趙の梁車は法を守ったために、成侯はその職を解いたこと、管仲は公正であったために国人はこれを怨んだこと、などがある。


右は経である。



一、
孔子が衛で宰相になったとき、弟子の子皐が裁判官となり、罪人を足切りの刑に処した。
その足切りの刑となった者は都の門番となった。

ある人で孔子を衛君に謗る者がいた。
言うには、仲尼は反乱を起こそうとしております、と。
衛君は孔子を捕らえようとした。

孔子は逃げ、弟子もみな逃れた。
子皐が遅れて都の門から出ようとした。
すると、かの足切りの刑に処された門番が子皐を手引きして、門の地下室へ隠れさせた。
役人が追ってきたが見つけられなかった。

夜更けに子皐がその門番に問うた。
私は法を曲げることができぬゆえ、私はそなたの足を切った。
今こそそなたはその仇に報いる時であろう。
それなのに、そなたはどうして私を逃がそうとするのかね。
私はどうしてそなたにこのようにしてもらえるのかね、と。

足切りの門番は言った。
私が足を切られたのは、もとより私の犯した罪に、法が相当していたからで、どうしようもありません。
しかしあなたは私の罪を正しく裁こうとして、法令を熟読熟慮なさり、私の申し上げることにお言葉を補われ、私が罪を免れることができないかとお考えいただいたこと、大変なものでございました。
私はそれをよく存じております。
裁判が決まり罪が確定しますと、あなたは傷ましそうにして気分が晴れず、お顔にそれが表れており、私はこれもまたよく分かりました。
あなたは私に私的な感情でそうなさったのではなく、天性として仁愛の心をお持ちであったからです。
これが私が悦んであなたを敬愛する理由なのです、と。



田子方が斉から魏へ行った。
途中、翟黄が軒に乗り、騎馬兵を従えて出てくるのを遠くから見て、魏の文公だろうと思った。
そこで車を別の路に移して避けたのに、それは何ということはない、翟黄だった。

方は問うた。
そなたはどうしてこの車に乗っているのかね、と。

翟黄は言った。
ご主君は中山を伐とうと計画をたてなさったので、私は翟角を推挙しましたところ、翟角の計謀が用いられました。
いよいよ中山を伐つ段階になると、私は楽羊を推挙し、中山は陥落しました。
ご主君が中山を得て、これをどう治めようかと心配なさるので、私は李克を推挙し、中山はうまく治まりました。
これによって、ご主君にこの車を賜ったのです、と。

方は言った。
この者の実際の功績に比べたら、軒を賜ったくらいではまだまだ少ない、と。



秦と韓が魏を攻めようとした。
そこで昭卯は西へ赴き説いて秦と韓の軍をやめさせた。

斉と楚が魏を攻めようとした。
昭卯は東へ赴き説いて斉と楚の軍をやめさせた。

魏の襄王は昭卯を五乗将軍に任じ、養った。
昭卯は言った。
伯夷が将軍の位で首陽山のふもとに葬られたとしたら、天下の人は言ったでしょう。
伯夷ほどの賢智と仁徳を備えており、称えられているのに、将軍の位で葬られたのでは、その手足さえも掩うに足りないでしょう、と。
今、私は四国の兵をやめさせたのです。
それなのに王は私に五乗を与えただけです。
こては私の功績に比べたら、大儲けをしたのになお藁草履を履いているようなものです、と。



孔子が言った。
優れた官吏は民に徳を植えつけ、優れた官吏になれない者は民に怨みを植えつける。
槩は、ますに入れた穀物を平らにするものであり、官吏は法を公平にするものである。
国を治める者は公平を失ってはならない、と。



少室周は昔の清廉潔白な者である。
趙襄主の侍衛となった。
あるとき中牟の徐子と力比べをして、敵わなかった。
そこで、宮殿に入ってこのことを趙襄主に、自分と代わりたいと言った。

趙襄主は言った。
そなたの地位は誰もが望むものである。
それなのにどうして徐子を推挙して自分と代わろうとするのか、と。

周は言った。
私はこの力をもってご主君にお仕えしております。
今、徐子の力は私より強いのですから、私が徐子と代わらなければ、おそらく他人がこのことを申し立てて非難するでしょう、と。


また一説にはこうある。
少室周は趙襄主の驂乗となり、晋陽へ行った。
すると、そこに力士の牛子耕という者がいた。
周は共に力比べをして勝てなかった。

周は君主に言った。
ご主君が私を驂乗とした理由は、私の力が強いからです。
今、私より力の強い者がおりました。願わくば、この者を推挙したいのです、と。



二、
斉の桓公が管仲を取り立てようとした。
群臣に命令して言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにする。
賛成する者は門の左へ、さんせいしない者は門の右へ移動せよ、と。
すると東郭牙は、門の正面に立った。

桓公は言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにすると命令して言った。
賛成する者は左に、賛成しない者は右に移動せよ、と。
今、そなたはどうそて門の正面に立つのか、と。

牙が言った。
管仲の智恵で天下を平定できるとお思いか、と。
桓公は言った。できるだろう、と。

その決断力で国の大事を成すことができましょうか、と。
桓公は言った。そうするだろう、と。

牙は言った。
もしその智恵は天下を平定でき、その決断力は大事を成すことができ、そのためにご主君はこの者に国の権勢を与えて、管仲がその能力をご主君の権勢に乗せて、斉国を治めてゆくとしたら、危険なことは無いと言えましょうか、と。

桓公は言った。よろしい、と。
そこで隰朋に内政をさせ、管仲に外交をさせて、互いに意見を交わせるようにした。



晋の文公が亡命していたとき、箕鄭は食べ物を入れた壺を提げて従っていた。
あるとき、道に迷って、文公とはぐれてしまった。
飢えて道すがら泣きたくなり、とても腹が減ったが、耐えて壺の食べ物に手を出さなかった。

文公が国に帰ったあと、兵を挙げて原を攻めて落とした。
文公は言った。
あの者は容易く飢えの苦しみを耐え忍び、壺の食べ物に手を出さなかった。
きっと原を任せても反かないだろう、と。
そこで箕鄭を挙げて原の長官に任じた。

大夫の渾軒がこれを聞いて、誤りだとして言った。
壺の食べ物に手を出さなかったという理由で、原を任せても反かないと思うのは、何とも術がないではないか。
すなわち明主は臣が己に反かないことを頼りとせず、臣が己に反けないないように備えることを頼りとするものである。
臣が己を欺かないことを頼りとせず、臣が己を欺けぬように備えることを頼りとするものである、と。



陽虎の論説に言う。
君主が賢明なら臣下は心を尽くしてこれに仕え、不肖ならば姦悪を隠して君主を試すのだ、と。
陽虎は魯を追われて、斉に疑われ、逃げて趙へ行った。
趙簡主はこれを迎えて宰相にした。

左右の近臣が言った。
陽虎は国の政権を盗みとるのがうまいと聞きます。
どうして宰相になどなさるのですか、と。

趙簡主は言った。
陽虎は政権を盗みとることに務め、私は政権を守るこよに務める。
私が先に守っていれば、彼は利を得ることができないだろう、と。

そのまま術を用いて陽虎を統御した。
陽虎はあえて悪事をなさず、善良によって趙簡主に仕え、趙簡主の権勢を強めた。
こうしてほとんど覇者となるほどに強くなった。



魯の哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
昔、夔という者がいて、もともと片足だけであった、と。
それは果たして本当に片足だけの者だったということがあるだろうか、と。

孔子は答えて言った。
いいえ、夔は片足だったのではございません。
夔はひねくれ者で害悪の心を抱き、人々の多くはこれを喜びませんでした。
それでも夔が人からの害を免れることができたのは、夔が信であったからです。
人は皆言いました。
ただこの信ひとつで足りる、と。
夔は片足だったのではございません。
信ひとつで足りたということなのです、と。

哀公は言った。
確かにそのように信であれば足りるであろうな、と。


一説にはこうある。
哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
夔は片足であった、と。
これは本当かね、と。

孔子は答えた。
夔は人間です。
どうして足が一本だけだったりしましょうか。
夔は他の者と変わったところはございませんでしたが、ただ音楽に通じておりました。
堯は言いました。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
そして楽正として用いました。
ゆえに君子は言うのです。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
片足だったのではございません、と。



三、
周の文王が崇を伐った。
鳳黄の都の跡地に来たとき、足袋の紐が解けたので、自分で結びなおした。

太公望が言った。
何故ご自身でなさるのか、と。

文王は言った。
君主に仕える者に、上の臣は皆、君主の師であり、中の臣は皆、君主の友であり、下の臣は皆、君主の使用人である。
今、臣は皆、先君からの臣である。
ゆえにこのようなことで使うことなどできない、と。


一説にはこうある。
晋の文公が楚と戦った。
黄鳳の陵に来たとき、履物の紐が解けたので、自分で結びなおした。

左右の近臣が言った。
人を使ってはいけないのですか、と。

文公は言った。
私は聞いている。
上君と共に居る臣は皆、君主の畏敬する者であり、中君と共に居る臣は皆、君主の愛する者であり、下君と共に居る臣は皆、君主の侮る者である、と。
私は不肖であるとはいえ、先君からの臣がみな仕えてくれているので、このようなことをさせるのを憚るのだ、と。



魯の季孫は士を好み、生涯礼儀正しく、私室にいるときも衣服は常に朝廷にいるときのようであった。
しかし季孫がたまたま怠り、過失があって長く礼をなすことができなかったので、客たちは自分を嫌い軽んじているのだと思い、互いに季孫を怨み、とうとう季孫を殺してしまった。
ゆえに君子はやりすぎることを避ける。

斉の南宮敬子が顔涿聚に問うた。
季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服で客に会うこと、数十人に及んだ。
しかし賊に害されたのは何故であろうか、と。

答えて言った。
昔、周の成王は道化や侏儒を傍に置き、好き勝手にふるまっていましたが、物事は君子と相談して決めました。
これが欲を天下になすということです。
今、季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服を身につけて会う者が数十人に及んでも、道化や侏儒と物事を決めたので、賊に害されたのです。
ゆえに、こう言うのです。
重要なのは誰と一緒にいるか、ではなく、誰と一緒に謀るかである、と。



孔子が魯の哀公に侍って坐していた。
哀公が孔子に桃と黍を賜った。
哀公はそれを食べるように促した。
仲尼はまず黍を食べてから桃を食べた。
左右の近臣は皆、口を覆って笑った。

哀公は言った。
黍は食べるものではなく、桃の毛を拭うためのものだ、と。

仲尼は答えて言った。
丘もそれを存じております。
かの黍は五穀の第一であり、先王を祭るときの最上の供物です。
草木の実は六つあって、桃は下級であり、先王を祭るときに廟に入れることはできません。
丘はこう聞いております。
君子は賤しいもので貴いものを拭う、と。
しかし、貴いもので賤しいものを拭う、とは聞いておりません。
今、五穀の長である黍で、草木の実の下級なものを拭うということは、上で下を拭うことになります。
丘は、これは義を妨げるものだと思いましたので、あえて宗廟の供物である黍に桃が先んじないようにしたのでございます、と。



趙簡主が左右の近臣に言った。
車の敷物が立派すぎる。
そもそも冠は粗末であっても必ず頭に乗せる。
靴は高価であっても必ず足に履くものである。
今、車の敷物はこのように立派すぎる。
私はいったいどんな高価な靴でこれを踏めばいいのだろうか。
下を立派にしすぎて上を損耗するというのでは、正道を害する原因である、と。



費仲が紂に説いた。
西伯昌は賢人です。
人民は皆これを悦び、諸侯がこれに味方しております。
誅伐せねばなりません。
誅伐せねば、必ず殷の憂いとなりましょう、と。

紂は言った。
そなたの言う通りであれば道を心得た者であろう。
どうして誅伐することができようか、と。

費仲は言った。
冠は古びて穴が空いても必ず頭に乗せ、靴は五色で飾り立てられていても必ず地面を踏みつけます。
今、西伯昌は臣下の身です。
正道を修めて人心を集めております。
ついには天下の憂いとなるとすれば、それは必ず昌でしょう。
そもそも人々がその賢人たるをもって主に戴こうとしているのですから、誅伐せぬわけにはいきません。
かつ、君主が臣下を誅伐するのです。
どうして誤りがありましょうか、と。

紂は言った。
かの仁義というものは、上が下に対して推奨するものである。
今、昌は仁義を好む者であるのに、これを誅伐することなどできない、と。

費仲は三たび説き諫めたが聴き入れなかった。
ゆえに紂は亡んだ。



斉の宣王が匡倩に問うた。
儒者でも賭博をするのか、と。
答えた。いいえ。
王は言った。どうしてか、と。

匡倩は答えて言った。
賭博は梟という駒を大切にします。
しかし賭博で勝つには必ず相手の梟を殺さねばなりません。
梟を殺すということは、大切にしているものを殺すということになります。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに賭博はしないのです、と。

また問うた。
儒者は弋をするのか、と。
言った。いいえ。

弋は下から上にいる鳥を射て害するものです。
これは臣下が君主を傷つけるようなものです。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに弋はしないのです。

また問うた。
儒者は瑟を奏でるのか、と。
言った。いいえ。

かの瑟というものは小絃で大きな音を出し、大絃で小さな音を出します。
これは大小の順序をかえることになり、貴賤の位をかえることに通じます。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに瑟を奏でません、と。

宣王は言った。よくわかった、と。



仲尼は言った。
民を大臣に諂わせるよりは、むしろ民を君主に諂わせる方がましだ、と。



四、
詎は斉の処士であり、孱は魏の処士である。
斉、魏の君主が明察ではなかったために、自分で国内を見渡すことができず、左右の近臣の言葉を聴き入れた。
ゆえに二人は黄金や宝玉を使って朝廷に入り仕えようとした。



魏の西門豹は鄴の長官となった。
清廉で私欲なく潔白で実直であり、わずかも私利を計らなかった。
そして魏君の左右の近臣を軽んじた。
そこで左右の近臣たちは互いに徒党を組んで西門豹を憎んだ。

その後一年が経ち、会計を報告しに参朝した。
すると魏君は西門豹の官印を召し上げて解任した。

西門豹はみずから願い出て言った。
私はこれまで鄴の治め方を知りませんでした。
今、心得ました。
願わくば官印をたまわり、再び鄴を治めたく存じます。
もしうまくいきませんでしたなら、斧斬りの刑に服します、と。

魏の文侯は気の毒に思って再び西門豹に官印を与えた。

そこで西門豹は民から重税を取り立て、しきりに左右の近臣に賄賂を贈ってご機嫌伺いをした。

一年が経ち会計の報告をした。
文侯はこれを迎えて拝礼した。

西門豹は答えて言った。
私はご主君のために鄴を治めましたが、ご主君は私から官印を取り上げなさいました。
今、私は左右の近臣のために鄴を治めましたのに、ご主君は私に拝礼してお迎えになりました。
これでは私は鄴を治めることなどできません、と。

そのまま官印を返納して立ち去ろうとした。
文侯は受け取らずに言った。
私はこれまでそなたのことをよく知らなかった。
今、知ったのだ。
願わくばそなたは一層私のために鄴を治めてくれまいか、と。
そのまま官印を受け取らずに西門豹に戻した。



斉に狗盗の子と刖危の子がいて、戯れて父の自慢をし合った。
狗盗の子は言った。
我が父の皮衣には尻尾が付いているんだぞ、と。
刖危の子は言った。
我が父の袴は夏も冬も立派なんだぞ、と。



子綽は言った。
左手で方形を画きながら、右手で円形を画くことができる者はいない。
肉を置いて蟻を追い払おうとすれば、蟻はますます多く集まり、魚を置いて蝿を追い払おうとすれば、蝿はますます寄ってくるだろう、と。



斉の桓公が管仲に言った。
官職の数は少ないのに、それを望む者は多い。
私はこれを心配している、と。

管仲は言った。
ご主君が左右の近臣の取りなしを聴き入れず、臣下の能力によって俸禄を授け、功績を記録しておいて官職を与えれば、むやみに官職を望む者はいなくなりましょう。
ご主君、ご心配には及びません、と。



韓宣子は言った。
私の馬には豆も粟も多く与えている。
しかしとても痩せているのは何故だろうか。
私はこれを心配しているのだ、と。

周巿が答えて言った。
馬番に粟を馬に好きなだけ食べさせたなら、肥えさせまいとしても、かなわぬでしょう。
表向きは多く与えていると言うものの、実際は少ししか与えていないのでしょう。
痩せさせないようにしても、かなわぬでしょう。
ご主君は、その実情をよくお調べなさらずに、座してこれを心配しても、馬は肥えないでしょう、と。



斉の桓公が官吏を取り立てることについて管仲に問うた。
管仲は言った。
人の弁説をはっきり聴き分け、財貨に対して清廉潔白で、人情を理解している、という点で私、夷吾は弦商には及びませぬ。
これを取り立てて裁判の長官とするのがよろしいでしょう。

登降の作法や敬礼の作法を心得、礼儀に通じて他国の賓客をもてなすという点で、私は隰朋には及びませぬ。
これを取り立てて外交の長官とするのがよろしいでしょう。

草むらを切り拓き邑を造り、地を開拓して穀物を作る、という点で、私は寧武には及びませぬ。
これを取り立てて農政の長官とするのがよろしいでしょう。

三軍がすでに陣を構え、士卒に死は故郷に帰るかのごとく思わせる、という点で、私は公子成父には及びませぬ。
これを取り立てて大将軍とするのがよろしいでしょう。

ご主君の顔色に逆らっても強く諫言する、という点で、私は東郭牙には及びませぬ。
これを取り立てて諫臣とするのがよろしいでしょう。

斉を治めるにおいて、この五人を用いれば充分足ります。
ご主君が天下の覇王たらんとお望みであれば、私、夷吾がここにおります、と。




五、
孟獻伯は魯の宰相であった。
堂の下にはあかざや豆の葉が生え、門の外にはいばらが伸びていた。
食事のときは違う味のものはなく、坐るときは敷物を重ねず、家の妾で絹織物を着る者はなく、国にいるときには馬に粟を与えず、国を出るときには車を従えなかった。

叔向はこれを聞いて、苗賁皇に告げた。
賁皇はこれを良しとせず言った。
これは君主から爵禄を放り出して、下を手懐けているのです、と。


一説にはこうある。
孟獻伯が魯の上卿に任ぜられた。
叔向が祝賀するために出向いた。
すると、門に馬が繋がれていたが、麦や粟を食ってはいなかった。

叔向は言った。
あなたの副馬と副車がないのはどうしてですか、と。

獻伯は言った。
私が国中の人を見ると、まだ飢えた顔色をした者がおりました。
ですから馬に麦や粟を与えていないのです。
白髪混じりの歳になっても徒歩の者が多いので、副車を付けないのです、と。

叔向は言った。
私は始め、あなたが上卿に任ぜられたのをお祝い申し上げるために参ったのですが、今はあなたの倹約にお祝い申し上げます、と。

叔向は獻伯の家を出てから苗賁皇に語った。
私に賛成して孟獻伯の倹約をお祝いなされ、と。

苗賁皇は言った。
どうして祝うことなどありましょうか。
そもそも爵禄や旗や紋章は功績によって区別し、賢人か不肖かを分けるためのものです。
ゆえに晋国の法に、上大夫には車二つに馬二組、中大夫には車二つに馬一組、下大夫は車一つに馬一組、と定めておるのは、身分の等級を明らかにするためです。
かつ、かの卿には必ず軍役があります。
このために車や馬を整え、車の士卒や徒卒をそろえ、戦に備えます。
国の難事には万一に備え、平時には政治に務めるのです。
今、その国の政治を乱し、万一の備えも乏しくし、それで節約、倹約を成し遂げて、自分の名声を美しくする。
孟獻伯の倹約はよろしいが、それでどうして祝賀などできましょうか、と。



管仲は斉の宰相になった。
桓公に申した。
私は地位を貴くしていただきました。
しかしまだ私は貧しいのです、と。
桓公は言った。
そなたに三百乗の地を与えよう、と。

管仲は言った。
私は富ませていただきました。
しかしまだ私は家柄が卑しいのです、と。
桓公は、管仲を高氏、国氏よりも上とした。

管仲は言った。
私は家柄を尊くしていただきました。
しかしまだ私は公室に疎遠なのです、と。
そこで桓公は管仲を仲父と呼ぶことにした。

孔子はこれを聞いて非難して言った。
増長して君主を圧迫しておる、と。


一説にはこうある。
管仲父は外に出るときには車に朱塗りの傘を立て、青衣を従え、音楽を奏でさせながら食事をし、庭には鼎を飾り、三百乗の地を持っていた。

孔子は言った。
管仲は優れた大臣だったが、その増長ぶりは君主を圧迫しておる、と。



孫叔敖は楚の宰相になった。
一般の兵卒の乗る牝馬の引く車に乗り、粗づきの飯と菜葉や汁、乾燥させた魚を食べ、冬は羊の皮衣、夏は葛衣を着て、飢えた顔色をしていた。
孫叔敖は優れた大臣である。
しかしその倹約ぶりは下を圧迫する。



陽虎が斉を去って趙に逃げた。
趙簡主が問うた。
私は聞いている。
そなたは人を適切に推挙することができる、と。

陽虎は言った。
私が魯におりましたとき、三人を推挙したところ、皆宰相となりました。私が魯で罪人となると、皆が私を捜索しました。
私が斉におりましたとき、三人を推挙したところ、一人は王の側近となり、一人は県令となり、一人は候吏となりました。
私が斉で罪人となると、王の側近となった者は私に会わず、県令は私を待ち構えて捕縛しようとし、候吏は私を追いかけて国境まで来て、私に追いつけずに止まりました。
私は人を推挙することがうまくはありません、と。

趙簡主は腹を抱えて笑って言った。
橘や柚を植える者は、これを食うときになれば甘く、これを嗅げば良い香りがする。
枳や棘を植える者は、それが育ってしまえば人を刺す。
ゆえに君子は人を立てるときには慎重に行うのだ、と。



晋の中牟の長官に欠員が出た。
晋の平公は趙武に問うた。
中牟は我が国にとって股や肱のようであり、邯鄲にとって肩や股のような、要地である。
私はそこに優れた長官を立てたいと思う。
誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
邢伯の子がよろしいでしょう、と。

平公は言った。
邢伯はそなたの仇ではないか、と。

趙武は言った。
私的な仇は朝廷に持ち込みません、と。

平公はまた問うた。
中府の長官は、誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
私の子がよろしいでしょう、と。

だから言うのだ。
他人を推挙するときは仇でもかまわず、身内を推挙するときは我が子でもかまわない、と。



晋の趙武が君主に人を推挙すること四十六人に及んだ。
趙武が死んだとき、その人々は皆弔問客として弔った。
趙武が私恩を売らなかったことは、この通りである。

平公は叔向に問うた。
群臣の中で誰が最も賢人であろうか、と。
叔向は言った。趙武です、と。

平公は言った。
そなたは自分の長官だから贔屓しているのであろう、と。

叔向は言った。
趙武は立ち姿は衣服にも堪えないほど弱々しく、言葉は口から出ないかのように口下手です。
しかし推挙した士は数十人、皆が満足して働いております。
そして朝廷もこの者たちに大変頼っております。
武子が生きておりましたときは、自分の家に利を計らず、死ぬときには残される子のことを人に託しませんでした。
だから私はあえて趙武を賢人だと申したのです、と。



趙の解孤は自分の仇を趙簡主に推挙して宰相にした。
その仇は思った。
推挙してくれただけでなく自分は解孤に許されたのだ、と。
そこで解孤のところへ行って拝礼して感謝した。

すると解孤は弓を引き、追いかけて矢を射て言った。
かのそなたを推挙したのは公事である。
そなたが宰相に相応しいと思ったからである。
かのそなたを仇だとするのは私の私怨である。
私の私怨のために、そなたを我が君に隠したりはしない、と。
ゆえに私怨は公事に持ち込まず、と言うのである。


一説にはこうある。
解孤は邢伯柳を推挙して上党の長官にさせた。
柳が出向いて礼を述べて言った。
あなたは私の罪を許してくださった。
それを再拝の礼を尽くさないわけには参りません、と。

解孤は言った。
そなたを推挙したのは公事のためである。
そなたを怨むのは私事である。
去れ、そなたを怨む気持ちは前と変わらないのだ、と。



鄭県の人が豚を売っていた。
ある人がその価を問うた。
答えて言うには、帰りの道は遠く、日も暮れてきました。
どうしてあなたと話をする暇がありましょうや、と。



六、
晋の范文子は直言することを好んだ。
父の武子がこれを杖で打った。
言うには、直言する者は、人々に受け入れられ難く、受け入れられなければ己の身を危うくし、しかもただ己の身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくなるのだぞ、と。



鄭の子産は子国の子である。
子産は鄭君に忠実であった。

子国はこれを責めて怒って言った。
臣下の中で己だけが特異に君主に忠実である場合、君主が賢明であればそなたの忠言を聴き入れようが、賢明でなければそなたの忠言を聴き入れぬであろう。
聴き入れられるかどうかは、必ずしもまだ分からないのに、そなたはすでに群臣から孤立しようとしている。
群臣から孤立すれば、必ずそなたの身を危うくするだろう。
それはただそなたの身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくするだろう、と。



趙の梁車が新たに鄴の長官となった。
その姉が行って会おうとした。
しかし日が暮れて遅くなり、城門が閉じられてしまった。
そこで姉は城壁を乗り越えて入った。
梁車はすぐに足斬りの刑にした。
趙の成侯は梁車を不慈悲だと思い、官印を召し上げて長官の職を罷免した。



斉の管仲が捕縛され、魯から斉に送られた。
道の途中で腹が減り、綺烏の関所の番人のところへ寄って食べ物を乞うた。
番人は跪いて管仲に食事を与え、非常に丁重に対応した。

そして番人はこっそりと管仲に言った。
幸いにも斉に至り、死なずに斉で用いられたなら、私にどのように報いてくださいますか、と。

管仲は言った。
そなたの言う通りになれば、私は賢人を用い、能力のある者を使い、功労を評定するだろう。
私はそなたにどうやって報いようか、と。
番人はこれを聞いて管仲を怨んだ。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

儒学者、近藤篤山の研究。

通背拳の伝承、指導。

愛媛論語教室 準備中!
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
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支部長 石川 武志

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