韓非子 外儲説 右下

一、
賞罰の権限が君臣で共有されたなら、法令禁制は行われない。
何故そうなのかを明らかにしていく。

その例は、造父や於期を御す話がある。
子罕猪の役を務め、田恒が畑や池の役を務めた。
また、宋君や簡公が殺された。
害悪としては、王良と造父が車を共に御する話、田連と成竅が琴を共に弾じる話がある。


二、
国が治まり、兵が強くなるのは、法が行われることで生じ、国が乱れて弱くなるのは、法が曲げられることで生じる。
君主がこのことに明らかであれば、賞罰を厳しく行っても不仁ではない。
爵禄は功績に基づいて生じ、誅罰は罪に基づいて生じる。
臣下がこのことに明らかであれば、死力を尽くして仕えても、忠義であるということではない。
君主が不仁を理解し、臣下が不忠を理解するなら、君主は天下の王となることができる。

その例は、昭襄王が君主の実情を知り、五苑の食糧を民に分け与えなかった話がある。
田鮪が臣下の実情を知り、田章に教えた話。
また、公儀が贈られた魚を断った話もある。


三、
君主が法術に頼らず外国の君主のやり方を手本にすると、外交は失敗する。
その例は、蘇代が斉王を誹った話がある。

君主が古の聖王のやり方を手本にすると、処士が現れてくる。
その例は、潘壽が禹の故事をひいた話がある。

君主に覚悟が足りないところがある。
方吾はこれを知って衣服を同族と同じくすることを恐れた。
ましてや君主の権勢を貸し与えるなどなおさらである。

呉章はこれを知り、好悪の感情を偽り臣下に対する。
ましてや誠の心情を臣下に見せるなどなおさらである。

趙王虎の目を嫌って臣下に塞がれた話がある。
明主のやり方は、周の外交官が衛公を退けた話のように厳正である。


四、
君主は法を守って成果を求め、功績を成そうとするものである。
官吏が乱れていても民はおのずから治まっている、ということは聞くが、民が乱れていて官吏がよく治めている、ということは聞かない。
ゆえに明主は先に官吏を治めて民を治めない。

その例は、木の根元を動かす話と、網の綱を引く話がある。
また、火災のときの官吏の話も論ぜねばならない。
火災から救うには、官吏が自分で壺を持って火消しに走るのではひとりの働きをしたにすぎないが、鞭をとって人々を指揮するなら万人を動かすことができる。

また、術を使いこなせる例には、造父が馬車を乗りこなした話がある。
馬を引いても車を押しても進むことができないときに、巧みな御者に代わって鞭をとれば馬はみな走らせることができる。
このことの例は、鉄槌が物を平らにする話、矯め木が棒をまっすぐにする話がある。

そうでなければ害は、淖歯が斉で用いられて閔王を殺した話、李兌が趙で用いられて主父を飢え死にさせた話がある。


五、
物事が自然の理に従っていれば、労せずに成功する。
その例は、慈鄭子が車の長柄に腰かけて歌い、高梁台へ登った話がある。

自然の理に従わなかった場合の害は、趙簡主の税吏が税の軽重を問うた話、薄疑が国では中が満ち足りていると言い、趙簡主が喜んでいる間に国倉は空になり、民は飢えて姦吏が富んだ話がある。
また、桓公が民を巡察したとき、管仲は朝廷内の腐るほど余る貯えがないように、宮中に独り身の女がいないようにと進言した話がある。

自然の理に従わなかった場合の害は、延陵の卓子が馬を進められず、造父が通りかかりこれを見て泣いた話がある。


右は経である。



一、
造父は四頭の馬を御し、縦横に駆けさせ、思う通りに馬を乗りこなした。
思う通りに馬を乗りこなせたのは、手綱と鞭の権限を握っていたからである。
しかし馬の前に豚が飛び出してきて驚けば、造父でも引き止め制御することができないのは、手綱と鞭の威厳が足りないからではない。
威力が飛び出した豚によって分散されたからである。

王於期が、副馬をつけても、手綱と鞭を用いずに馬を思う通りに御すのは、まぐさと水の利を握っていたからである。
しかし馬が畑や池のそばを通り過ぎるときに、副馬が勝手に動きだすのは、まぐさと水の利が足りないからではない。
利が畑や池に分散されたからである。

王良と造父は、天下の名御者である。
しかし王良が左の手綱を執って馬を叱咤し、造父が右の手綱を執って鞭を振るわせば、馬は十里を行くこともできないだろう。

田連と成竅は、天下の琴の名人である。
しかし田連が琴の上を弾き、成竅が琴の下を押さえれば、一曲を弾き成すこともできばいだろう。
これもまた琴を共にしたからである。

王良と造父の技術をもってしても、手綱を共有して御せば、馬を乗りこなすことはできない。
君主はどうして臣下と権力を共有して国を治めることなどできようか。

田連と成竅の技術をもってしても、琴を共有すれば、一曲を弾き成すことはできない。
君主はどうして臣下と権勢を共有して功を成すことなどできようか。


一説にはこうある。
造父が斉王の御者となり、馬の喉を渇かせて命じ、従ったら水を与えるという方法で調教し終えた。
馬車を御して畑に至った。
喉の渇いた馬が畑の池を見つけて、車を置き去りにして池に走り、造父の御は失敗した。

王於期は趙簡主のために馬車で道を馳せ、千里の目標を競った。
馳せ始めて間もなく、溝の中に豚が潜んでいた。
王於期が手綱をそろえて鞭を執って馬車を進めた。
豚が溝から飛び出し、馬が驚き、馬車を御すのに失敗した。


司城子罕が宋君に申した。
功績を賞し物を賜るのは民が喜ぶことですから、ご主君はご自身で行いなさいませ。
罪を罰し刑を執行するのは民が憎むことですから、どうか私にこの役目をお与えください、と。
宋君は言った。
わかった、と。

そこで君主の威勢で大臣を罰するときにも、君主は言った。
子罕に問え、と。
これによって大臣たちは子罕を恐れ、賤しい民は子罕に従った。

こうして一年が経つと、子罕は宋君を殺して政権を奪った。
つまり子罕は飛び出した豚の役をして、君主から国を奪ったのである。


斉の簡公が君位にあったとき、誅罰は重く厳しく、税を重くし、民を殺した。
しかし田成恒は慈愛を施し、寛大であることを示した。
簡公は斉の民を喉の渇いた馬とし、恩を民に与えず、田成恒は慈愛寛大という池を設けたわけである。


一説にはこうある。
造父が斉王の御者となり、馬に水を与えず喉が渇いた状態にして従わせ、百日かけて服従させた。
服従させてから馬を斉王に見せようと願い出た。
斉王は言った。
馬を宮園で見せよ、と。

造父は馬車を駆って宮園に入った。
馬が宮園の中の池を見つけて駆け出し、造父はこれを御すことができなかった。
造父は喉を渇きによって馬を服従させるのに長くかかった。
しかし今、馬が池を見て勢いよく駆け出すと、造父といえども制御することはできない。

今、簡公は厳しいやり方で長く民を禁じてきたが、田成恒はこれを利用した。
つまり田成恒は宮園の池を傾けて、渇きに飢えた民に見せたのである。


一説にはこうある。
王於期は宋君のために、千里を駆って見せることになった。
すでに馬は車につながれ、馬の口をそろえて手綱を執り、出発しようとした。
馬を駆って前に進めれば、車の轍は測ったようにまっすぐであり、手綱を引いて後ろに戻せば、馬はもとの足跡を踏む。
そこで鞭を打って馬を出発させたところ、豚が垣の穴から飛び出し、馬が驚いて後ろに下がった。
鞭を打っても前進させることができず、次に馬は前に走り出し、手綱を引いても止めることができなかった。


一説にはこうある。
司城子罕が宋君に申した。
人を賞し物を賜るのは、民が喜ぶことです。ご主君はご自身で行いなさいませ。
罪を罰し刑を執行するのは、民が憎むことです。私がこの役目に当たりましょう、と。

こうして賤しい民を殺したり、大臣を罰するときは、宋君は言った。
子罕と相談せよ、と。

それから一年が経つと、民は生殺の命が子罕に握られていることを知り、国中が子罕に従った。
ゆえに子罕は宋君を脅かし、その政権を奪っても、法で禁ずることができなかった。


ゆえに言う。
子罕は飛び出した豚となり、田成恒は畑の池となった、と。
今、王良と造父が同じ車に乗り、それぞれが手綱を執って門に入ろうとするなら、馬は必ず乱れて道を進むことができないだろう。
今、田連と成竅が同じ琴を使ってそれぞれが一絃を抑えたり弾いたりすれば、必ず音は乱れて、一曲を奏でることはできないだろう。



二、
秦の昭王が病を患った。
民は里ごとに牛を買って殺し、家ごとに王のために祈った。

公孫述は外出してその様子を見て、宮に入って王を祝って申した。
民はみな、里ごとに牛を買って殺し、王のために祈っております、と。

王は人をやってこれを確かめさせたところ、果たしてその通りであった。
王は言った。
民を罰して人ごとに二甲を取り立てよ。
そもそも命じてもいないのに勝手に祈るのは、私を愛してくれているからであろう。
民が私を愛すからといって、私もまた法を曲げて、民に心をもって応じれば、法は行われなくなってしまうだろう。
法が行われないのは、国が乱れ亡ぶもとである。
人ごとに二甲を罰とし、再び共に治めていくに越したことはない、と。


一説にはこうある。
秦の襄王が病んだ。
民は王のために祈った。
王の病が癒えると、民は牛を殺して神に感謝して祭った。

郎中の閻遏と公孫衍が外出してこの様子を見て言った。
今は臘祭の時期でもないのに、なぜ牛を殺して祭っているのだろうか、と。

怪しんで民に問うた。
民は言った。
ご主君が病だと聞き、そのために祈りました。
今、病が癒えたので、牛を殺して祭っておるのです、と。

閻遏と公孫衍は悦んで、王に見えて祝賀して言った。
堯、舜にも優ります、と。
王は驚いて言った。
何のことを言っているのか、と。
答えて言った。
堯も舜も、民が二人のために祈るには至りませんでした。
今、王は病んで、民は牛を供えて祈り、病が癒えたので牛を殺して祭っておるのです。
ゆえに私は、王は堯、舜よりも優れておられる、と思ったのです、と。

そこで王は人をやって、このことを調べさせた。
どこの里でこれを行なったのか、と。
その里の長と長老たちを罰するのに、ひとつの村から二甲を取り立てた。
閻遏と公孫衍は恥じて何も言えなかった。

こうして数箇月経ち、王は酒を飲んで楽しんだ。
閻遏と公孫衍は王に申した。
前に私たちは王を堯、舜にも勝ると思いましたのは、ただ諂って申したのではありません。
堯、舜は病んでも、その民は二人のために祈るまでには至りませんでしたが、今、王が病んだら民は牛を供えて祈り、病が癒えたら牛を殺して祭りました。
今、その里の長と長老を罰して、村ごとに二甲を取り立てるとは、私たちはこれを訝しんでおります、と。

王は言った。
そなたたちはどうしてこれが分からないのか。
あの民が私に用をなす理由は、私が民を愛しているから私のために用をなすのではないのだ。
私の権勢のために私の用をなすのだ。
私は権勢を捨てて民と共に治めようとしようか。
もしそのようにすれば、私がたまたま民を愛さないようなことがあれば、民は私の用をなさなくなるだろう。
ゆえに私は民を愛するやり方を絶ったのだ、と。


秦が飢饉にみまわれた。
応侯が請うて言った。
宮廷の園の野草、とち、棗、栗の実などは、民を活かすに充分です。
どうぞこれらを開放して民にお与えください、と。

昭襄王は言った。
我が国、秦の法では、民に功績があれば賞を与え、罪があれば罰を受けさせる。
今、宮廷の園の野菜や木の実を開放して民に与えれば、功績のある民も功績のない民も皆、賞を受けることになる。
功績のある民も功績のない民も皆、賞を受けることは、これは国が乱れるもとである。
宮廷の園を開放して与え、国が乱れるよりは、野菜や木の実を捨ててでも国を乱さないように治める方が良い、と。


一説にはこうある。
今、宮廷の園の瓜、野草、棗、栗などを解放して与えれば、民を活かすには充分だが、民に功績があっても功績がなくても皆、食糧を得ることができる。
こうして民が生きても国が乱れるのであれば、民が死んでも国が治まる方が良い。
大臣、捨ておけ、と。


田鮪が子の田章に教えて言った。
そなたがその身に利を得ようと思うなら、まず君主に利を得させよ。
そなたが家を富ませようと思うなら、まず国を富ませよ、と。


一説にはこうある。
田鮪が子の田章に教えて言った。
君主は官爵を売り、臣は智恵や能力を売る。
ゆえに自分を頼りにして他人を頼りにしてはならない、と。


公孫儀は魯の宰相で、魚を好んでいた。
そこで国中の皆が我先にと争って魚を買って、公孫儀に献じた。
公孫儀は受け取らなかった。

その弟が諫めて言った。
兄上は魚を好んでおられるのに、受け取らないのはどうしてですか、と。

答えて言った。
私はただ魚が好きなのだ。
だからこそ受け取らなかったのだ。
もし魚を受け取れば、必ずその人に気を遣って遠慮してしまう。
人に遠慮してしまえば、法を曲げようとしてしまい、法を曲げようとすれば、宰相の職を免職されるだろう。
そうなれば私が魚を好むといえども、人々は必ずしも私に魚を持ってきてくれる、というわけにはいかず、私もまた自分で魚を買ってくることもできなくなるだろう。
もし魚を受け取らずに、宰相を免職されなければ、魚を好んでも、私は長く自分で魚を買って来られるだろう、と。

これが、かの人を頼りにするのは、自分を頼りにするのには及ばないことを明らかにするものである。
人が己のためにすることは、己が自分のためにすることには及ばないことを明らかにするものである。



三、
子之は燕の宰相となった。
その地位は高く、物事を取り仕切っていた。

蘇代が斉の使者として燕に来た。
王が蘇代に問うた。
斉王はどのような君主かね、と。
答えて言った。
必ず覇者にはなれぬでしょう、と。
燕王は言った。
何故かね、と。
答えて言った。
昔、桓公が覇者となったとき、国内のことは鮑叔に任せ、国外のことは管仲に任せ、桓公は冠も着けずに女たちのために馬を御し、毎日のように市場で遊びました。
今、斉王は自国の大臣を信任しておりません、と。

そこで燕王はますます大いに子之を信任した。
子之はこれを聞いて、人をやって蘇代に金百鎰を贈らせ、好きなように使わせた。


一説にはこうある。
蘇代が斉の使者として燕に行った。
燕では、子之に利益を与えなければ、決して事をなすことができずに帰ることになり、何の賞も賜ることがないと見た。
そこで燕王に見えて、斉王を誉めた。

燕王は言った。
斉王はどうしてそのように賢人なのかね。
そして天下の王になろうとしているのかね、と。

蘇代は言った。
国が亡びるのを救う暇もないでしょう。
どうして王となれましょうか、と。
燕王は言った。
どうしてかね、と。

言った。
斉王はその親愛する者を己と同等に任用しないのです、と。
燕王は言った。
その任用するとはどういうことかね、と。

言った。
昔、斉の桓公は管仲を親愛し、引き立てて仲父とし、国内を治め、外交を裁き、国を挙げてみな管仲に任せました。
ゆえに天下をひとつにまとめ、諸侯を集めて号令しました。
今、斉王は親愛する者を己と同等に任用しません。
ですから斉は亡びるだろうと思ったのです、と。

燕王は言った。
今私は子之を任用しておる。
しかし天下はこのことを知らないようだ、と。
そこで翌日、朝廷に礼を設けて子之に任せることにした。


潘寿が燕王に言った。
王は国を子之にお譲りになるのが最も良いでしょう。
人々が堯を賢人だという理由は、その天下を許由に譲ったからです。
許由は決して受けませんでした。
つまりこれは、堯は許由に国を譲ったという名声を得て、ぢかも実は天下を失わなかったのです。
今、王は国を子之に譲っても、子之は必ず受けないでしょう。
すなわちこれは、王は国を子之に譲ったという名声を得て、堯と同じ行いをなさるということです、と。

こうして燕王は国を挙げて政治を子之に委ねた。
子之の地位は大いに重くなった。


一説にはこうある。
潘寿は隠者であった。
燕王は人をやってこれを招聘させた。
潘寿は燕王に見えて言った。
私は子之が益のようにならないかと恐れております、と。
王は言った。
益とは何のことか、と。

答えて言った。
昔、禹が死ぬとき、天下を益に伝えようとしました。
すると禹の子の啓の徒党が共に益を攻めて、啓を立てました。
今、王は子之を信愛し、国を子之に伝えようとなさっております。
太子の徒党はことごとく官職についておりますが、子之の仲間はひとりも朝廷にはおりません。
もし王が不幸にして群臣を捨ててお亡くなりになれば、子之もまた益のようになるでしょう、と。

そこで王は官吏の官印で俸禄三百石以上のものをまとめて、これを皆、子之に渡した。
子之の地位は大いに重くなった。


君主の威光を鏡として照らすものは、諸侯である。
しかし今、諸侯は皆、権臣の私党である。

君主の威勢を示すための羽翼となるものは、巌穴にいる隠者である。
しかし今、巌穴の隠者は皆、権臣の私客である。

これはなぜか。
賞罰与奪の権力が子之のような権臣に握られているからである。

ゆえに呉章は言った。
君主は偽って人を憎愛してはならない。
偽って人を愛せば、その人を憎むことはできず、偽って人を憎めば、その人を愛することができない、と。


一説にはこうある。
燕王が国を子之に伝えようと思ったとき、このことを潘寿に問うた。
答えて言った。
禹は益を愛して天下を益に任せました。
しかしその時にはすでに子の啓の党徒を官吏に登用していました。
禹は老いてから啓では天下を任せるには足らないと判断して、天下を益に伝えたが、権勢はことごとく啓が握っており、啓は味方と共に益を攻めて、天下を奪いました。
これは禹が、天下を益に伝えたという名声を得て、実は啓にみずから天下を取らせたのです。
これによって、禹が堯や舜に及ばないことは明らかです。
今、王は国を子之に伝えようとして、しかも官吏は太子の郎党でない者はおりません。
これでは、子之に国を伝えたという名声を得て、実は太子にみずから国を取らせることになります、と。

燕王は官職の印で三百石以上のものを集めて、これを皆、子之に渡した。
子之の地位は重くなった。


方吾子が言った。
私はこう聞いている。
古来の礼に、外出するときには同じ服を着た者とは同じ車に乗らず、住居は同族の者とは住まない、と。
しかるに君主たる者が、その権力を貸し与えて、その威勢を自分から離すことなどは、言うまでもない、と。


呉章が韓の宣王に申した。
君主は偽って人を愛してはいけません。
別の日にまた憎むことができなくなります。
また、偽って人を憎んではいけません。
別の日にまた愛することができません。
ですから、偽って憎んだり偽って愛するというような徴候を見せてしまうと、君主に諛う者がそれを道具にして賞賛毀損をするでしょう。
そうなれば明主といえども、元に戻すことはできません。
ましてや真実の愛憎を人に見せたならなおさらのことです、と。


趙王が宮園で遊んでいた。
左右の近侍が兎を虎に与えようとしたが、やめた。
王が虎を見ると、虎はぎょろりと目玉を動かしている。
王は言った。
嫌だな、あの虎の目つきは、と。

左右の近侍が言った。
平陽君の目つきは、嫌なことこれに勝りますぞ。
虎の目を見ても害はありませんが、平陽君の目つきを見たら、必ず死なねばなりません、と。

その翌日、平陽君がこれを聞き、人をやってそう言った者を殺させた。
それでも趙王は罰しなかった。


衛君が周に入朝した。
周の取次官が衛君の名を問うた。
答えて言った。
衛侯辟疆である、と。
周の取次官は拒否して言った。
諸侯が天子と同じ名を名乗ることはできません、と。

衛君はみずから改めて言った。
衛侯燬、と。
こうしてから衛侯を入れた。

仲尼がこれを聞いて言った。
深謀遠慮なことだ、侵害を防いだのだ。
名だけすら人に許さない。
ましてや実権はなおさらであろうな、と。



四、
木を動かして、一枚一枚その葉を集めていたのでは、労力ばかりで全てに及ぶことはできない。
左右からその木の根元を打てば、葉は全て揺れ動いて落ちるだろう。
淵に臨んで木を動かせば、鳥は驚いて高く飛び、魚は恐れて水中へ潜るだろう。
巧く網を張る者は、その綱を操る。
もしひとつひとつの網目を広げて網を張るのであれば、労力ばかりで張りきれない。
巧く網を張る者は、その綱を引いただけで、魚はすでに袋に入っている。
ゆえに官吏は民の大本の綱となる者である。
ゆえに明主は官吏を治めて民を治めない。


火事を救うのに、官吏に壺や甕に水を汲んで火消しに走らせたのでは、人ひとり分の役にしか立たない。
官吏が鞭をとり、民を指揮して使えば、万人を使いこなせるだろう。
こうしたわけで、明主は民をみずから治めず、小事にみずから手を出さないのである。


造父が雑草を刈っていると、父子が馬車に乗って通りかかった。
馬が何かに驚いて進まなくなった。
その子は馬車を降りて馬を引き、父は降りて車を押し、造父に我らを助けて車を押してくれるよう頼んだ。

そこで造父は農具を片付け、作業をやめて馬車に乗り込み、その父子に手を貸して馬車に乗らせた。
そこでまず轡を調べて鞭を持ち、まだ鞭を振るっていないのに、馬は皆、走り出した。

もし造父でも御することができないなら、造父が力を尽くし、身を労し、父子を助けて車を押したとしても、馬はなお進まないだろう。今、造父が身を楽にして馬車に乗り込み、徳を施すことができるというのは、術を心得ていて馬を御したからである。

国は君主にとっての車である。
権勢は君主の馬である。
術を心得て権勢を御さねば、その身を労したとしても乱を免れない。
術を心得て権勢を御するならば、その身を安楽の地に置いたとしても、帝王の功をなすことができるだろう。


椎鍛は物の凹凸を平らにするものである。
榜檠は曲がった棒を真っ直ぐにするものである。
聖人が法を作るのは、人々の乱れたところを平らかにし、曲がったところを真っ直ぐにするものである。

淖歯が斉で用いられると、閔王の首筋を抜き出し、李兌が趙で用いられると、主父を餓死させた。
この二人の君主は皆、その椎鍛や榜檠を用いることができなかった。
ゆえにその身は殺され、天下の物笑いとなった。


一説にはこうある。
斉に入れば淖歯ひとりの名前ばかりが聞こえ、斉王の名前は聞こえてこない。
趙に入れば李兌ひとりの名前ばかりが聞こえ、趙王の名前は聞こえてこない。
ゆえに言う。
君主たる者、術を用いなければ、威勢は軽くなり、臣下がその名をほしいままにする、と。


一説にはこうある。
田嬰が斉の宰相だったとき、ある人が王に説いた。
年の終わりの会計は、王みずから数日をかけて聴き取りをしなければ、官吏の姦悪得失を知ることはできないでしょう、と。
王は言った。
よろしい、と。

田嬰はこれを聞いて、すぐさま王に願い出て会計を聞いてもらおうとした。
王はこれを聴こうとした。
そのとき、田嬰は官吏に署名した文書に数量を記載して読み上げさせた。
王はみずからその計算を聴いた。
しかし計算を聴き続けることに耐えきれず、聴くのをやめてしまった。

食後に再び席に戻り、計算を聴くのを続けたが、夕食も取れない。
田嬰は再び申した。
群臣が年中日夜、怠らずに務めた結果です。
王は一晩中お聴きくだされば、群臣の励みとなりましょう、と。
王は言った。
わかった、と。

しかし、たちまち王は眠ってしまった。
すると官吏は皆、小刀を取り出し、その文書の計算を削り書き換えた。
王はみずから計算を聴いたことで、この文書を認めたことになってしまった。
斉の乱はこうして始まった。


一説にはこうある。
武霊王は恵文王に政治をさせた。
そして李兌が宰相となった。
武霊王はみずから生殺の権限を握らなかった。
ゆえに李兌に脅かされることになった。



五、
慈鄭子が手車を引いて高い橋に登ろうとした。
ところが車を支えきることができず登れない。
慈鄭は長柄に腰かけて歌った。
すると前を行く人は立ち止まり、後ろから来る人は駆け寄り、皆が車を押して橋を登った。

もし慈鄭に術によって人を引き寄せることができなかったら、力を出し尽くして死んでしまったとしても、手車は橋を登らなかっただろう。
今、その身は苦労せずに、手車を登らせたのは、人を引き寄せる術があったためである。


趙簡主が徴税の官吏を送り出した。
官吏が税の軽重を問うた。
簡主は言った。
軽すぎても重すぎてもいけない。
重くすればお上に利が入り、軽くすれば民に利が入る、と。
そこで官吏は私欲なく公正に徴税した。

薄疑が簡主に言った。
ご主君のお国は中が満ち足りております、と。
簡主は喜んで言った。
どのようにかね、と。
答えて言った。
国の倉庫は空で、民は皆が貧しく餓えておりますが、姦悪の官吏だけは富んでおります、と。


斉の桓公が微賤の服装で民家を巡った。
年老いてひとりで暮らしている者がいた。
桓公はその理由を問うた。
答えて言った。
私には三人の子がおります。
しかし家が貧しくて、妻をとらせることもできません。
そこで子らは傭われて出てゆき、まだ帰ってこないのです、と。

桓公は帰って管仲に告げた。
管仲は言った。
国庫に蓄えが積もり、腐って捨てるほどの財があるなら民は飢餓し、宮中に嘆く女がいるなら民に妻がいないものです、と。
桓公は言った。
よろしい、と。

そこで宮中の婦人の状態を調べて民に嫁がせ、民に命令を下して言った。
男は二十歳になれば妻を迎え、婦人は十五歳になれば嫁がせよ、と。


一説にはこうある。
斉の桓公が微賤の服装で民間を巡った。
鹿門稷という者がいて、七十歳になるが、妻はいない。

桓公は管仲に問うた。
民で老いても妻がいない者がいるのか、と。
管仲は言った。
鹿門稷という者がおります。
七十歳になりますが、妻はおりません、と。

桓公は言った。
どうすれば妻をもたせることができるだろうか、と。
管仲は言った。
私はこう聞いております。
お上に積もるほどの財があるときは、民は必ず困窮し、宮中に嘆く女がいるときは、老いても妻がいない者がいる、と。
桓公は言った。
よろしい、と。

宮中に命令を下して、女子のうちで未だ桓公に目どおりしていない者は宮中から出して嫁がせた。

そしてまた命令を下した。
男子は二十歳になれば妻を迎え、女子は十五歳になれば嫁ぐように、と。
すると宮中では嘆く女はいなくなり、外では妻を持てぬ男はいなくなった。


延陵の卓子が蒼くて桃の模様がある大きな馬が引く馬車に乗った。
馬の胸の前に鉤飾があり、後ろに錯錣がある。
馬が進もうとすれば鉤飾がそれを妨げ、退こうとすれば錯錣が馬に刺さる。
そこで馬は横に跳ねた。

造父が通りかかり、馬を見て涙を流して言った。
古の聖王が人を治めるやり方もまた、そのようである。
そもそも賞は善行を奨励するものであるのに、謗りを受けることがあり、罰は悪行を禁じるものであるのに、名誉を受けることがある。
ゆえに民は中立の立場をとり、どうすれば良いのかわからなってしまう。
これもまた、聖人が見たら泣くことになるだろう、と。


一説にはこうある。
延陵の卓子が蒼くて斑模様のある大きな馬が引く馬車に乗った。
馬の胸の前には錯飾があり、後ろには鋭利な錣筴がついている。
馬が進もうとすれば錯飾を引き、退こうとすれば鞭打つ。
馬は進むこともできず、退くこともできず、避けて横に跳んだ。
そこで卓子は馬車を降り、刀を抜いて馬の脚を斬った。

造父はこれを見て泣き、一日中何も食べず、天を仰いで嘆いて言った。
馬を鞭で打つのは、馬を進ませるためであるのに、錯飾が前にあって進めない。
馬を引くのは、馬を退かせるためであるのに、鋭利な錣筴が後ろにある。

今、君主がその人の清廉潔白なのを誉めて取り立てておきながら、左右の近臣の意にそわないために退けられ、その人が公正なのを誉めて取り立てておきながら、君主に従順でないために捨てられてしまう。
民は恐れ、中立の立場をとり、どうすれば良いのかわからなってしまう。
これも聖人が見たら泣くことになるだろう、と。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 右上

君主が臣下を治める方法には三つある。

一、君主の権勢によって従わせることができない臣下は取り除くべきである。
師嚝の答え、晏子の言説、ともに皆、権勢で治めるという容易な方法を捨てて、徳行で治めるという困難な方法を説くものである。
これは獣と駆け争うも同然であり、君主の害を除く方法を知らないのである。

害を除く方法は、子夏が春秋を説く中にある。
権勢をよく保持する君主は、早く臣下の姦悪のきざしを絶つ。
ゆえに季孫は仲尼を責めるのに君主の権勢を借りた。
ましてや君主に権勢があるなら尚更である。
これによって太公望は狂矞を殺し、臧獲は駿馬に乗らなかった。
嗣公はこのことを心得ていたので、鹿に車を引かせなかった。
薛公はこのことを心得ていたので、双子と博奕をした。
これらは皆、同と異が相反するというようなことを心得ているのである。
ゆえに明主が臣下を治める方法には、烏を養うやり方にある。


二、君主は臣下の利害の関心の的である。
君主の心を射止めようとする者は多く、君主は狙われている。
ゆえに君主の好悪が臣下に分かると、臣下はそれを手がかりにして、君主は惑わされてしまうだろう。
進言した言葉が他者にすぐに通じるようでは、臣下は君主に進言するのを憚るようになり、君主は神妙な存在とはなれないであろう。

その例は、申子が六慎を説いた話や、唐易が弋のやり方を説いた話がある。
君主が害を被る例は、国羊が変をを願った話や、宣王が嘆息した話がある。
またこれを明らかにするのには、靖郭君が十対の耳環を献じた話や、犀首、甘茂が穴から王の言葉を聞いた話がある。
堂谿公は術を心得ていたので、玉の盃を問うた。
昭侯は術を心得ていたので、堂谿公の話を聴いてからは、独りで寝るようにした。
明主の道は、申子が君主に独断を勧めた話の通りである。


三、君主が術をうまく行えないのには理由がある。
酒屋の犬を殺さねば、そこの酒は酸い、というように、国にもまた犬がいて、かつ左右の近臣はみな社の鼠のようなものである。
君主には、堯が二臣を誅したことや、荘王が太子の願いに応じなかったことなど、皆、薄媼が蔡嫗に裁決してもらったのと同じである。
知者は音楽を教えるときの方法によって、まずは測ってみることを貴ぶ。
呉起が愛妻と離別し、文公が顚頡を斬ったのは、皆その人情に背いたものである。
ゆえに人に自分のできものをえぐらせる者は、必ずその痛みを耐え忍ばねばならないのである。


右は経である。



一、
賞されても、名誉を得ても、喜ばず、罰せられても、謗りを受けても恐れない。
これら四つのものが加えられても動じない、というような者は、取り除かねばならない。


斉の景公が晋へ行き、晋の平公に招かれて酒を飲んだ。
そばに師曠が侍していた。
景公は政治について師曠に問うた。
太師、何か私にお教えください、と。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

途中、宴もたけなわのころ、景公は退出しようとした。
そこで再び政治について師曠に問うた。
太師、何か私にお教えください、と。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

景公は退出して客舎に行き、師曠はこれを送って出た。
そこで再び政治について師曠に問うた。
師曠は言った。
必ず民にお恵みなさることです、と。

景公は客舎に帰り、考えたが、まだ酒の酔いから醒めぬ間に師曠の言った意味が分かった。
公子尾と公子夏は、景公の二弟である。
ともに甚だ斉の民心を得ており、家は富貴で民に好かれており、その様は公室と同じようである。
これは我が地位を危うくする者である。
ゆえに今、私に民に恵めと言うのは、私に二弟と争って民心を得よ、ということではないか、と。

こうして景公は国に帰り、穀倉を開いて貧しい民に分け与え、国庫の貯えを散じて孤児や寡婦に与えた。
穀倉に古い穀物はなくなり、国庫の貯えもなくなった。
宮廷の女で景公に侍せぬ者は出して他家へ嫁がせ、七十歳になった者は米を賜った。
こうして徳を売り、民に恩恵を施し、二弟と民心を得ることを争った。

そうすること二年、二弟は逃げ去った。
公子夏は楚に逃げ、公子尾は晋に逃げたのである。


景公が晏子と少海へ出かけ、柏寝という台地に登って斉の国を見渡した。
言うには、すばらしいな、水は深く広く、山は雄大である。
後の世では誰がこの国を支配するのだろうか、と。

晏子は答えて言った。
それは田成子でしょうな、と。

景公は言った。
私が今、この国を支配しておるのに、田成子がこの国を支配するとは、どういうことかね、と。

晏子は答えて言った。
そもそも田成子ははなはだ斉の民心を得ております。
その民に対するさまは、お上には爵禄を願い大臣に与えられるようにし、下には穀物を量る枡を勝手に大きく作って民に貸し出し、枡を小さく作って民に穀物を返させます。
祭祀で牛を殺せば、自分は一椀ほどの肉だけを取って、残りは全て士に与えて食わせ、年末に朝廷に納められる織物は、自分は二制だけを取って、残りは全て士に与えて着せます。
ゆえに市場の材木の価格は山での価格と変わらず、魚、塩、鼈、蛤などの価格は海辺での価格と変わりません。

ご主君は民から重税を取り、田成子は民に厚く施しておるわけです。

斉はかつて大いに飢饉にみまわれ、道端で餓死する者は数えきれぬほどでございました。
しかし父子が手を引きあって田成子のところへ赴けば、助からなかった者はおりませんでした。
ゆえに斉の民は皆、共に歌いあって言いました。
ああ、芑を摘もう、という詩に倣い、田成子のもとに移ろうではないか、と。

詩にこうあります。
徳が汝に与えるものはないけれど、歌い、また舞おう、と。
今、田成子の浅薄な徳であっても、民は歌い舞うというのは、民はそれを恩徳だと感じて心服していくのでございます。

ゆえに申したのです。
それは田成子でしょうな、と。

景公は涙をはらはらと流して言った。
何と悲しいことであろう。
私がこの国を治めておるのに、田成子のものになろうとしておるとは。
今のうちにどうにかすることはできぬものか、と。

晏子は答えて言った。
ご主君、どうしてご心配なさるのか。
もし田成子から民を取り戻そうとお思いならば、賢人を近づけ、不肖の者を遠ざけ、民の悩みごとを片付け、刑罰を緩くし、困窮している者を賑わせ、孤児や寡婦を憐れみ、広くすみずみまで恩恵を施せば、民はご主君の元に帰ってまいりましょう。
そうすれば、田成子が十人いたとしても、ご主君をどうこうすることはできません、と。


ある人が言った。
景公は権勢を用いることを知らず、師曠、晏子は害を除くことを知らない。
そもそも狩りをするときは、安全な車を用い、六頭の馬に引かせ、王良のような御者に轡を持たせれば、己の身は労せずに、脚の速い獣に追いつくことができる。

今、車を用いることの利を用いず、六頭の馬の脚と王良の御を使わず、地に降りて走って獣を追うなら、樓季のような俊足であっても、獣に追いつくことはできないだろう。
良馬と堅固な車に任せれば、臧獲であっても充分に追いつくことができるだろう。

国は君主にとっての車であり、権勢は君主にとっての馬である。
その権勢に乗って、身勝手に民を手なづけようとする臣を罰せずに、必ず君主は徳を厚く施すことによって天下万民に接し、身を正して臣と名誉を競い合うようでは、これは皆、君主の車に乗らず、馬の利を用いず、車を捨てて地に降りて走るようなものである。

だから言うのだ。
景公は権勢を用いることを知らない君主であり、師曠、晏子は害を除くことを知らない臣である、と。


子夏が言った。
春秋に、臣下が君主を殺し、子が父を殺したことを記すところが数十件ある。
これらは皆、一日で起こったことではないのである。
次第に進んでいった結果である、と。

およそ姦悪は、久しく行われてその成果が積もり、それが積もって勢力が大きくなり、勢力が大きくなって君主や父を殺すものである。
ゆえに明主は早いうちに姦悪を絶つ。

今、田常が乱を起こしたのは、姦悪が次第に明らかになってきても君主は罰しなかった。
晏子は君主に、君主を侵害する臣を防がせず、君主に仁恵を施させようとした。
ゆえに簡公がその禍を受けた。

ゆえに子夏は言ったのだ。
うまく権勢を保つ者は、早いうちに姦悪の萌を絶つ、と。


季孫が魯で宰相だったとき、子路は郈の長官となった。
魯は、五月に民衆を集めて、長い堀を造った。
このとき、子路は自分の俸禄の穀物で酒と飯を作り、堀を造る人たちを五父の辻へ出迎えてふるまった。

孔子はこれを聞いて、子貢を行かせてその飯をひっくり返し、その器を壊して言った。
魯君の民である。そなたはなぜ民に食わせるのか、と。

子路はふつふつと怒り、袖をたくし上げて、孔子に教えを請うて言った。
先生は私が仁義を行うのが憎いのですか。
先生に学んでいることこそが仁義ですぞ。
仁義は天下の人々と財を共有し、その利益を同じく受けることです。
今、私は自分の俸禄の穀物を民にふるまいましたのに、だめだとはどうしてですか、と。

孔子は言った。
由の粗野なことよ。
私はそなたならば分かっておるだろうと思っておったのに、そなたはいまだに分かっておらぬ。
だからそなたはこのように礼儀を知らぬのだ。
そなたが民に食わせたのは、民を愛するからであろう。

そもそも礼とは、天子は天下を愛し、諸侯は国内を愛し、大夫は官職を愛し、士は己の家を愛するものである。
その愛する範囲を超えることを侵害するというのだ。
今、魯の君が民を治めておるのに、そなたは勝手に民を愛して私恩を施したのだ。
これは侵害というのだ。
戯言を言うでない、と。

その言葉を言い終わらぬ間に、季孫の使者が到着し、責め立てて言った。
私が民を召集して使っておるのに、先生は弟子に命じて労役の者たちに飯を食わせたとか。
私から民を奪おうというのですか、と。
孔子は馬車を駆って魯を去った。

孔子ほどの賢人であっても、季孫は魯の君主でもないのに、臣下の身分で君主のやり方を借りただけであるが、その姦悪を早いうちに形として現れる前に禁じておけば、子路が私恩を施すこともなく、国に害を及ぼすこともなかった。
ましてやそれが君主であればなおさらである。
景公の権勢をもって、田常の侵害を禁じていれば、必ずや子孫が脅かされ殺されるといった禍は起こらなかったであろう。


太公望が東の斉に封じられた。
斉の東海のほとりに処士の兄弟がいた。
狂矞、華士という。

この二人が論じて言うには、私たちは天子の臣とはならず、諸侯の友とならず、自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲む。
私は人に何も求めない。
お上から受ける名誉は無く、君主から受ける俸禄も無く、宮仕えをせず、耕作に励むのだ、と。

太公望は営丘に着くと、官吏に兄弟を捕らえて殺させ、刑罰の始まりとした。

周公旦が魯でこれを聞き、急使を発して問いただした。
かの二人は賢者です。
今、国を賜ったばかりなのに賢者を殺すとは何事ですか、と。

太公望は言った。
この兄弟は論じて言いました。
我らは天子の臣とはならず、諸侯の友とならず、自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲む。
我らは人に何も求めない。
お上から受ける名誉は無く、君主から受ける俸禄も無く、宮仕えをせず、耕作に励む、と。

あのような天子の臣とはならない者を私が得て臣とすることはできません。
諸侯の友とはならない者を私が得て使うことはできません。
自分たちで耕作して食い、井戸を掘って水を飲み、人に何も求めない者を、私は賞罰によって励ましたり禁じることはできません。

かつ、お上から名誉を受けぬというのでは、知恵者といえども私の用をなしません。
君主から俸禄を受けぬというのでは、賢者であるといえども私の功績を立てません。
宮仕えせぬなら、臣として治めることはできず、官職に任じられぬなら、忠誠を尽くすことはありません。

かつ、先王がその臣民を使った方法は、爵禄か刑罰です。
今これら四つを使うことができないなら、私はいったい誰の君となれましょうか。

兵站に従事せずに出世し、耕作をせずに名誉を得るというのは、国の人々を導くやり方ではありません。
今ここに馬がいるとしましょう。
これが駿馬のようであれば、天下で最良のものです。
しかし、これを駆っても進まず、引いても止まらず、左にも向かず、右にも向かぬ、というのでは、藏獲のごとき愚人であっても、その馬には頼らないでしょう。
藏獲が駿馬に頼るのは、駿馬の利を得て害を避けることができるのを願うからです。
今これが人の役に立たぬのなら、藏獲のごとき愚者といえども頼ったり致しません。

自分では世の賢士だと思っていても、君主の用をなさず、自分ではその行動が極めて立派だと思っていても、君主に仕えないのでは、明主でも臣とすることができず、また駿馬を左右に向かせることができないようなものです。
ですから私はあの兄弟を誅したのです、と。


また一説にはこうある。
太公望が東の斉に封じられた。
海沿いの地域に賢者狂矞がいた。
太公望はこれを聞きつけて会いに行った。
三度とも馬を門の外に止めさせ、しかも狂矞はこれに応えて会おうとしなかった。
太公望はこれを誅殺した。

この時に至って、周公旦は魯におり、駆けつけてこれを止めようとした。
到着するに及んで、すでに誅殺した後であった。

周公旦は言った。
狂矞は天下の賢者です。
あなたはどうして彼を誅殺したのですか、と。

太公望は言った。
狂矞はその主義として天子の臣とはならず、諸侯の友とはならないので、私は彼が法を乱し、国の教えを軽んじることを恐れたのです。ゆえに始めに誅殺しました。
今ここに馬がいるとしましょう。
その容姿は駿馬のようです。
しかしこれを駆っても進まず、引いても止まらないのでは、藏獲といえどもこれを頼みにして車を走らせたりはしないでしょう、と。


如耳が衛の嗣公に説いた。
衛の嗣公は悦んで嘆息した。
左右の近臣が言った。
公、どうして彼を宰相にしないのですか、と。

嗣公は言った。
馬が鹿に似て速ければ、千金に値するだろう。
しかし百金の馬がいて、一金の鹿がいないのは、馬は人の役に立っても、鹿は人の役に立たないからである。
今、如耳は万乗の国の宰相の器であるが、外の大国で用いられようという心積もりであって、その心は衛にはない。
弁説に丈け、智恵者であるといえども、私の用にはならない。
だから私は彼を宰相にしないのだ、と。


薛公が魏の昭王の宰相になったとき、王の近臣に双子の臣下がいて、陽胡、潘其といった。
王にはなはだ重んじられているが、薛公のためには働かない。
薛公はこれを心配した。

そこで二人を招いて双六をした。
まず人ごとに百金を与えて、この双子の兄弟と双六をさせ、また人ごとに二百金を益し与えて双六をさせた。

しばらくして取次の者が言った。
張季の子が門に参っております、と。

薛公は憤然として怒り、剣を撫でて取次の者に渡して言った。
張季を殺せ。
私は、季が私のためには働かないと聞いておる、と。

取次の者がしばらく立っているときに、季羽が側にいて言った。
そうではありません。
私はひそかに聞いております。
季は薛公のために働くことはなはだしい、と。
思いますに、季の人柄として表立って目立たないので、いまだにお耳に入っていないだけでしょう、と。

そこで薛公は命令をやめて殺さず、客として大いに礼遇して言った。
先ほどまではそなたが私のために働かないと聞いていたので、そなたを殺そうと思っていた。
今、そなたは本当に私のために働いてくれていると聞いた。
どうしてそなたを粗末にできようか、と。

薛公は穀倉の役人に命じて千石の穀物を贈り、財府の役人に命じて五百金を贈り、厩の役人に命じて良馬と堅固な車を二乗贈った。そして宦官に命じて宮廷の美女二十人を併せて季に贈った。

すると双子の兄弟は互いに言い合った。
薛公ために働けば必ず利益があり、薛公のために働かなければ必ず害がある。
我らは何が惜しくて薛公のために働かないでいようか、と。
そこでひそかに競い励んで薛公のために働いた。

薛公は臣下の権勢で、君主のやり方を借り、それによって害が生じるのを避けた。
これが君主であるなら、なおさらである。

烏を飼うには、その羽の先を切る。
その羽の先を切れば、必ず人に頼って食わねばならない。
これでどうして人に馴れずにいようか。

明主が臣下を従わせるのもまた同じことである。
君主に与えられる禄を利とせざるを得ず、お上の名に服せざるを得ないようにさせるのである。
君主の禄を利とし、お上の名に服させれば、どうして服せずにいられようか。


二、
申子が言った。
お上の明察が知られると、臣下は君主に用心して備え、明察でないことが知られると、臣下は君主を惑わそうとする。
君主が知っていると分かると、臣下はそれを飾り立て、君主が知っていないと分かると、臣下はこれを隠そうとする。
君主が無欲であると分かると、臣下は様子を伺い、君主に欲があると分かると、臣下はこれを餌にしてつけ入ろうとする。
ゆえにこう言うのだ。
相手の実情を知る方法は、ただ何も為さずに様子を伺うことだけである、と。


一説にはこうある。
申子が言った。
汝の言葉を慎め、人はその言葉によって汝を知ろうとする。
汝の行いを慎め、人はその行いによって汝に追随しようとする。
汝の知恵を見れば、人は汝に隠そうとする。
汝が無知だと分かれば、人は汝を欺こうとする。
汝に知識があると分かれば、人は汝に隠そうとする。
汝に知識がないと分かれば、人は汝を害しようとする。
ゆえに言う。
ただ何もせずにじっと伺うべきだ、と。


魏の田子方が唐易鞠に問うた。
鳥を射る弋者は何を戒めとするのかね、と。
答えて言った。
鳥たちは数十の目であなたを見ています。
あなたは二つの目で鳥に向かいます。
あなたは隠れているところを見つからないように気をつけることです、と。

田子方は言った。
よろしい。そなたはこの方法を弋で用いる。
私はこの方法を国を治めることに用いよう、と。

鄭の賢人がこれを聞いて言った。
田子方は身を隠すようにせねばならぬと分かっていても、いまだ身を隠す方法は分かっておらぬな。
心を虚無にして何も行わず、人に見せない、というのが身を隠すということなのだよ、と。


一説にはこうある。
斉の宣王は弋の心得を唐易子に問うた。
弋では何を重視するのかね、と。
唐易子は言った。
その身を隠すことが大切です、と。
王は言った。
身を隠すとはどういうことかね、と。

答えて言った。
鳥たちは数十の目で人を見ていますが、人は二つの目だけで鳥たちを見ます。
これでは身をうまく隠さざるを得ません。
だから言うのです。
身を隠すことが大切です、と。

王は言った。
それならば、天下を治める心得も、この弋のときの身を隠すという心得と同じではないか。
今、君主は二つの目で国中を見るが、国の人民は数万の目で君主を見ている。
君主はどうやってその身を隠すのが良いだろうか、と。

答えて言った。
鄭の賢人が言った言葉があります。
それは心を虚しく静かにし、その身は何も行わないようにし、人に何も見せないようにすることだ、と。
この言葉を、この身を隠すやり方だと言えましょう、と。


国羊は鄭君に重用されていた。
やがて鄭君が己を憎むようになったと聞きつけ、宴会で君に侍した機会に先んじて君に言った。
私がたまたま不幸にして過ちを犯しておりましたなら、どうかご主君、私にお申し付けください。
私はそれを改めます。
そうすれば私も死罪を免れましょう、と。


ある論客が韓の宣王に説いた。
宣王は悦んで嘆息した。
左右の近臣が、王が悦んでいたと引き合いに出して、その論客に告げ、恩を売ろうとした。


靖郭君が斉の宰相だったとき、王后が亡くなり、あとに誰がつくのかを誰も知らなかった。
そこで靖郭君は玉の耳飾りを献じ、王が誰に与えるかによってあとにつく者を知った。


一説にはこうある。
薛公が斉の宰相だったとき、斉の威王の夫人が亡くなった。
後宮に十人の妾がおり、皆、王に寵愛されていた。
薛公は、王が次に誰を夫人に立てようとしているのかを探り、その一人を夫人にするように推薦しようとした。

もし王がこれを聴き入れれば、薛公の意見は今後も王に用いられ、新たな夫人にも重用されようが、王がこれを聴き入れなければ、薛公の意見は今後用いられなくなり、新たな夫人にも軽んじられるであろう。

そこでまず、王が次に置こうとしているのが誰かを知り、王に推薦して夫人に立って欲しいと思った。
そこで十の玉の耳飾りを作り、そのうちの一つを特に美しく作って献上した。

王はこれらを十人の愛妾に分け与えた。
翌日、美しい耳飾りを付けている妾を見つけて、王に推薦して夫人にした。


甘茂は秦の恵王の宰相であった。
恵王は公孫衍を寵愛し、これと密約して言った。
私はそなたをすぐにでも宰相にしてやろう、と。
甘茂の部下が室の穴からこれを聞き、甘茂に告げた。

甘茂は室に入って王に見えて言った。
王は優れた宰相を得られましたとか。
私は是非とも再拝して祝賀致しとうございます、と。

王が言った。
私は国の政治をそなたに託しておる。
どうして他に宰相を得る必要があろうか、と。

答えて言った。
犀首を宰相にしようとしたではありませんか、と。

王は言った。
そなたはどうやってこれを聞いたのかね、と。

答えて言った。
犀首が私に言いました、と。

王は犀首が密約を漏らしたと怒り、これを追放した。


一説にはこうある。
犀首は天下の名将であり、梁王の臣下である。

秦王は犀首を得て共に天下を治めたいと思った。
犀首は言った。
私は梁王の臣下です。
我が主人の国を離れたり致しません、と。

それから一年が過ぎて、犀首は梁王に罪を受け、逃れて秦へ入った。
秦王は大いに礼遇した。

樗里疾は秦の将軍である。
犀首が自分に代わって将軍になるのではないかと恐れ、王がいつも密談をする室に穴を開けた。

すると俄かに王は犀首と計って言った。
私は韓を攻めようと思うのだが、どうであろうか、と。
王は言った。
私は国の政治をそなたに委ねたい。
そなたは必ずこのことを漏らさぬように、と。

犀首は繰り返し再拝して言った。
ご命令をお受け致します、と。

このとき樗里疾はすでに穴からこの話を聞いていた。

近臣たちは皆言い合った。
兵を秋に起こして韓を攻め、犀首を将軍にするそうだ、と。

この日のうちに近臣は皆これを知り、この月のうちに国中の皆がこれを知った。

王は樗里疾を召し出して言った。
どうしてこのように騒々しいのか。
この話はどこから出たのか、と。

樗里疾は言った。
犀首からのようです、と。

王は言った。
私は犀首と何も話していない。
犀首に約束したとはどういうことか、と。

樗里疾は言った。
犀首は最近罪を得て旅して仕えておりますから、その心は孤独でございます。
このように言いふらして自ら人びとに売り込もうとしているのでしょう、と。

王は言った。
そうであろう、と。

王は人をやって犀首を召し出そうとしたが、すでに逃げて他の諸侯の国に入っていた。


堂谿公が韓の昭侯に申した。
今ここに千金の玉杯があるとします。
もしそれに穴が空いていて底がなかったなら、水を入れて溜めることができますか、と。

昭侯は言った。
できない、と。

では土器があって、水漏れしないとしたら、酒を入れて溜めることができますか、と。

昭侯は言った。
できる、と。

堂谿公は言った。
そもそも土器は賤しいものですが、水漏れしなければ、酒を入れることができます。
しかし千金の玉杯は高価なものですが、底がなくて水が漏れるなら、水を入れておくことはできません。
これではいったい誰が飲み物を注ぐでしょうか。
今、君主として、群臣から聞いた言葉を他に漏らすなら、それは底のない玉杯と同じことです。
賢智の者がいるといえども、その力を尽くすことはできますまい。
君主が漏らしてしまうためです、と。

昭侯は言った。
その通りだ、と。

昭侯は堂谿公の言葉を聞いて、この後、天下の大事をなそうとするときは、独りで寝なかったときはない。
寝言を人に聞かれてその謀を知られることを恐れたからである。


一説にはこうある。
堂谿公が韓の昭侯に見えて申した。
今、白玉の杯があって底がなく、素焼きの土器があって底があるとしたら、ご主君は喉が渇いたとき、どちらを使って飲むでしょうか、と。

昭侯は言った。
素焼きの土器を使うだろうな、と。

堂谿公は言った。
白玉の杯は美しいのに、ご主君はそれを使って飲まないというのは、底がないからですか、と。

昭侯は言った。
そうだ、と。

堂谿公は言った。
君主たる者、群臣から聞いた言葉を他に漏らすのは、喩えば玉杯に底がないようなものです、と。

堂谿公が昭侯に見えて退出した日は、昭侯は必ず独りで寝るようにした。
ただ寝言によって妻や妾に秘密が漏れることを恐れたからである。


申子が言った。
自分の目で物事をみるのを明といい、自分の耳で直接聞くのを聡という。
ゆえに自分で判断できる者は、天下の主となることができる、と。



三、
宋の人で、酒を売る者がいた。
計り方は公平で、客を甚だ丁寧に遇し、作った酒は甚だ美味で、看板の幟は甚だ高く掲げていた。
しかし売れずに、酒は酸敗してしまった。

その理由が分からないので、知り合いの里の長老の楊倩に問うた。
倩は言った。
そなたの犬は獰猛かね、と。

答えて言った。
犬が獰猛なら、どうして酒が売れないのですか、と。

言った。
人々がその犬を恐れるからだよ。
例えば子供に銭を懐に持たせ、壺を提げて買いに行かせると、犬が待ち構えて子供を噛もうとするだろう。
これが酒が酸敗するまで売れない理由だよ、と。

国というものにもまた犬がいる。
道を心得た士が、国を治める術を抱いて、万乗の国の君主に進言しようと思っても、大臣が猛犬となって、出迎えて噛みつく。
これが君主が姦臣に覆われ脅かされる理由であり、道を心得た士が用いられない理由なのである。


桓公が管仲に問うた。
国を治めるには何に最も心配するべきかね、と。

答えて言った。
最も心配すべきは社の鼠です、と。

桓公は言った。
なぜ社の鼠を心配するのかね、と。

答えて言った。
ご主君は、かの社を造る様子をご覧になりましたか。
板を立てて壁を塗りますが、鼠がその隙間を穿ち、穴を掘ってその中に身を託します。
これを燻そうとすれば板を焼く恐れがあります。
これに水を注ぎ込もうとすれば塗った壁が崩れる恐れがあります。
こうしたわけで社の鼠を捕まえられないのです、と。

今、君主の左右に仕える臣下は、外では君主の権勢をかさにきて民から利を貪り、内では徒党を組んで君主を覆って姦悪をなす。
内では君主の実情を窺い知り外部に告げ、内外の諸臣諸官に権勢を振りかざして私腹を肥やし、役人がこれを誅罰しなければ法は乱れるが、これを誅罰すれば君主は放っておかないだろう。
そこでこれを見逃す。
これもまた社稷の鼠である。

ゆえにこのような臣下は君主の権勢を借りて禁制を好き勝手に破り、己のために尽くす者には必ず利を与え、己のために尽くさない者には必ず害が及ぶことを知らしめる。
これもまた猛犬である。

大臣は猛犬となって道を心得た士を噛みつき、左右の近臣は社の鼠となって君主の実情を窺っているのに、君主はそれを知らずにいる。
このようであれば、君主はどうして塞がれずにいられようか。
国はどうして亡ばずにいられようか。


一説にはこうある。
宋に、酒を売る者で、荘氏という者がいた。
その酒は常に美味であった。

ある人が下男に荘氏の酒を買いに行かせた。
すると荘氏の犬が下男に噛み付いた。
下男はそれ以上荘氏の店に入らず、他店の酒を買って帰った。

主人が問うて言った。
どうして荘氏の酒を買ってこなかったのだ、と。

答えて言った。
今日は荘氏の酒は酸敗していました、と。

ゆえにこう言われている。
犬を殺さねば、酒が腐る、と。


一説にはこうある。
桓公が管仲に問うた。
国を治めるのに何を心配すべきかね、と。

答えて言った。
最も心配すべきは社の鼠です。
かの社は木を立てて壁を塗ります。
鼠はそこに身を託します。
これを燻せば木は焼け、これに水を注げば壁が破れます。
これが社の鼠に苦しむ原因です、と。

今、君主の左右の近臣は、外では君主の権勢をかさにきて民から利益を貪り、内では徒党を組んで他人を欺き罵り、姦悪を覆い隠して君主を欺く。
これを誅罰しなければ法は乱れるが、これを誅罰すれば君主にも危難が及ぶので、これを許す。
これもまた社の鼠である。

ゆえに臣下は、君主の権勢を借りて禁制を好き勝手に破り、己のために尽くす者には必ず利を与え、己のために尽くさない者には必ず害が及ぶということをはっきり知らしめる。
これもまた猛犬である。

ゆえに左右の近臣は社の鼠となり、権勢を用いる大臣が猛犬となるなら、正しい政治の術が行われることはないだろう。


堯が天下を舜に譲ろうと思った。
鯀が諫めて言った。
不吉でございますな。
天下をただの平民に譲る者がおりましょうか、と。

堯は聞き入れず、兵を出して鯀を羽山の近郊で誅殺した。

共工がまた諫めて言った。
天下をただの平民に譲る者がおりましょうか、と。

堯は聞き入れず、また兵を出して共工を幽州の都で誅殺した。

こうなると、世に、天下を舜にゆずってはいけない、と諫める者はいない。

仲尼が之を聞いて言った。
堯が舜の賢能を見抜いたのは、難しいことではない。
諫言する者を誅殺して、必ず天下を舜に譲ったことこそ、難しいことである、と。


一説にはこうある。
堯が鯀と共工が疑って諫めたことによって、舜の賢能を見抜いた己の判断を曲げなかったことは、難しいことである、と。


楚の荘王のときに茅門の法があった。
群臣から大臣、諸公子まで皆、参朝する際に、馬蹄が門の溝にまで踏み込んだ者は、廷尉がその車の長柄を切り、その御者を殺す、とある。
このとき、太子が参朝して、その馬蹄が門の溝を踏んだ。

廷尉がその車の柄を切り、その御者を殺した。

太子は怒って、宮廷に入って王に泣きながら言った。
必ず私のために廷尉を誅殺してください、と。

王は言った。
法は宗廟を敬し、社稷を尊ぶためのものである。
ゆえに法を守り命令に従い、社稷を尊敬する者は社稷の臣である。
どうして誅殺することなどできようか。
もし法を犯し、命令を破り、社稷を尊敬しない者は、臣でありながら君主を侮り、下が上に逆らう者である。
臣が君主を侮れば君主は威厳を失い、下が上に逆らえば上の地位は危うい。
君主が威厳を失い、地位が危うくなれば、社稷は守られないだろう。
果たして私は何を子孫に残すことができようか、と。

そこで太子は帰り、太子の宮から出て、外で寝泊まりすること三日、王に再拝して死罪を請うた。


一説にはこうある。
楚王が急に太子を召し出した。
楚国の法では、車は茅門に入ることはできない。
しかし雨が降っていて、廷中に水たまりがあったので、太子はそのまま車を駆って茅門に入ろうとした。

廷尉は言った。
車は茅門に入ってはいけません。
法に背きます、と。

太子は言った。
王が急ぎお召しになったのだ。
水がひくのを待ってはおられぬ、と。
そのまま茅門に駆け入った。

廷尉は矛を振り上げてその馬を打ち、車を止めた。

太子は宮殿に入って王に泣きながら言った。
宮廷に水たまりが多かったので、車を駆って茅門に入ろうとしたところ、廷尉が法に背くと言って、矛を振り上げて私の馬を打ち、私の車を止めました。
王は必ずこの者を誅罰してください、と。

王は言った。
前に老いた主がいて、その命令に背かず、後に若い主がいて、そのご機嫌伺いをしない。
これはまことに我が法を守る臣である、と。

そこで爵位を二級進め、後門を開いて太子を出し、再び法に背かぬようにした。


衛の嗣君は薄疑に言った。
そなたは私の国を小国だとして、仕えるに足らないと思っているようだが、私はそなたを仕えさせたい。
爵位を進めて、そなたを上卿にしよう、と。
そこで田地一万頃を与えた。

薄疑は言った。
私の母は私に親しみ、私を万乗の国の宰相となっても充分ではないと思っています。
しかし私の家の巫女に蔡嫗という者がおり、私の母は深くこの者を愛し信頼して家事を任せております。
私の智恵でも充分に家事をすることができます。
私の母はことごとく私に相談しますが、すでに私に相談したことでも、また必ず蔡嫗にも相談して決めてもらっています。
つまり母は私の智恵や能力を評して万乗の国の宰相となっても充分ではないと思い、親しみは母と子の間柄ですが、それでもなお、家事は蔡嫗と相談せずにはいられません。

今、私とご主君の間柄は、母と子の親しみではありません。
しかもご主君には皆、蔡嫗がおります。
ご主君にとっての蔡嫗とは、その重臣のことです。
そしてその重臣は私欲をなす者たちです。

そもそも私欲をなすのは法に背くことです。
そして私の言うのは法を守ることです。
法に背くことと法を守ることは並び立ちません。
お受けすることはできません、と。


一説にはこうある。
衛君が晋へ行った。
そのとき、薄疑に言った。
私はそなたを共に連れて行きたい、と。

薄疑は言った。
母が家におります。
帰って母と相談しようと思います、と。

そこで衛君はみずから薄疑の母に頼んだ。

薄疑の母が言った。
薄疑はあなた様の臣でございます。
あなた様が疑を連れていきたいとの思し召しは、はなはだありがたいことで思います、と。

衛君は言った。
私はすでにそなたの母に相談して、母は許可してくれたぞ、と。

薄疑は帰って母に言った。
衛君が私を重んじてくださるのと、母が私を愛することは、いずれが勝りましょうか、と。

母は言った。
私が我が子を愛するのには及ばないでしょう、と。

疑は言った。
衛君が私を賢能だと思ってくださるのと、母が私を賢能だと思ってくださるのとでは、どちらが勝りましょうか、と。

母は言った。
私が我が子を賢能だと思うことには及ばないでしょう、と。

疑は言った。
母上は私と家事の相談をしてすでに決まったのに、さらにこれを占師の蔡嫗とお決めになります。
今、衛君は私を連れて行き、私と相談して決めたとしても、必ず他の蔡嫗と相談して私との決定を破るでしょう。
このようであれば私は長く臣としてお仕えすることはできないでしょう、と。


かの歌を教える者は、まず大きく声を出させ、声の抑揚を変えさせたりして、その声が音律に適する者には弟子として教える。


一説にはこうある。
歌を教える者は、まず法によって声をはかり、激しく発声して宮の音になるように、ゆっくり発声して徴の音になるようにさせる。
激しく発声して宮の音にならず、ゆっくり発声して徴の音にならなければ教えない。


呉起は衛の左氏地方の人である。
妻に組紐を織らせたところ、幅が寸法より狭かった。
呉子はこれを作りなおすように言った。
妻は言った。
わかりました、と。

できあがってまた計ってみると、やはり寸法が合わない。
呉子は大いに怒った。
妻が答えた。
最初に経糸をかけて作るものですから、直すことができなかったのです、と。
呉子は妻を追い出した。

妻はその兄に頼んで呉子のもとに帰らせてもらおうとした。
その兄が言った。
呉子は法に精通している者だ。
その法を用いて、万乗の国のために功をなそうと思っている。
必ずまず家で行なっておいて、その後に国で行おうとしているのだ。
おまえは呉子のとことへ帰ろうと願ってはならないよ、と。

その妻の弟が衛君に重用されていた。
そこで衛君の権勢に頼って呉子に頼んだ。
呉子は聴き入れず、そのまま衛を去って楚に行った。


一説にはこうある。
呉子が妻に組紐を見せた。
そしてこう言った。
そなた、私のために組紐を織ってくれ、こんなふうにしてくれよ、と。

組紐は完成し、呉子に渡した。
その組紐ははなはだ善くできている。
呉子は言った。
そなたに組紐を作らせ、こんな風に作ってくれと言ったのに、今、それとは違ってはなはだ善くできあがったのは、どうしてか、と。
妻は言った。
材料の使い方は同じですが、手を加えて善くしたのです、と。
呉起は言った。
私が言った通りにしなかったのだな、と。

妻を着替えさせ実家に帰らせた。
妻の父が出向いて詫びた。
呉起はこう言って断った。
私の家では嘘は言いません、と。


晋の文公が孤偃に問うた。
私は肥えてうまい肉はあまねく堂の臣下たちに分け与え、杯酒や高杯の肉は後宮の女たちに分け与え、壺の酒は清むことなく、生肉は乾し肉にされることなく、一匹の牛を殺しても国中にあまねく分け与え、年々の貢納される織物はことごとく士卒に与えて着せる。
こうしておれば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は言った。
足りません、と。

文公は言った。
私は関所や市場の税を弛め、刑罰を軽くした。こうしておけば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は言った。
足りません、と。

文公は言った。
我が民で財産を失ってしまった者がいれば、私みずから郎中に事情を調べさせ、罪のある者は赦し、貧しくて困窮している者には与えている。
こうしておけば民を戦わせるに充分かね、と。
狐子は答えた。
足りません。

これらは皆、民の生活を大切にするからですが、民を戦わせるのは、殺すことになります。
民がご主君を慕い従うのは、生活を大切にしてくれるからです。
ご主君はこの慕い従う民を迎えて殺してしまうのでは、ご主君に従う理由を失ってしまいます、と。

文公は言った。
それならばどのようにすれば民を戦わせることができるのかね、と。
狐子は答えた。
民に戦わざるを得ないようにさせることです、と。

文公は言った。
どうやって戦わざるを得ないようにさせるのかね、と。
狐子は答えた。
信賞必罰によって戦わせることができます、と。

文公は言った。
刑罰の限度はどこまでだろうか、と。
答えて言った。
ご主君に親しい者、身分の高い者でも避けず、寵愛する者にも行うのです、と。

文公は言った。
よろしい、と。

翌日、圃陸で狩りを行うことにして、その日の正午までに集まるように決め、遅れた者には軍法によって罰する、と命じた。

ここにおいて、文公に顚頡という寵愛する者がいて、期限に遅れた。
役人がその処罰を願い出た。
文公は涙を流して悲しんだ。
役人は言った。
処罰をしてくださいますように、と。
そのまま顚頡の背を斬って罰し、臣民に知らしめ、法が確実に行われることを明らかにした。

その後、臣民は皆恐れて言った。
ご主君は顚頡を寵愛すること、かくの如くはなはだしかったが、それでもなおご主君は法を行われた。
我らに対してなど何の躊躇いがあろうか、と。

文公は民を戦わせることができるようになったと判断して、兵を起こし、原を伐って勝ち、衛を伐ってその国の畝を東に並べ、衛の五鹿を奪い、陽を攻め、虢に勝ち、曹を伐ち、南では鄭の都を囲み、城壁の防備を取り除き、宋の囲みを戦わずして解かせ、引き返して楚軍と城濮で戦い、大いに楚軍を破り、引き返して踐土で会盟を行い、そのまま衡雍で天子に謁見し覇者の礼を成した。
ひとたび兵を起こし、八つの功をあげた。

こうなった理由は他でもない。
狐偃の謀に従い、顚頡の背を斬って見せたからである。


もしできものが痛むなら、骨髄まで抉らねば治らず、苦しさを堪えることはできない。
こもことを心得ていなければ、人に半寸の小さな石針でできものを抉り取らせることはできないであろう。

今、君主が政治に対するやり方もそうである。
苦痛の後に安楽が来ることを知らないわけではないだろう。
国を治めようと思う心がけがこのようでなければ、賢知の臣の言説を聴き入れ、姦臣を誅罰することはできないだろう。

姦臣は必ず重臣である。
重臣は必ず君主がはなはだ親愛する者である。
君主がはなはだ親愛する者は堅白を同じくする者である。
それを処士の身分で、君主が堅白のごとく親愛する臣を引き離そうとするのは、左の股を右の股から引き離すようなものである。
これではその身は必ず死に、その言説は行われないのである。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 左下

一、
罪を犯して罰を受けるならば、人はお上を怨まない。
ゆえに跀危は子皐を生かした。
功をあげて賞を受けるならば、臣は君主に恩義を感じない。
だから翟璜は証文を手にして軒に乗った。

魏の襄王は賞の与え方をよく分かっていなかったので、昭卯は五乗の禄を受けながら藁草履を履いているようだと言った。お上が臣下を任ずるに誤りがなければ、臣下は能力をごまかさず、臣下はかの少室周のようであろう。


二、
明君は権勢に頼り、信義に頼らない。
故に東郭牙は管仲を批判した。
明君は術に頼り、信義に頼らない。
故に渾軒は文公を誹った。
故に法術の士は、信賞によって臣下に能力を尽くさせ、必罰によって姦邪を禁じる。

人によってその言行に善し悪しはあるが、必ず利となるところを用いる。
故に趙簡主は陽虎を家宰にし、魯の哀公は孔子に一足のことを問うた。


三、
君臣の間の道理を忘れると、周の文王は自分で履物をなおすということになる。
朝廷でのときと居室でのくつろぎのときも変わらずにいると、魯の季孫は一生謹厳にしていたのに賊にあったということになる。


四、
君主が、禁じるべきことを禁じずに利益があると思い、利益があることを禁じるならば、神といえどもうまくいかないだろう。
罰すべきことを誉め、賞すべきことを謗るならば、堯といえどもうまく治めることができないだろう。

もし門を建てても入らせず、利益を見せておきながら進ませないなら、乱が生じる原因となる。
斉侯が左右の近臣の取次を聴かず、魏主が推薦者に取り合わず、明察で群臣を見分けるならば、鉅は金銭を使わず、孱は玉壁を用いなかっただろう。
西門豹は再び鄴を治めたいと願った話によって、これを知るに充分である。
そして狗盗の子が皮衣の尾を誇り、跀危の子が袴が立派なのを自慢することと同じである。
また、子綽の、左右の手で画くことや、蟻を追い蝿を払う、ということがある。
どうして、桓公が臣下が官職を求めることを憂いたことや、宣王が役人が馬を痩せさせることを心配せずにいられようか。


五、
臣下が謙遜で質素であることによって善行だとするのは、爵禄によって勧奨するには及ばない。
君主が臣下を寵愛し栄光を与えることに節度がなくなると、臣下が君主の地位を侵し圧迫するだろう。
その例は、苗賁皇が獻伯を誹った話、孔子が晏嬰を批判した話がある。

故に仲尼は管仲と孫叔敖とを論じて、出入の状態が異なると言った。
陽虎がその臣下を君主に推薦したことを言ったときに、簡主が臣下に答えたことは、君主の術を忘れたものである。
徒党を組んで互いに結束を固め、臣下が欲を得るときは、君主は孤立する。
群臣が公の心で賢人を推挙し、徒党を組んで互いに結束しないときは、君主は耳目を塞がれずものごとを見分けることができる。
陽虎が趙武の賢人ぶりを、解狐が公正に裁こうとしたのに、簡主は棘を植えたようなものだと言ったことは、国に対して教えるようなことではないだろう。


六、
公室の権力が弱くなると、臣下の直言を忌み嫌い、臣民の私的なふるまいが横行すると、公のための功が少なくなる。

その例証は、晋の范文子が直言をして、武子が杖で打ったこと、鄭の子産が忠諫し、子国がそれを怒ったこと、などがある。
また、趙の梁車は法を守ったために、成侯はその職を解いたこと、管仲は公正であったために国人はこれを怨んだこと、などがある。


右は経である。



一、
孔子が衛で宰相になったとき、弟子の子皐が裁判官となり、罪人を足切りの刑に処した。
その足切りの刑となった者は都の門番となった。

ある人で孔子を衛君に謗る者がいた。
言うには、仲尼は反乱を起こそうとしております、と。
衛君は孔子を捕らえようとした。

孔子は逃げ、弟子もみな逃れた。
子皐が遅れて都の門から出ようとした。
すると、かの足切りの刑に処された門番が子皐を手引きして、門の地下室へ隠れさせた。
役人が追ってきたが見つけられなかった。

夜更けに子皐がその門番に問うた。
私は法を曲げることができぬゆえ、私はそなたの足を切った。
今こそそなたはその仇に報いる時であろう。
それなのに、そなたはどうして私を逃がそうとするのかね。
私はどうしてそなたにこのようにしてもらえるのかね、と。

足切りの門番は言った。
私が足を切られたのは、もとより私の犯した罪に、法が相当していたからで、どうしようもありません。
しかしあなたは私の罪を正しく裁こうとして、法令を熟読熟慮なさり、私の申し上げることにお言葉を補われ、私が罪を免れることができないかとお考えいただいたこと、大変なものでございました。
私はそれをよく存じております。
裁判が決まり罪が確定しますと、あなたは傷ましそうにして気分が晴れず、お顔にそれが表れており、私はこれもまたよく分かりました。
あなたは私に私的な感情でそうなさったのではなく、天性として仁愛の心をお持ちであったからです。
これが私が悦んであなたを敬愛する理由なのです、と。



田子方が斉から魏へ行った。
途中、翟黄が軒に乗り、騎馬兵を従えて出てくるのを遠くから見て、魏の文公だろうと思った。
そこで車を別の路に移して避けたのに、それは何ということはない、翟黄だった。

方は問うた。
そなたはどうしてこの車に乗っているのかね、と。

翟黄は言った。
ご主君は中山を伐とうと計画をたてなさったので、私は翟角を推挙しましたところ、翟角の計謀が用いられました。
いよいよ中山を伐つ段階になると、私は楽羊を推挙し、中山は陥落しました。
ご主君が中山を得て、これをどう治めようかと心配なさるので、私は李克を推挙し、中山はうまく治まりました。
これによって、ご主君にこの車を賜ったのです、と。

方は言った。
この者の実際の功績に比べたら、軒を賜ったくらいではまだまだ少ない、と。



秦と韓が魏を攻めようとした。
そこで昭卯は西へ赴き説いて秦と韓の軍をやめさせた。

斉と楚が魏を攻めようとした。
昭卯は東へ赴き説いて斉と楚の軍をやめさせた。

魏の襄王は昭卯を五乗将軍に任じ、養った。
昭卯は言った。
伯夷が将軍の位で首陽山のふもとに葬られたとしたら、天下の人は言ったでしょう。
伯夷ほどの賢智と仁徳を備えており、称えられているのに、将軍の位で葬られたのでは、その手足さえも掩うに足りないでしょう、と。
今、私は四国の兵をやめさせたのです。
それなのに王は私に五乗を与えただけです。
こては私の功績に比べたら、大儲けをしたのになお藁草履を履いているようなものです、と。



孔子が言った。
優れた官吏は民に徳を植えつけ、優れた官吏になれない者は民に怨みを植えつける。
槩は、ますに入れた穀物を平らにするものであり、官吏は法を公平にするものである。
国を治める者は公平を失ってはならない、と。



少室周は昔の清廉潔白な者である。
趙襄主の侍衛となった。
あるとき中牟の徐子と力比べをして、敵わなかった。
そこで、宮殿に入ってこのことを趙襄主に、自分と代わりたいと言った。

趙襄主は言った。
そなたの地位は誰もが望むものである。
それなのにどうして徐子を推挙して自分と代わろうとするのか、と。

周は言った。
私はこの力をもってご主君にお仕えしております。
今、徐子の力は私より強いのですから、私が徐子と代わらなければ、おそらく他人がこのことを申し立てて非難するでしょう、と。


また一説にはこうある。
少室周は趙襄主の驂乗となり、晋陽へ行った。
すると、そこに力士の牛子耕という者がいた。
周は共に力比べをして勝てなかった。

周は君主に言った。
ご主君が私を驂乗とした理由は、私の力が強いからです。
今、私より力の強い者がおりました。願わくば、この者を推挙したいのです、と。



二、
斉の桓公が管仲を取り立てようとした。
群臣に命令して言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにする。
賛成する者は門の左へ、さんせいしない者は門の右へ移動せよ、と。
すると東郭牙は、門の正面に立った。

桓公は言った。
私は管仲を取り立てて仲父と呼ぶことにすると命令して言った。
賛成する者は左に、賛成しない者は右に移動せよ、と。
今、そなたはどうそて門の正面に立つのか、と。

牙が言った。
管仲の智恵で天下を平定できるとお思いか、と。
桓公は言った。できるだろう、と。

その決断力で国の大事を成すことができましょうか、と。
桓公は言った。そうするだろう、と。

牙は言った。
もしその智恵は天下を平定でき、その決断力は大事を成すことができ、そのためにご主君はこの者に国の権勢を与えて、管仲がその能力をご主君の権勢に乗せて、斉国を治めてゆくとしたら、危険なことは無いと言えましょうか、と。

桓公は言った。よろしい、と。
そこで隰朋に内政をさせ、管仲に外交をさせて、互いに意見を交わせるようにした。



晋の文公が亡命していたとき、箕鄭は食べ物を入れた壺を提げて従っていた。
あるとき、道に迷って、文公とはぐれてしまった。
飢えて道すがら泣きたくなり、とても腹が減ったが、耐えて壺の食べ物に手を出さなかった。

文公が国に帰ったあと、兵を挙げて原を攻めて落とした。
文公は言った。
あの者は容易く飢えの苦しみを耐え忍び、壺の食べ物に手を出さなかった。
きっと原を任せても反かないだろう、と。
そこで箕鄭を挙げて原の長官に任じた。

大夫の渾軒がこれを聞いて、誤りだとして言った。
壺の食べ物に手を出さなかったという理由で、原を任せても反かないと思うのは、何とも術がないではないか。
すなわち明主は臣が己に反かないことを頼りとせず、臣が己に反けないないように備えることを頼りとするものである。
臣が己を欺かないことを頼りとせず、臣が己を欺けぬように備えることを頼りとするものである、と。



陽虎の論説に言う。
君主が賢明なら臣下は心を尽くしてこれに仕え、不肖ならば姦悪を隠して君主を試すのだ、と。
陽虎は魯を追われて、斉に疑われ、逃げて趙へ行った。
趙簡主はこれを迎えて宰相にした。

左右の近臣が言った。
陽虎は国の政権を盗みとるのがうまいと聞きます。
どうして宰相になどなさるのですか、と。

趙簡主は言った。
陽虎は政権を盗みとることに務め、私は政権を守るこよに務める。
私が先に守っていれば、彼は利を得ることができないだろう、と。

そのまま術を用いて陽虎を統御した。
陽虎はあえて悪事をなさず、善良によって趙簡主に仕え、趙簡主の権勢を強めた。
こうしてほとんど覇者となるほどに強くなった。



魯の哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
昔、夔という者がいて、もともと片足だけであった、と。
それは果たして本当に片足だけの者だったということがあるだろうか、と。

孔子は答えて言った。
いいえ、夔は片足だったのではございません。
夔はひねくれ者で害悪の心を抱き、人々の多くはこれを喜びませんでした。
それでも夔が人からの害を免れることができたのは、夔が信であったからです。
人は皆言いました。
ただこの信ひとつで足りる、と。
夔は片足だったのではございません。
信ひとつで足りたということなのです、と。

哀公は言った。
確かにそのように信であれば足りるであろうな、と。


一説にはこうある。
哀公が孔子に問うた。
私は聞いている。
夔は片足であった、と。
これは本当かね、と。

孔子は答えた。
夔は人間です。
どうして足が一本だけだったりしましょうか。
夔は他の者と変わったところはございませんでしたが、ただ音楽に通じておりました。
堯は言いました。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
そして楽正として用いました。
ゆえに君子は言うのです。
夔は音楽ひとつで足りる、と。
片足だったのではございません、と。



三、
周の文王が崇を伐った。
鳳黄の都の跡地に来たとき、足袋の紐が解けたので、自分で結びなおした。

太公望が言った。
何故ご自身でなさるのか、と。

文王は言った。
君主に仕える者に、上の臣は皆、君主の師であり、中の臣は皆、君主の友であり、下の臣は皆、君主の使用人である。
今、臣は皆、先君からの臣である。
ゆえにこのようなことで使うことなどできない、と。


一説にはこうある。
晋の文公が楚と戦った。
黄鳳の陵に来たとき、履物の紐が解けたので、自分で結びなおした。

左右の近臣が言った。
人を使ってはいけないのですか、と。

文公は言った。
私は聞いている。
上君と共に居る臣は皆、君主の畏敬する者であり、中君と共に居る臣は皆、君主の愛する者であり、下君と共に居る臣は皆、君主の侮る者である、と。
私は不肖であるとはいえ、先君からの臣がみな仕えてくれているので、このようなことをさせるのを憚るのだ、と。



魯の季孫は士を好み、生涯礼儀正しく、私室にいるときも衣服は常に朝廷にいるときのようであった。
しかし季孫がたまたま怠り、過失があって長く礼をなすことができなかったので、客たちは自分を嫌い軽んじているのだと思い、互いに季孫を怨み、とうとう季孫を殺してしまった。
ゆえに君子はやりすぎることを避ける。

斉の南宮敬子が顔涿聚に問うた。
季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服で客に会うこと、数十人に及んだ。
しかし賊に害されたのは何故であろうか、と。

答えて言った。
昔、周の成王は道化や侏儒を傍に置き、好き勝手にふるまっていましたが、物事は君子と相談して決めました。
これが欲を天下になすということです。
今、季孫は孔子の門人を養い、朝廷での礼服を身につけて会う者が数十人に及んでも、道化や侏儒と物事を決めたので、賊に害されたのです。
ゆえに、こう言うのです。
重要なのは誰と一緒にいるか、ではなく、誰と一緒に謀るかである、と。



孔子が魯の哀公に侍って坐していた。
哀公が孔子に桃と黍を賜った。
哀公はそれを食べるように促した。
仲尼はまず黍を食べてから桃を食べた。
左右の近臣は皆、口を覆って笑った。

哀公は言った。
黍は食べるものではなく、桃の毛を拭うためのものだ、と。

仲尼は答えて言った。
丘もそれを存じております。
かの黍は五穀の第一であり、先王を祭るときの最上の供物です。
草木の実は六つあって、桃は下級であり、先王を祭るときに廟に入れることはできません。
丘はこう聞いております。
君子は賤しいもので貴いものを拭う、と。
しかし、貴いもので賤しいものを拭う、とは聞いておりません。
今、五穀の長である黍で、草木の実の下級なものを拭うということは、上で下を拭うことになります。
丘は、これは義を妨げるものだと思いましたので、あえて宗廟の供物である黍に桃が先んじないようにしたのでございます、と。



趙簡主が左右の近臣に言った。
車の敷物が立派すぎる。
そもそも冠は粗末であっても必ず頭に乗せる。
靴は高価であっても必ず足に履くものである。
今、車の敷物はこのように立派すぎる。
私はいったいどんな高価な靴でこれを踏めばいいのだろうか。
下を立派にしすぎて上を損耗するというのでは、正道を害する原因である、と。



費仲が紂に説いた。
西伯昌は賢人です。
人民は皆これを悦び、諸侯がこれに味方しております。
誅伐せねばなりません。
誅伐せねば、必ず殷の憂いとなりましょう、と。

紂は言った。
そなたの言う通りであれば道を心得た者であろう。
どうして誅伐することができようか、と。

費仲は言った。
冠は古びて穴が空いても必ず頭に乗せ、靴は五色で飾り立てられていても必ず地面を踏みつけます。
今、西伯昌は臣下の身です。
正道を修めて人心を集めております。
ついには天下の憂いとなるとすれば、それは必ず昌でしょう。
そもそも人々がその賢人たるをもって主に戴こうとしているのですから、誅伐せぬわけにはいきません。
かつ、君主が臣下を誅伐するのです。
どうして誤りがありましょうか、と。

紂は言った。
かの仁義というものは、上が下に対して推奨するものである。
今、昌は仁義を好む者であるのに、これを誅伐することなどできない、と。

費仲は三たび説き諫めたが聴き入れなかった。
ゆえに紂は亡んだ。



斉の宣王が匡倩に問うた。
儒者でも賭博をするのか、と。
答えた。いいえ。
王は言った。どうしてか、と。

匡倩は答えて言った。
賭博は梟という駒を大切にします。
しかし賭博で勝つには必ず相手の梟を殺さねばなりません。
梟を殺すということは、大切にしているものを殺すということになります。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに賭博はしないのです、と。

また問うた。
儒者は弋をするのか、と。
言った。いいえ。

弋は下から上にいる鳥を射て害するものです。
これは臣下が君主を傷つけるようなものです。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに弋はしないのです。

また問うた。
儒者は瑟を奏でるのか、と。
言った。いいえ。

かの瑟というものは小絃で大きな音を出し、大絃で小さな音を出します。
これは大小の順序をかえることになり、貴賤の位をかえることに通じます。
儒者はこれを義を害するものとします。
ゆえに瑟を奏でません、と。

宣王は言った。よくわかった、と。



仲尼は言った。
民を大臣に諂わせるよりは、むしろ民を君主に諂わせる方がましだ、と。



四、
詎は斉の処士であり、孱は魏の処士である。
斉、魏の君主が明察ではなかったために、自分で国内を見渡すことができず、左右の近臣の言葉を聴き入れた。
ゆえに二人は黄金や宝玉を使って朝廷に入り仕えようとした。



魏の西門豹は鄴の長官となった。
清廉で私欲なく潔白で実直であり、わずかも私利を計らなかった。
そして魏君の左右の近臣を軽んじた。
そこで左右の近臣たちは互いに徒党を組んで西門豹を憎んだ。

その後一年が経ち、会計を報告しに参朝した。
すると魏君は西門豹の官印を召し上げて解任した。

西門豹はみずから願い出て言った。
私はこれまで鄴の治め方を知りませんでした。
今、心得ました。
願わくば官印をたまわり、再び鄴を治めたく存じます。
もしうまくいきませんでしたなら、斧斬りの刑に服します、と。

魏の文侯は気の毒に思って再び西門豹に官印を与えた。

そこで西門豹は民から重税を取り立て、しきりに左右の近臣に賄賂を贈ってご機嫌伺いをした。

一年が経ち会計の報告をした。
文侯はこれを迎えて拝礼した。

西門豹は答えて言った。
私はご主君のために鄴を治めましたが、ご主君は私から官印を取り上げなさいました。
今、私は左右の近臣のために鄴を治めましたのに、ご主君は私に拝礼してお迎えになりました。
これでは私は鄴を治めることなどできません、と。

そのまま官印を返納して立ち去ろうとした。
文侯は受け取らずに言った。
私はこれまでそなたのことをよく知らなかった。
今、知ったのだ。
願わくばそなたは一層私のために鄴を治めてくれまいか、と。
そのまま官印を受け取らずに西門豹に戻した。



斉に狗盗の子と刖危の子がいて、戯れて父の自慢をし合った。
狗盗の子は言った。
我が父の皮衣には尻尾が付いているんだぞ、と。
刖危の子は言った。
我が父の袴は夏も冬も立派なんだぞ、と。



子綽は言った。
左手で方形を画きながら、右手で円形を画くことができる者はいない。
肉を置いて蟻を追い払おうとすれば、蟻はますます多く集まり、魚を置いて蝿を追い払おうとすれば、蝿はますます寄ってくるだろう、と。



斉の桓公が管仲に言った。
官職の数は少ないのに、それを望む者は多い。
私はこれを心配している、と。

管仲は言った。
ご主君が左右の近臣の取りなしを聴き入れず、臣下の能力によって俸禄を授け、功績を記録しておいて官職を与えれば、むやみに官職を望む者はいなくなりましょう。
ご主君、ご心配には及びません、と。



韓宣子は言った。
私の馬には豆も粟も多く与えている。
しかしとても痩せているのは何故だろうか。
私はこれを心配しているのだ、と。

周巿が答えて言った。
馬番に粟を馬に好きなだけ食べさせたなら、肥えさせまいとしても、かなわぬでしょう。
表向きは多く与えていると言うものの、実際は少ししか与えていないのでしょう。
痩せさせないようにしても、かなわぬでしょう。
ご主君は、その実情をよくお調べなさらずに、座してこれを心配しても、馬は肥えないでしょう、と。



斉の桓公が官吏を取り立てることについて管仲に問うた。
管仲は言った。
人の弁説をはっきり聴き分け、財貨に対して清廉潔白で、人情を理解している、という点で私、夷吾は弦商には及びませぬ。
これを取り立てて裁判の長官とするのがよろしいでしょう。

登降の作法や敬礼の作法を心得、礼儀に通じて他国の賓客をもてなすという点で、私は隰朋には及びませぬ。
これを取り立てて外交の長官とするのがよろしいでしょう。

草むらを切り拓き邑を造り、地を開拓して穀物を作る、という点で、私は寧武には及びませぬ。
これを取り立てて農政の長官とするのがよろしいでしょう。

三軍がすでに陣を構え、士卒に死は故郷に帰るかのごとく思わせる、という点で、私は公子成父には及びませぬ。
これを取り立てて大将軍とするのがよろしいでしょう。

ご主君の顔色に逆らっても強く諫言する、という点で、私は東郭牙には及びませぬ。
これを取り立てて諫臣とするのがよろしいでしょう。

斉を治めるにおいて、この五人を用いれば充分足ります。
ご主君が天下の覇王たらんとお望みであれば、私、夷吾がここにおります、と。




五、
孟獻伯は魯の宰相であった。
堂の下にはあかざや豆の葉が生え、門の外にはいばらが伸びていた。
食事のときは違う味のものはなく、坐るときは敷物を重ねず、家の妾で絹織物を着る者はなく、国にいるときには馬に粟を与えず、国を出るときには車を従えなかった。

叔向はこれを聞いて、苗賁皇に告げた。
賁皇はこれを良しとせず言った。
これは君主から爵禄を放り出して、下を手懐けているのです、と。


一説にはこうある。
孟獻伯が魯の上卿に任ぜられた。
叔向が祝賀するために出向いた。
すると、門に馬が繋がれていたが、麦や粟を食ってはいなかった。

叔向は言った。
あなたの副馬と副車がないのはどうしてですか、と。

獻伯は言った。
私が国中の人を見ると、まだ飢えた顔色をした者がおりました。
ですから馬に麦や粟を与えていないのです。
白髪混じりの歳になっても徒歩の者が多いので、副車を付けないのです、と。

叔向は言った。
私は始め、あなたが上卿に任ぜられたのをお祝い申し上げるために参ったのですが、今はあなたの倹約にお祝い申し上げます、と。

叔向は獻伯の家を出てから苗賁皇に語った。
私に賛成して孟獻伯の倹約をお祝いなされ、と。

苗賁皇は言った。
どうして祝うことなどありましょうか。
そもそも爵禄や旗や紋章は功績によって区別し、賢人か不肖かを分けるためのものです。
ゆえに晋国の法に、上大夫には車二つに馬二組、中大夫には車二つに馬一組、下大夫は車一つに馬一組、と定めておるのは、身分の等級を明らかにするためです。
かつ、かの卿には必ず軍役があります。
このために車や馬を整え、車の士卒や徒卒をそろえ、戦に備えます。
国の難事には万一に備え、平時には政治に務めるのです。
今、その国の政治を乱し、万一の備えも乏しくし、それで節約、倹約を成し遂げて、自分の名声を美しくする。
孟獻伯の倹約はよろしいが、それでどうして祝賀などできましょうか、と。



管仲は斉の宰相になった。
桓公に申した。
私は地位を貴くしていただきました。
しかしまだ私は貧しいのです、と。
桓公は言った。
そなたに三百乗の地を与えよう、と。

管仲は言った。
私は富ませていただきました。
しかしまだ私は家柄が卑しいのです、と。
桓公は、管仲を高氏、国氏よりも上とした。

管仲は言った。
私は家柄を尊くしていただきました。
しかしまだ私は公室に疎遠なのです、と。
そこで桓公は管仲を仲父と呼ぶことにした。

孔子はこれを聞いて非難して言った。
増長して君主を圧迫しておる、と。


一説にはこうある。
管仲父は外に出るときには車に朱塗りの傘を立て、青衣を従え、音楽を奏でさせながら食事をし、庭には鼎を飾り、三百乗の地を持っていた。

孔子は言った。
管仲は優れた大臣だったが、その増長ぶりは君主を圧迫しておる、と。



孫叔敖は楚の宰相になった。
一般の兵卒の乗る牝馬の引く車に乗り、粗づきの飯と菜葉や汁、乾燥させた魚を食べ、冬は羊の皮衣、夏は葛衣を着て、飢えた顔色をしていた。
孫叔敖は優れた大臣である。
しかしその倹約ぶりは下を圧迫する。



陽虎が斉を去って趙に逃げた。
趙簡主が問うた。
私は聞いている。
そなたは人を適切に推挙することができる、と。

陽虎は言った。
私が魯におりましたとき、三人を推挙したところ、皆宰相となりました。私が魯で罪人となると、皆が私を捜索しました。
私が斉におりましたとき、三人を推挙したところ、一人は王の側近となり、一人は県令となり、一人は候吏となりました。
私が斉で罪人となると、王の側近となった者は私に会わず、県令は私を待ち構えて捕縛しようとし、候吏は私を追いかけて国境まで来て、私に追いつけずに止まりました。
私は人を推挙することがうまくはありません、と。

趙簡主は腹を抱えて笑って言った。
橘や柚を植える者は、これを食うときになれば甘く、これを嗅げば良い香りがする。
枳や棘を植える者は、それが育ってしまえば人を刺す。
ゆえに君子は人を立てるときには慎重に行うのだ、と。



晋の中牟の長官に欠員が出た。
晋の平公は趙武に問うた。
中牟は我が国にとって股や肱のようであり、邯鄲にとって肩や股のような、要地である。
私はそこに優れた長官を立てたいと思う。
誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
邢伯の子がよろしいでしょう、と。

平公は言った。
邢伯はそなたの仇ではないか、と。

趙武は言った。
私的な仇は朝廷に持ち込みません、と。

平公はまた問うた。
中府の長官は、誰にさせるのが良いだろうか、と。

趙武は言った。
私の子がよろしいでしょう、と。

だから言うのだ。
他人を推挙するときは仇でもかまわず、身内を推挙するときは我が子でもかまわない、と。



晋の趙武が君主に人を推挙すること四十六人に及んだ。
趙武が死んだとき、その人々は皆弔問客として弔った。
趙武が私恩を売らなかったことは、この通りである。

平公は叔向に問うた。
群臣の中で誰が最も賢人であろうか、と。
叔向は言った。趙武です、と。

平公は言った。
そなたは自分の長官だから贔屓しているのであろう、と。

叔向は言った。
趙武は立ち姿は衣服にも堪えないほど弱々しく、言葉は口から出ないかのように口下手です。
しかし推挙した士は数十人、皆が満足して働いております。
そして朝廷もこの者たちに大変頼っております。
武子が生きておりましたときは、自分の家に利を計らず、死ぬときには残される子のことを人に託しませんでした。
だから私はあえて趙武を賢人だと申したのです、と。



趙の解孤は自分の仇を趙簡主に推挙して宰相にした。
その仇は思った。
推挙してくれただけでなく自分は解孤に許されたのだ、と。
そこで解孤のところへ行って拝礼して感謝した。

すると解孤は弓を引き、追いかけて矢を射て言った。
かのそなたを推挙したのは公事である。
そなたが宰相に相応しいと思ったからである。
かのそなたを仇だとするのは私の私怨である。
私の私怨のために、そなたを我が君に隠したりはしない、と。
ゆえに私怨は公事に持ち込まず、と言うのである。


一説にはこうある。
解孤は邢伯柳を推挙して上党の長官にさせた。
柳が出向いて礼を述べて言った。
あなたは私の罪を許してくださった。
それを再拝の礼を尽くさないわけには参りません、と。

解孤は言った。
そなたを推挙したのは公事のためである。
そなたを怨むのは私事である。
去れ、そなたを怨む気持ちは前と変わらないのだ、と。



鄭県の人が豚を売っていた。
ある人がその価を問うた。
答えて言うには、帰りの道は遠く、日も暮れてきました。
どうしてあなたと話をする暇がありましょうや、と。



六、
晋の范文子は直言することを好んだ。
父の武子がこれを杖で打った。
言うには、直言する者は、人々に受け入れられ難く、受け入れられなければ己の身を危うくし、しかもただ己の身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくなるのだぞ、と。



鄭の子産は子国の子である。
子産は鄭君に忠実であった。

子国はこれを責めて怒って言った。
臣下の中で己だけが特異に君主に忠実である場合、君主が賢明であればそなたの忠言を聴き入れようが、賢明でなければそなたの忠言を聴き入れぬであろう。
聴き入れられるかどうかは、必ずしもまだ分からないのに、そなたはすでに群臣から孤立しようとしている。
群臣から孤立すれば、必ずそなたの身を危うくするだろう。
それはただそなたの身を危うくするだけでなく、またこの父の身までも危うくするだろう、と。



趙の梁車が新たに鄴の長官となった。
その姉が行って会おうとした。
しかし日が暮れて遅くなり、城門が閉じられてしまった。
そこで姉は城壁を乗り越えて入った。
梁車はすぐに足斬りの刑にした。
趙の成侯は梁車を不慈悲だと思い、官印を召し上げて長官の職を罷免した。



斉の管仲が捕縛され、魯から斉に送られた。
道の途中で腹が減り、綺烏の関所の番人のところへ寄って食べ物を乞うた。
番人は跪いて管仲に食事を与え、非常に丁重に対応した。

そして番人はこっそりと管仲に言った。
幸いにも斉に至り、死なずに斉で用いられたなら、私にどのように報いてくださいますか、と。

管仲は言った。
そなたの言う通りになれば、私は賢人を用い、能力のある者を使い、功労を評定するだろう。
私はそなたにどうやって報いようか、と。
番人はこれを聞いて管仲を怨んだ。



テーマ : 中国古典・名言
ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 外儲説 左上

一、
明主の道は、有若が宓子に答えたようなことである。
暗君が人の言説を聴くのに、その弁舌のさわやかなさまを誉め、その行動を観るのに、その高遠なさまを賢いとする。
ゆえに群臣士民みな物を言うのに大きく実用できず、その身は世間から離れている。

その実例は田鳩が楚王に答えた話にある。
また、墨子が木鳶を作り、謳癸が武宮を築いた話もある。
かの薬酒とすべき忠言は明君聖主のみが知っていることなのである。


二、
君主が人の言説を聴くのに、功用によって基準を決めなければ、説者は棘の彫刻の話や白馬の話のような言説が多くなる。
的を定めて弓を射なければ、射る者はみな羿のような名人になる。

君主は言説について、みな燕王が道を学んだ話のようになり、そして人が言説を長く弁じ立てるのは、みな鄭の人が年を争ったようなものである。
これによって言説が繊細で微妙、難解なものは実益のないものである。
ゆえに李、恵、宋、墨の言説はみな絵空事である。

論が深遠広大なものは、実用できないものである。
ゆえに魏、長、詹、陳、荘の言説はみな妖である。

行動しては世に逆らい堅苦しいものは、功とならないものである。
ゆえに務、卞、鮑、介、墨翟の言説はみな堅瓠である。

かつ、虞慶は建築者をやり込めたが屋根を壊し、范且は工芸者を困らせたが弓を折った。
これらのことから、真実を求める者は、家に帰って食うのでなければいけないのである。


三、相手のためにという思いを挟むと、相手を責めたり怨んだりする。
自分のためにという思いでやれば、物事は行われる。
ゆえに父子が怨み罵り合うし、人を雇って働かせる者は美味い汁を与える。

その例は、文公が宣伝した話や、勾践が如皇の台を非難した話がある。
ゆえに桓公は蔡への怒りを抑えて楚を攻め、呉起が傷の治った後の実利を考慮して傷の膿を吸った。

かつ、先王を讃えた詩や鐘や鼎の銘文は、みな潘吾山の足跡や華山の博奕の類である。
しかし先王の期待したものは利であり、用いたものは武力であった。
築社の諺はこの二つの眼目を示したものである。
それなのに学者に意見を許し、でたらめを先王の名を借りて行わせようとするのは、今に合わぬことではないか。

このようなことを改めることができないのは、鄭県の人が車のくびきを拾う話や、衛の人が弋の手伝いをする話や、卜子の妻が破れて袴を作る話や、乙子の妻がすっぽんに水を飲ませた話や、そして少年が年長者を真似た話などがある。

先王の言葉は、その重要ではないことを世の人がこれを重要だと思い、また、その重要であることを世の人がこれを重要ではないと思うこともあり、必ずしもはっきりとわかるものではないのである。

その例は、宋の人が書を読んだ話や、梁の人が記を読んだ話がある。
先王の書が郢の書のように誤って読まれ、後世の人に燕の人の解釈が多く広まる。
国のためにならないのに先王の道を説くのは、みな家に帰って足の寸法を測る類の話である。


四、
利のあるところに民は集まり、名誉のあるところに士は死ぬ。
よって、功績が法に適わず、しかも賞が与えられれば、お上が利とするものを下々より得ることもできなくなる。
名誉が法に適わず、しかも名誉が与えられれば、士はその名誉を求めて、君主のために働かなくなる。

その例は、中章と胥己が官職に就いてからは、中牟の民は田畑を棄て学問に従事する者が邑の半分に及んだ話、平公が脚が痛み足が痺れているのに、脚を崩さなかったので、晋で官職を辞して叔向を慕い身を寄せる者が国の半分に及んだ話がある。
この三人は、言説が法に適っていれば政府の役人として用い、行動が事に適っていれば法令に従う良民である。
しかし二君は礼遇を過剰に行った。

もし言説が法に背き、行動が功に遠いならば、規定外の無益な民である。
二君はどうしてまたこれを礼遇するだろうか。
礼の正当を失ったことになる。

かつ、学問に従事する者は、国が平和な時は労力を用いることなく、戦が起こっても甲を身につけず、礼遇すれば耕戦の士の務めを果たさず、礼遇されねば君主の政治を嘲笑し、国が安泰であればその身は尊ばれて名声は高く、国が危難であれば屈公の如くふるまう。
君主はどうして学者から得られるものがあるだろうか。
ゆえに明主は李疵が中山王を見て述べた説を用いるのである。


五、
詩に言う。君主がみずから行わねば、庶民は信用しないだろう、と。
斉王の師傅はこれを説いて紫の衣を着るのをやめさせ、子産は鄭の簡公に行わせ、宋の襄公は尊い位と強い権勢を持ちながらみずから耕し戦うことを責められた。

そもそも君主がそれぞれの職分を明確にせず、その誠実を責めず、みずから下々のことを行ってみることは、斉公が車を降りて走った話や魏王が法を習いながら眠った話やかの賤しい服を着てその服を上から覆った話がある。

孔丘はこの事情を知らなかったので、君主は盂のようなものだと言った。
鄒君もまた事情を知らなかったので、人々に先だって恥をかいてみせた。
明主の道は、叔向が猟の獲物を分けたように、韓の昭侯が申不害の話を聴かないと言ったようでなければならない。


六、
小さい信義が行われてこそ、大きな信義が成される。
ゆえに明主は信義を積む。

賞罰が必ず行われなければ、禁制や命令は行われなくなる。
その例は、晋の文公が原を攻めた話や、晋の箕鄭が飢饉を救うことについて述べた話がある。

呉起は約束通り故人を待って食事をし、魏の文侯が虞の人と出会って狩をした話がある。

ゆえに明主は信義を示すことは、曾子が豚を殺して料理した話のようなものである。
信義を守らないことの害は、楚の厲王が警鼓を打った話や、李悝が左右の兵を欺いた話がある。


右は経である。



一、
宓子賤が単父を治めていた。
有若が宓子賤に会って言った。
そなたは何とも痩せてしまったなぁ、と。
宓子は言った。
我がご主君は私が不肖であることをご存じなく、単父を治めさせますので、職務が忙しく、気疲れします。ですから痩せたのです、と。
有若は言った。
昔、舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌っていれば、天下は治まった。
今、そなたは単父のような小さな町でも治めるのに難儀している。
天下を治めるとなったら、そなたはいったいどうするのかね、と。
有若は言った。
昔、舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌っていれば、天下は治まった。
今、そなたは単父のような小さな町でも治めるのに難儀している。
天下を治めるとなったら、そなたはいったいどうするのかね、と。

術を心得て統御すれば、その身は廟堂の上に座り、若い娘のような顔色をしていても、政治に害はなく、術を心得ずに統御すれば、その身は疲れ痩せ衰えても、それでもまだ政治に益はないだろう。


楚王が田鳩に言った。
墨子は顕著な学者である。
その身の行いはよいが、その言葉数は多いが雄弁ではないのは何故であろうか、と。
田鳩は言った。
昔、秦伯がその娘を晋の公子に嫁がせたとき、行列を飾り立て、美しい刺繍を施した衣を着た腰元七十人を従えて晋に行かせました。
晋の人々はその腰元の中の妾を大切にして公女を大切にしませんでした。
これでは妾を立派に嫁がせたと言えるのであって、公女を立派に嫁がせたとは言えません。
楚の人で宝玉を鄭へ売る者がおりました。
木蘭の櫃を作って入れ、桂椒の香で香りづけし、真珠を綴ったものをかけ、玫瑰で飾り、翡翠を連ねました。
鄭の人はその櫃を買い、中の宝玉を返しました。
これは立派に櫃を売ったと言えるのであって、立派に宝玉を売ったとは言えません。
今の世の論説を見ますに、皆言葉巧みに飾り立てたものばかりです。
世の君主はその飾られた文ばかりに気を取られ有用かどうかは考えません。
墨子の言説は先王の道を伝え、聖人の言葉を論じ、人々に告げ知らしめるものです。
もしその言葉を巧みにしますと、恐らく人々はその飾られた文に気を取られ、その本質を考えないでしょう。
飾られた文によってその有用性が損なわれてしまいます。
これは楚の人が宝玉を売り、秦伯が娘を嫁がせるのと同じことです。
ですから言葉数は多くても雄弁には致しません。


墨子が木鳶を作ったとき、三年かかって完成したが、飛ばしたところ一日で壊れた。
弟子が言った。
先生の技巧は木で作った鳶を飛ばせてしまうほどです、と。
墨子は言った。
私は車の梶棒を作る者の技巧には及ばない。
八寸か一尺の木材を用いて、ひと朝ほどの時間もかけずに作り、しかも三十石の荷を引き、遠くへ運べるほど力が強く、長い年月保つことができる。
今、私は鳶を作ったが三年もかかって作り、飛ばしたところ一日で壊れたのだ、と。

恵子がこれを聞いて言った。
墨子は技巧というものを心得ている。
梶棒を作ることを技巧であると言い、鳶を作ることを拙いと言ったのだ、と。


宋王が斉を憎しみ争っていたころ、武宮を築いた。
謳い手の癸が音頭をとると、道行く人は足を止めて聴き、築く人も疲れなかった。
王はこれを聞いて、癸を召して賞を賜った。
癸は答えて言った。
私の師の射稽の歌は、私の歌より優れております、と。
王は射稽を召して歌わせた。
すると道行く人は足を止めず、築く人も疲れを感じた。
王は言った。
道行く人は足を止めず、築く人も疲れを感じたのに、その歌が癸よりも勝っているとは思えないが、どうかね、と。
答えて言った。
王は試しにその仕事の成果をお調べください、と。
癸が謳った場合は四板、射稽が謳った場合は八板であり、壁の堅さを突いて調べると、癸の場合は五寸入り、射稽の場合は二寸入った。

良薬は口に苦いけれども、智者は進んでこれを飲む。
身に入って病を癒すことを知っているからである。
忠言は耳に逆らうけれども、明主は聴き入れる。
それによって功があがることを知っているからである。



二、
宋の人で、燕王のために棘の棘の先に雌猿を彫りましょう、と願い出た者がいた。
必ず三月の間、物忌みし、その後にこれをみることができます、と。
そこで燕王は三乗の地を与えてこれを養った。

右御の冶工が王に申した。
私は聞いております。
君主が十日も宴を開かず物忌みを行う、などということはありません。
今、王は長く物忌みを続けて用の無い彫刻を見ることなどできないと分かっていて、三月という期間を設けたのです。
そもそも彫刻の、のみとは、その削る物よりも必ず小さいものなのです。
今、私は鍛冶を生業としておりますが、そのような小さいのみを作ったことはありません。
これは実際にはありもしない物なのです。
王はこのことをよくお考えください、と。
そこで王はその男を捕えて問いただした。
はたして嘘であった。
そこでこの男を殺した。
冶工の者が王に申した。
物事を計るとき、はかりを用いなければ、論客の中には棘先に猿を彫るなどという類の言説が多いのでございます、と。

また一説にはこうある。
燕王は微細な工芸品を好んだ。
衛の人が言った。
私は棘の先に雌猿を彫ることができます、と。
燕王は喜んで、五乗の俸禄を与えてこれを養った。
王は言った。
私は試しに客人が棘の先に雌猿を彫るのを見てみたい、と。
客人は言った。
君主がこれをご覧になろうとすれば、必ず半年後宮に入らず、酒を飲まず肉を食わず、雨があがって日が出たときに、これを暗い方から明るい方へと視るなら、棘の先に雌猿を見ることができます、と。
そこで燕王は衛の人を養ったが、雌猿を見ることはできなかった。

鄭に台下の冶者がいて、燕王に申した。
私はのみを作る者ですが、どのような微小な物も必ずのみを使って削ります。
そして削る物は必ずのみよりも大きいのです。
今、棘の先にのみの刃は入りません。
王は試しに客人ののみをご覧ください。
できるかできないか分かりましょう、と。
王は言った。
よろしい、と。
衛の人に言った。
客人よ、棘の先に雌猿を彫るのに、何を使うのかね、と。
のみを使います、と答えた。
王は言った。
私はそれを見てみたい、と。
客人は言った。
それでは宿舎に行って取って参ります、と。
そしてそのまま逃亡した。


兒説は宋の人で弁説に長けた者である。
白馬は馬にあらず、という持論でもって、斉の稷下の弁説家たちを抑えていた。
しかし、白馬に乗って関所を通ったとき、白馬の税を取られてしまった。

ゆえに空理空論によれば、国中の弁説家に勝つことはできても、実際に調べて検討するなら、ひとりの役人をも欺くことはできないのである。


鋭利な矢じりを更に砥ぎ、弩を引いて射れば、暗闇の中でみだりに放つといえども、その矢先は秋の獣の毛に当たらないこともないだろう。
しかし同じところに再び命中するのでなければ、弓の名人とは言えない。
決められた的がないからである。
五寸の的を設け、十歩離れたところから弓を引けば、羿や逢蒙でなければ、必ず命中するとは限らないのは、決められた的があるからである。
ゆえに定められた法度があると難しく、法度がなければ易しいのである。
羿や逢蒙でも五寸の的に命中させれば功ありとし、決められた的がなければ、でたらめに射て秋の獣の毛に命中させても拙いとするだろう。

ゆえに君主が法度を設けずに応じれば弁説家は盛んに弁じ立て、法度を設けて待てば知者といえどもなお失言を恐れて、妄言を吐かないだろう。
今、君主が言説を聴くさまは、法度をもってこれに応じずに、その弁説を悦び、功績によってこれをはからずに、その行為を誉める。これが君主が長く欺かれる原因であり、弁説家が長く養われる原因である。


客人で、燕王に不死の道の修め方を教える者がいた。
王は人に命じてこれを学ばせた。
学ばさせていた者がまだ学び終わらないうちに客人が死んでしまった。
王は大いに怒って学びに行かせた者を責めた。

王は自分が客人に欺かれていることに気づかず、学びに行かせた者の学び方が遅いからだと言って責めたのである。
このように、ありもしないものを信じて、罪のない臣下を責めるのは、物事をよく考えぬことによる害である。
かつ、人が大切にするものは、自分の身に及ぶものはない。
その自分の身を不死にすることができずの、どうして王の命を長くできたりしようか。


鄭の人で、互いに年を争う者がいた。
そのうちの一人が言った。
私は黄帝の兄と同い年だ、と。
このように言い合って決まらず、あとから休息する者を勝ちとした。


客人で、周君のために、鞭に画をかいた者がいて、三年かかってできあがった。
周君がこれを見てみると、鞭に漆を塗ったものと同じようであった。
周君は大いに怒った。
鞭に画をかいた者が言った。
十板の壁を築き、八尺の窓をくり抜き、日が出始めるときに、鞭を窓にかざしてご覧ください、と。
周君はこれを作って、その鞭を眺めると、鞭の全てに龍や動物、車など万物ができあがって、充分に備わっていた。
周君は大いに悦んだ。

このように鞭に画をかくという仕事は、微細で困難でないわけではない。
しかしその実際の効用はただの漆を塗った鞭と同じである。


客人で、斉王のために画をかく者がいた。
斉王が問うて言った。
画をかくのに何が最も難しいだろうか、と。
客人は答えた。
犬や馬が難しいです、と。
では、何が易しいだろうか、と。
答えた。
化物や魔物が者が最も易しいです、と。

そもそも犬や馬は誰でも知っている。
朝に夕に人々の目にかかっているので、その通りに似せてかくのは難しい。
鬼神は形のないものであり、人々の目にかからないので、かくのが易しいのである。


〔補〕
湯が桀を伐とうとして、卞隨を頼って謀ろうとした。
卞隨は言った。私が応じることではない、と。
湯は言った。
誰が良いか、と。
卞隨は言った。
私には分からない、と。

湯はまた、務光を頼って謀ろうとした。
務光は言った。
私が応じることではない、と。
湯は言った。
誰が良いか、と。
務光は言った。
私には分からない、と。
湯は言った。
伊尹はどうであろうか、と。
務光は言った。
意志が強く屈辱にもよく耐え忍ぶことができる人物だが、私はそれ以外のことは知らない、と。

湯はついに伊尹と謀り、桀を伐ってこれに勝ち、天下を卞隨に譲ろうとした。

卞隨は辞退して言った。
そなたが桀を伐つとき私と事を謀ろうとした。
私に国を奪う賊の心があると思ったのだろう。
そして桀に勝って私に譲ろうとした。
私を貪欲だと思ったのだろう。
私は乱世に生まれて、無道の輩が二度もやって来て、私を汚そうと恥ずべき行いをさせようとした。
私はこのようなことをしばしば聞かされてはかなわぬ、と。
そしてみずから椆水に身を投げて死んだ。

湯はまた、天下を務光に譲ろうとした。
湯は言った。
知者が事を謀り、武者がこれを成し遂げ、仁者がそこに座る、というのは古来より正しい道である。
そなた、どうか立ってくれまいか、と。
務光は辞退して言った。
お上を廃するのは義ではない。
民を殺すのは仁ではない。
人が困難を犯して、私がその利を受ける、というのは廉直ではない。
私はこう聞いている。
義にあらざればその禄を受けず、無道の世ではその土を踏まず、と。
どうして私を尊ぼうというのか。
私は長くこのような目にあうには忍びない、と。
そこで石を背負ってみずから盧水に身を沈めた。

【解説】
この〔補〕の部分は、韓非子には記載の無い部分。先の「経」の所で名前は挙がっているが、例として示されていない。そこで、太田方が韓非子翼毳の中で補った部分である。
この補文は「荘子」譲王編からの引用。
「呂氏春秋」にもほぼ同様の話が見られる。


〔補〕
鮑焦田を耕して食い、井戸を掘って飲んだ。
あるとき山中で棗を食った。
ある人が言った。
この棗はそなたが植えたものか、と。
鮑焦は無理矢理吐き出そうとして、死んでしまった。

【解説】
この〔補〕の部分も前述の通り太田方による補足。この部分もまた韓非子には記載の無い部分。
この補文は「風俗通義」愆礼編からの部分引用。
なお風俗通義は「鮑焦耕田而食,穿井而飲,非妻所織不衣,餓於山中,食棗,或問之,此棗子所種耶,遂嘔吐,立枯而死」と記すが、太田方が引用したのは「鮑焦耕田而食,穿井而飲,於山中食棗,或曰,此棗子所殖耶,(焦)遂強嘔吐而死」である。
これは「芸文類集、巻八十七、果部下、棗」にある記述と一致する。(焦)の字のみ芸文類集の原文に無く、太田方が補ったものと思われる。これは、もともと「芸文類集」が「風俗通義」から引用して記したものと思われ、それを太田方が参照して引用したのだろう。


〔補〕
晋の文公が国に帰った。
しかし介子推には爵禄が与えられなかった。
とうとう去って介山の上に行ってしまった。
文公が介子推を探し求めたが得られず、その介山を焼いた。
しかし介子推は出てこずに焼け死んだ。

【解説】
この〔補〕の部分も前述の通り太田方による補足。この部分もまた韓非子には記載の無い部分。
この補文は「韓非子翼毳」によると「新書」からの引用とあるが、記述が見当たらない。しかし「新序」節士編に同様のエピソードが見られることから、引用書名の間違いか。


斉に居士田仲という者がいた。
宋の人の屈穀がこれに会って言った。
私は聞いております。
先生は義として人を仰いで食うことを当てにしない、と。
今、私は瓠を植える方法を心得ております。
その堅さは石のようで、分厚くて穴は開いていません。
これを献上致しましょう、と。
田仲は言った。
そもそも瓠に価値があるのは、それに物を入れることができるからです。
今、分厚くて穴がないならば、割いて物を入れて運ぶことができず、石のように堅ければ、割いて水を酌むことができない。
私はそのような瓠をもらってもどうにもできません、と。
屈穀は言った。
そうです。私もこれを捨てようと思っていました、と。
今、田仲は人を仰いで食うことを当てにしないが、また田仲は国にとって益なく、石のように堅い瓠と同じようなものである。


虞慶が家を建てた。
匠人に言った。
屋根が高すぎる、と。
匠人は答えた。
これは新築です。
壁は塗りたてで椽は生です。
塗りたての壁は重く、生の椽は重さで撓みます。
撓んだ椽と塗りたての壁の重さで、屋根は低くなります、と。
虞慶は言った。
そうではない。
日が経って久しくなれば、壁は乾燥して椽は乾く。
壁が乾燥すれば軽くなり、椽が乾けばまっすぐになる。
まっすぐな椽と乾燥した壁では、屋根はますます高くなるだろう、と。
匠人は言いくるめられ、言う通りにしたところ、家は壊れた。

また一説にはこうある。
虞慶が家を建てようとした。
匠人が言った。
材木が生で、壁は濡れています。
材木が生ならば撓み、壁が濡れていれば重いのです。
撓む材木で重い壁を支えるので、今は完成したとはいえ、久しくなれば必ず壊れてしまいます、と。
虞慶は言った。
材木が乾けばまっすぐになり、壁が乾けば軽くなる。
今、完成して、壁が乾くのを待って材木が日増しにまっすぐになれば、久しくたっても壊れたりしないのだ、と。
匠人は言いくるめられた。
その通りに作って完成した。
しばらくすると果たして家は壊れた。


范雎が言った。
弓を作るとき、弓が折れるのは、必ず終わりの方であり、始めの方ではない。
そもそも工人が弓を作るのに、檠にかけること三十日、それから弓を踏みつけて弦を張り、一日おいて矢を射てみれば、その始めは慎重で終わりは急激なやり方である。
どうして折れずにいようか。
また、檠にかけること一日、それから弓を踏みつけて弦を張り、三十日おいて矢を射てみれば、その始めは急激で終わりは慎重なやり方である、と。
工人は言いくるめられて、その通りに作ったが、弓は折れた。


范雎や虞慶の言葉は、みな言葉巧みで優れているが、物事の実情に反している。
君主はこういう言葉を悦んで、禁止しない。
これが失敗する理由である。

つまり実際に国を治め兵を強くする効果を考えず、弁説巧みだという評判を良しとする。
これは術を心得た者を退けて、家を壊し、弓を折るような者に任せるやり方である。
ゆえに君主が国政を行うに、工匠が家を建て弓を張る労力には及ばないのである。
そして術を心得た者が范雎や虞慶などに苦しめられるのは、空論は無用であるのに勝ち、実際に効果のある事柄は変わることのない確実なものであるのにやりこまれるためである。

君主は無用の弁説を良しとし、変えることのない実用の言葉を疎かにする。
これが世の乱れる理由である。
今、范雎や虞慶のような者が絶えず、君主はこれを悦ぶことをやめない。
これは家を壊し弓を折るような弁説を貴び、知術を心得た者を工匠のようだとするやり方である。

工匠が正しい技巧を施すことができないから、家は壊れ弓は折れる。
政治のやり方を心得た人が、正しい方法を行うことができないから、国は乱れ君主が危うくなる。

かの幼児たちが共に遊ぶとき、砂を飯とし、泥を汁とし、木片を肉としてままごとをする。
しかし日が暮れたら、必ず家に帰って食事をするのは、砂の飯や泥の汁では、遊ぶことはできても、食うことはできないからである。
かの古代の伝説を述べ立てるのは、流麗で能弁であっても誠実ではなく、先王の仁義の道を説くが、実際に国を正しく治めることができないならば、遊びで行うことはできても、政治を行うことはできないのである。

そもそも仁義を慕って弱くなり乱れた国は三晋である。
慕わずよく治まり強くなったのは秦である。しかも秦は強くても、いまだに帝となれないのは、治め方がまだ充分ではないのである。



三、
人が幼児のとき、父母の養いかたが疎かであると、子は成長してから父母を怨む。
子が成長して成人して、父母への仕えかたが粗末であると、父母は怒って子を責める。
親子は最も親しい間柄であるのに、あるいは責め、あるいは怨むというのは、皆、相手の為にしてやっている、という気持ちを差し挟んで、自分の為にしてくれることが充分ではない、と思うからである。

人を雇って種を蒔いたり耕したりさせるとき、主人は家財を使って食事を美味いものにし、布を吟味して銭にかえて備えるのは、雇っている者を愛するからではないのである。
このようにすれば、深くしっかりと耕し、草抜きをしっかりと抜き取ってくれるだろう、と思うからである。
雇っている者が力を尽くして早く耕し草抜きをし、力を尽くしてしっかりと畝を作り畦を作るのは、主人を愛しているからではないのである。
このようにすれば、汁は美味くなるだろうし、銭や布を支払ってくれるだろう、と思うからである。

主人が労力を出す者を雇っているのは、父が子に恵みを与えるようであり、そして雇われている者が心を周到に行き届かせるのは、皆、自分の為にやっている、という心持ちでいるからである。

故に人が事を行い施し与えるのは、これを己の利益に結びつけようという心持ちでいれば、越の人とでも仲良くなれるし、己の害になるという心持ちでいれば、父子の間柄であっても離反し、かつ怨むことになるだろう。


晋の文公が宋を伐った。
そこでまず宣言した。
私は聞いている。
宋君は無道で、長老たちを侮蔑し、財の分け方が公平でなく、教育や命令が誠実ではない、と。
私は宋へ来て民のために宋君を誅するのである、と。


越王が呉を伐った。
そこでまず宣言した。
私は聞いている。
呉王は如皇の台を築き、深い池を掘り、万民を疲れ苦しませ、財貨を浪費し、民の力を使い尽くした、と。
私は呉へ来て民のために呉王を誅するのである、と。


蔡の公女は斉の桓公の夫人であった。
桓公は夫人と舟遊びをした。
夫人は舟を揺さぶった。
桓公は大いに恐れて止めさせようとしたが、止めなかった。
桓公は怒って夫人を蔡へ返した。
そして再び夫人を召し戻そうとした。
しかし蔡は公女を再び他家へ嫁がせてしまっていた。

桓公は大いに怒り、蔡を伐とうとした。
管仲が諫めて言った。
夫婦の私的な遊びごとでの揉め事で他国を伐つわけにはいきません。
大功を望むことなどできなくなりましょう。
どうかこのことで事を計るのはおやめください、と。
しかし桓公は聴き入れない。

管仲はさらに言った。
どうしても止めることができないと仰るのなら、楚が菁茅を天子に献上せぬこと三年になりますから、ご主君は挙兵して天子のために楚を伐つということになさいませ。
楚が服従しましたら、引き返して蔡を襲って、こう申すのです。
私は天子のために楚を伐った。
しかし蔡は兵を出してこれに従わなかった。
よって蔡を滅ぼそうぞ、と。
このようにすれば、大義名分を得て実利も得られましょう、と。

つまり、必ず天子の為に誅すると言いながらも、その実は仇をうつという実利を狙ったものなのである。


呉起が魏の将軍として中山を攻めた。
軍人の中に腫れ物を病んだ者がいた。
呉起は跪いて、みずからその膿を吸い出した。
するとその病人の母が立って泣いた。
人が問うた。
将軍はあなたの子にこれほど良くしてくれているのに、なぜ泣くのかね、と。
母が答えて言った。
呉起将軍は、あの子の父のできものを吸ってくださったために、父は死にました。
今またこの子も死んでしまうことになるでしょう。
だから私は泣くのです、と。


趙の主父は工人に命じて、鉤梯を使って潘吾の山によじ登らせ、大きな足跡を山頂に刻ませた。
幅三尺、長さ五尺とし、こう刻みつけた。
主父はかつてここに遊んだ、と。


秦の昭王は工人に命じて、鉤梯を使って華山に登らせ、松柏の木の芯を使って長さ八尺の博箭と、八寸の棊を作らせ、こう刻みつけた。
昭王はかつて天神とここですごろくをした、と。


晋の文公国に帰ろうとしていた。
黄河に至り、命じた。
これまで使っていた竹や木の食器を捨てよ、むしろや藁の敷物は捨てよ、手足が荒れた者や、日焼けして顔の黒い者は後ろに回れ、と。
咎犯はこれを聞いて、夜、声をあげて泣いた。
文公は言った。
私は亡命して二十年、今ようやく国に帰ることができる。
咎犯はこれを聞いて、喜ばずに声をあげて泣いた。
私が国に帰ることを望まないのかね、と。
咎犯は答えた。
竹や木の食器は食うためのものであり、むしろや藁の敷物は寝るためのものですが、ご主君はこれを捨てました。
手足が荒れ、顔が日焼けして黒くなったのは、苦労して功績をあげた者ですが、ご主君はこれを後ろに回しました。
今、私も後ろに並ぶ者の中におります。
私はその哀しみに耐えられず、声をあげて泣いておるのです。
かつ私はご主君のために幾度となく偽りの計略を用い、国に帰らせようと致しました。
私でさえ自分を嫌悪します。
ご主君におかれましては尚更のことでしょう、と。
再拝して去ろうとした。
文公はこれを引き止めて言った。
諺に言う、社を築くには、労働のための服装で、祀るときは礼服で行う、と。
今、そなたは私と晋を取りながら、私と共に晋を治めず、私と晋の社稷を築きながら、私と共に祀らない。
どうしてそんなことができようか、と。
左の副馬をはずして供物として黄河に捧げて盟った。


鄭県の卜子が妻に袴を作らせようとした。
妻が問うた。
今度の袴はどのように作りましょうか、と。
夫は言った。
私の古い袴と同じように作ってくれ、と。
そこで妻は新しい布を破って古い袴の通りに作った。


鄭県の人で車の軛を拾った者がいた。
しかしその名前を知らなかった。
人に問うた。
これは何というものかね、と。
答えて言った。
これは車の軛だ、と。

そしてまたすぐに軛を拾って人に問うた。
これは何というものかね、と。
答えて言った。
これは車の軛だ、と。

問うたこの男は大いに怒って言った。
さっきは車の軛だと言い、今また車の軛と言った。
この軛というものはそんなに多くあるのかね。
そなたは私を騙そうとしているのだろう、と。
とうとう二人は喧嘩を始めた。


衛の人で佐弋の職に就いている者がいた。
鳥が飛んできた。
そこでまず棬を持って鳥をさしまねいた。
鳥は驚いて逃げて射ることができなかった。


鄭県の人、乙子の妻が市へ行ってすっぽんを買って帰った。
潁水のそばを通りかかったとき、すっぽんも喉が渇いているだろうと思い、川に放して水を飲ませた。
そのまますっぽんに逃げられてしまった。


年少者が年長者に侍して酒を飲むとき、まず年長者が飲んだら自分も飲むものである。
ある話では、魯の人で我が身を善く修める者がいた。
年長者が酒を飲んで、飲みきれずに吐き出したのを見て、自分もそれに倣って酒を吐き出した。

また一説にはこうある。
宋の人で年少者がいた。
他の人の善行を見習おうとして、年長者が酒を残さず飲み干したのを見て、自分はそれほどの酒を飲むのに堪えることができないのに、飲み尽くそうとした。


古の書にこうある。
之を紳し、之を束す、と。
宋の人でこの書を修める者がいた。
そこで自分で紳という帯と束という帯を二重にして身につけた。
人が問うた。
それは何というものですか、と。
答えて言うには、古の書でこう言っており、もともとこうするものなのです、と。


古の書にこうある。
既に雕し、既に琢し、その樸に還帰す、と。
梁の人でこの書を修める者がいた。
動作ひとつひとつに学問を持ち出し、行動するのにも古の文句を引用した。
この者が言うには、これを彫り磨けば、かえって真実を見失ってしまうものだ、と。
人が問うた。
それはどういうことですか、と。
答えて言うには、古の書でこう言っており、もともとこうするものなのです、と。


郢の人で、燕の宰相に手紙を送った者がいた。
夜に書いたので、灯りが暗く、そこで燭台を持っていた者に言った。
燭台をもっと挙げなさい、と。
そして誤って、燭を挙げよ、と書いた。
燭を挙げよ、とは、手紙に書きたかったことではなかったのである。

燕の宰相は手紙を受け取り読み解いて言った。
燭を挙げよ、とは、賢明を高くすることである。
賢明を高くせよ、とは、賢者を挙げて職に任ずることである、と。
燕の宰相は、燕王に申し上げた。
王は大いに悦び、国はよく治まった。
治まるには治まったが、手紙の真意ではなかった。

今、世の学者は、この誤解と同じようなことをやっているのである。


鄭の人で履を買いに行こうとする者がいた。
まず自分で足の大きさを計り、その寸法書を座席に置き、市へ出かけるときになって、持っていくのを忘れた。
市で履屋を見つけたあとで言った。
私は寸法書を忘れてきた、と。
家に引き返して寸法書を取ってきたが、戻ってみると市はもう終わっており、とうとう履を買いそこなった。
人が言った。
どうして自分のその足で試し履きしなかったのかね、と。
答えて言った。
むしろ寸法書は信用できるが、自分の足のことなど信用できないからだ、と。



四、
趙の王登が中牟の長官であったとき、趙襄主に上申した。
中牟に中章と胥已という士がおります。
その身の修養は甚だよく、その学問は甚だ博いのです。
ご主君はどうかこれらを用いなさいませ、と。
襄主は言った。
そなた、ふたりを目通しさせよ。
中大夫に取り立てようぞ、と。

襄主の相室が諫めて言った。
中大夫は晋の重職でございます。
今まだ功績も無いのにその職を受けるのは、晋の群臣の望むところではありません。
ご主君は耳で聞いただけで、まだ目でご覧になってはいないでしょう、と。
襄主は言った。
私が登を任用するとき、耳で聞き、目でも見た。
その登が任用して欲しいという者を、私がまた耳で聞いて目で見るというのでは、人を耳で聞いて目で見るというやり方がずっと終わらないではないか、と。

王登は一日のうちにふたりを襄主に見えさせ、襄主はふたりに田地と邸宅を与えた。
そこで中牟の人びとは田畑を耕すのをやめ、その家や田畑を売って、学問を生業にしようとする者が、邑の半分にのぼった。


叔向が晋の平公のそばに坐し、国事を奏上した。
平公はふくらはぎが痛み、足は痺れ、足がつっても、堪えて正座を崩さなかった。
晋国の人びとはこれを聞き、皆が言った。
叔向は賢者である。
だから平公は礼儀を正し、足がつっても堪えて正座を崩さなかったのだ、と。
晋国ではその官職を辞して、叔向を慕って集まる者が、国の半分にも及んだ。


鄭県の人で屈公という者がいた。
戦場で敵だと聞くと恐れて死に、敵が去って恐怖が去ると生き返った。


趙の主父が李疵に中山を攻めるべきかどうかを偵察させた。
帰ってきて報告して言うには、中山をお伐ちください。
ご主君が速やかにお伐ちにならねば、斉や燕に遅れをとりますぞ、と。
主父は言った。
なぜ攻めるべきなのかね、と。
李疵は答えて言った。
中山の君は巌穴の士を好み、会うと車の蓋を傾け共に車に乗り、貧しい里や狭い巷に隠れ住む隠士に会いに行くこと数十を数え、無官の士に対等の礼をとること数百を数えます、と。

主父は言った。
そなたの言葉を聞く限り、中山の君は賢人である。どうして攻めることができようか、と。
李疵は答えた。
そうではありません。
もし好んで巌穴の士を用いて参朝させれば、戦士たちは行軍を怠るでしょう。
上は学者を尊び、下は処士を参朝させるならば兵は弱く、農夫が耕作を怠るならば国は貧しくなります。
兵は敵に対して弱く、国の内部は貧しいというのに、亡びなかった国など、未だありません。
これを伐たずにおれましょうか、と。
主父は言った。よろしい、と。
兵を挙げて中山を伐ち、ついに滅ぼした。



五、
斉の桓公が紫の服を好んだので、斉の国中みながことごとく紫の服を着た。
この時に当たっては、白地が五に対して紫の地一を得がたいほどであった。

桓公はこれを患い、管仲に言った。
私は紫の服を好んだので、紫の生地の値がはなはだしく高騰しており、国中の民がみな、紫の服を着ることを好んでやめない。
私はどうすればいいだろうか、と。
管仲は言った。
ご主君、どうぞ試しに紫の服を着るのをおやめなさいませ。
そして左右の臣にこう言うのです。
私ははなはだ紫の服の染料の臭いが嫌いだ、と。
ここで左右の臣でたまたま紫の服を着て進み出る者がおりましたら、必ずこう言うのです。
少し下がりなさい。
私は紫の染料の臭いが嫌いなのだ、と。
桓公は言った。
わかった、と。

するとその日のうちに、左右の臣で紫の服を着る者はいなくなり、三日のうちに国中に紫の服を着る者がいなくなった。

また一説にはこうだ。
斉王が紫の服を着ることを好んだので、斉の人は皆紫の服を好んで着た。
斉の国では、白地が五に対して紫の地一を得がたいほどであった。
斉王はこれを患いた。

傅が王に言った。
詩にこうあります。
みずから行わなければ、庶民は信じないだろう、と。
今、王が、民に紫の服を着る者がいないことをお望みならば、王はどうかみずから紫の服を脱いで朝廷においでください。
群臣で紫の服を着て進み出る者がおりましたら、近寄ってはならぬ、私はその臭いが嫌いだ、と仰いなさいませ、と。

その日のうちに近臣で紫の服を着る者はいなくなり、その月のうちに都中に紫の服を着る者がいなくなり、その年のうちに国中に紫の服を着る者がいなくなった。


鄭の簡公が子産に言った。
国が小さくて楚と晋の間に挟まれており、今、城郭は整っておらず、武器や鎧は充分備わっておらず、急なことへの備えができていない、と。
子産が言った。
私は外国の圧迫をすでに遠く閉じ込め、国内の守りはすでに固く、小国といえども危うくはございません。
ご主君はご心配なさりませんよう、と。こうして簡公はその身を終えるまで禍は起きなかった。

一説にはこうだ。
子産は鄭の宰相である。
簡公は子産に言った。
酒を飲んでも楽しむことができず、祭祀の供物を豊かにできず、鐘鼓竽瑟の美しい音色も聴くことができない、というのは、私の務めが果たされていないからだ。
国家の礎が定まらず、万民が安心せず、耕作に励まず戦争に勇敢でなく仲間同士が親睦しない、というのは、また私の罪である。そなたに職責があり、私にも職責がある。それぞれがその職責を守ろうぞ、と。

子産は退出して政治をなすこと五年、国に盗賊はいなくなり、道に落ちているものを拾う者はおらず、桃や棗が実って街路を塞ぐほどであっても、取る者はなく、錐刀を道に落とし、三日経って戻ってもそこにあり、三年不作が続いても民に飢える者はいなかった。


宋の襄公が楚の人と涿谷のほとりで戦った。
宋の人はすでに隊列を終えたが、楚の人はまだ川を渡っていなかった。
右司馬の購彊が走り寄って諫めて言った。
楚の兵は多く、宋の兵は少ないのです。
どうか楚の兵を半ば渡らせ、まだ隊列が整わぬうちにこれをお撃ちください。
そうすれば必ず破ることができましょう、と。
襄公は言った。
私はこう聞いている。
君子は傷を負った敵を再び傷つけず、白髪まじりの老兵を捕虜にせず、敵を危険な所へ推さず、敵を隘路で襲わず、敵の隊列が整わぬうちに太鼓を打って攻め寄せないものだ、と。
今、楚の兵はまだ渡り終えておらぬのに、これを撃てば、義を害するであろう。
楚の兵をみな渡らせて陣を布かせてから、太鼓を打って軍を進めることにする、と。
右司馬は言った。
ご主君、それでは宋の民を愛せず、身の安全を計らずに、ただ義を行うだけとなります、と。
襄公は言った。
隊列に戻らねば、軍法に照らして処罰するぞ、と。
右司馬は隊列に戻った。

楚の軍は隊列を整え陣を布き終えた。
襄公はそこで太鼓を打った。
宋の軍は大敗し、襄公は股に傷を受け、三日の後に死んだ。

これは、君主がみずから仁義を行うことを好んだことによる禍である。
もし必ず君主がその身をもって行い、その後に民が従うだろうと期待するなら、これは君主が自分で耕作して食料を作り、自分が兵たちと並んで戦い、それによって民が耕作し戦に出ようと承服させることである。
これでは君主の身は甚だ危うく、臣民は甚だ楽ではないか。


斉の景公が少海で遊んだ。
早馬が都から来て拝謁して言った。
嬰の病が重く、死が迫っております。
恐らく景公は間に合わないでしょう、と。
景公はすぐに起った。
早馬がまた到着した。
景公は言った。
すぐに煩且の馬車に乗り、騶子韓樞に御させよ、と。

行くこと数百歩、騶では遅いと言い、轡を奪って騶子に代わって御した。
数百歩ばかり進んだところで、馬はなかなか進まないと言い、車を捨てて走った。
煩且という名馬の速さと騶子韓樞の巧さを用いているのに、景公は、降りて走った方が速いと思ったのである。


魏の昭王が官吏の仕事を自分でやってみたいと思い孟嘗君に言った。
私は官吏の仕事をやってみたい、と。
孟嘗君は言った。
王が官吏の仕事をやってみたいとお思いなら、まずは法律について読み習いなさいませ、と。

昭王は、法律の書を読むこと十余り、横になって眠ってしまった。
昭王は言った。
私はこの法律の書を読み通すことはできぬ、と。

昭王は政治の要諦をのみ、みずから握っておらずに、臣下がなすべき仕事を自分でやろうと思ったのである。
眠くなることもまた当然であろう。


孔子は言った。
君主たるもの、盆のようであり、民は水のようなものである。
盆が四角ならば水も四角に、盆が円形ならば水も円形になるのである、と。


鄒君が冠の纓の長いものを好んで身につけた。
左右の近臣はみなこれに倣ったので、長い纓の値が甚だ高くなった。
鄒君がこれを憂い、左右に問うた。
左右の近臣が言った。
ご主君が好んで身につけますと、民もまた身につける者は多くなり、値が高騰したのです、と。

そこで鄒君はまず自分でその纓を短く切って朝廷に出た。
すると国中みなが長い纓を身につけなくなった。

君主が命令を下して民の服装の規則を設け、これを禁ずる、といったことができずに、纓を短く切って朝廷に出て、民に手本を示す、というのでは、まず自分自身を罰して民を戒める、というものである。


晋の叔向が猟で獲った獲物を分けるとき、功績の多かった者が多く受け、功績の少なかった者は少なく受ける、というようにした。


韓の昭侯が申子に言った。
法による政治は甚だ行い難いのだな、と。
申子は言った。
法による政治は、功績を見て賞を与え、能力によって官職を授けるものなのです。
今、ご主君は法を設けているのに、左右の近臣の願いを聴き入れなさる。
これが行い難い原因なのです、と。
昭侯は言った。
私は今からは法を確かに行うことにする。
私は近臣の願いなど聴かぬぞ、と。

ある日、申子は、その従兄を官職に任じて欲しいと請願した。
昭侯は言った。
そなたに学んだことではないな。
そなたの申し出を聴いて、そなたの言う道に背くか、そなたの申し出を聴き入れずにおこうか、と。
申子は、宿舎を出て罪に服することを請うた。



六、
晋の文公が原を攻めようとした。
十日分の糧秣を包ませ、将兵らに十日という期日を約束して、原に到着した。
十日経っても原は落ちなかった。
文公は金を打ち鳴らせて退却させ、戦いをやめて去った。

兵士が原の城内から出てきて言った。
原はあと三日で落ちるでしょう、と。

左右の群臣が諫めて言った。
原は食糧が尽き力も尽きました。
ご主君、もうしばらくお待ちください、と。
文公は言った。
私は将士と十日という期日を約束した。
ここで退かねば私は信義を失ってしまう。
原を得て信義を失うようなことは、私は行わない、と。
そして兵を退き去った。

原の人はこれを聞いて言った。
君主であのような信義の方がおられるのだ、帰順しようではないか、と。
そこで文公に降った。

衛の人がこれを聞いて言った。
君主であのような信義の方がおられるのだ、帰順しようではないか、と。
そこで文公に降った。

孔子がこの話を聞いて、記して言った。
原を攻めて、衛をも得たというのは、信義の力によるものである、と。


晋の文公が箕鄭に問うた。
民の餓えを救うにはどうすればよいか、と。
答えて言った。
それは信義を守ることでございます、と。
文公は言った。
何に対して信義を守るのか、と。
箕鄭は答えた。
名に対して信義を守れば、群臣は職分を守り、貴賤の分別を踰えず、万事怠りません。
仕事に対して信義を守れば、天の時を失わず、民は身分を踰えません。
道義に対して信義を守れば、君主の近親者は励み、遠い者も帰順致しましょう、と。


呉起が外出して昔なじみに会った。
これを引き止めて、家で一緒に食事をしようとした。
昔なじみが言うには、わかった。
今はまず君だけ帰って待っていてくれ、と。
呉起は言った。
君が来てから食事をしよう、と。

昔なじみは日が暮れても来ない。
呉起は食事をせずに待った。
翌日早くに人をやって昔なじみを探させた。
昔なじみがやってきて、はじめて一緒に食事をとった。


魏の文侯が虞人と猟の日取りを決めた。
約束の日、風が強かったので左右の近臣が行くのを止めた。
文侯は聴き入れずに言った。
だめだ。風が強いからといって約束を破るようなことは、私はしないのだ、と。

そのまま自分で馬車を駆り、風に逆らって狩場へ行き、虞人を休ませた。


曾子の妻が市に出かけた。
子が妻について行き泣いた。
母は言った。
あなたは先に帰りなさい。帰ればあなたのために豚を料理してあげる、と。

そして市に行って帰ってきた。
すると曾子が豚を捕まえて殺そうとした。
妻はこれを止めて言った。
ただ子供を騙しただけです、と。
曾子は言った。
子供を騙したりしてはいけない。
子供はまだ知恵があるわけではない。
父母を見て学んでいくのだ。
父母の教えを聴くのであり、今、そなたが子供を欺くなら、子供に欺くことを教えることになる。
母が子を欺いて、母を信じなくなっては、教えるということにならないのだよ、と。
そのまま豚を煮て料理した。


楚の厲王は、警戒すべきときは太鼓を打って民に防備をさせた。

あるとき酒を飲んで酔い、誤って太鼓を打った。
民は大いに驚いた。
王は人に命じて止めさせて言った。
私は酔って左右の近臣と戯れ、誤って太鼓を打ってしまったのだ、と。
民は皆、防備を解いた。

それから数か月、警戒すべき事態が起きた。
太鼓を打ったが民は防備に赴かない。
そこで命令を改め、号令をはっきりと定めなおして、ようやく民はこれを信じた。


魏の李悝が左右の軍門の守衛を戒めて言った。
しっかりと警戒せよ。
敵が日暮れから明朝のうちにやってきて、そなたらを撃とうと攻めてくるだろう、と。

このような戒めが再三繰り返しされたが、敵はやってこない。
すると左右の軍門の守衛は警戒を怠り、李悝を信用しなくなった。

そのまま数か月が過ぎたころ、秦軍がやって来て襲い、魏軍はほとんど壊滅しそうになった。
これは信頼を失ったことによる害である。

一説にはこうある。
魏の李悝が秦軍と戦おうとした。
左の軍門の守衛に言った。
速やかに城壁に登れ。
右の軍門の守衛はすでに登ってしまったぞ、と。
また、馬を馳せて右の軍門の守衛のところへ行き言った。
左の軍門の守衛はすでに登ってしまったぞ、と。
左右の軍門の守衛は、そのために争って登った。

その翌年、秦軍と戦った。
秦軍が襲いかかり、魏軍のほとんどが壊滅しそうになった。
これは信頼を失ったことによる害である。


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ジャンル : 学問・文化・芸術

韓非子 存韓

韓が秦に仕えること三十余年でございます。
外に出ては秦の盾となり、内にあっては秦の筵となりました。
秦が特に精鋭をさしむけ、韓の地を奪って従わせようとしましたが、怨みは天下に広がり、その功利は趙に帰したのでございます。
また、韓が秦に貢物を納めるのは、秦の群や県と何ら変わりません。

今、私がひそかに大臣がたの企てを聞きましたところ、兵を挙げて今にも韓を伐とうとしているのだとか。
かの趙氏が士卒を集め、合縦の論客を養い、天下中から兵を集めようとし、秦を弱まられなければ諸侯は必ず宗廟を滅ぼされるのだということを明らかにし、西面してその意志を決行しようとしておりますのは、一日で考えたような計略ではありません。
今、趙の禍を解き、国内の臣ともいうべき韓を取り払うならば、天下は趙氏の計画を明察だと認めるでしょう。

そもそも韓は小国でございます。
それで天下四方の攻撃に応戦するのです。
ゆえに君主は辱められ臣下は苦しみ、上下ともに久しく憂いているのでございます。
韓は守備を固め、強敵に警戒し、備蓄し、城と堀を設けて、固く守っております。
今、韓を伐とうとしても、一年程度では滅ぼすことはできないでしょう。
一城を抜いては退く、ということでは秦の権威は天下に軽んじられ、天下の兵が秦を砕きに参りましょう。

韓が秦に背きますと、魏がこれに呼応し、趙は斉に近づいて対秦への中心となるでしょう。
こうなれば韓と魏で趙を援け、斉の力を強めさせ、合縦の策を堅固にして、共に力を争うでしょう。
趙にとっては福であり、秦にとっては禍です。
そうなれば進んで趙を撃っても取ることができず、退いて韓を攻めても抜くことができないなら、精兵も野戦に疲れ、輸送兵の軍は攻城戦に疲れましょう。
すると秦に苦しめ弱められている諸侯を合わせて二万乗を敵にすることになり、韓を亡ぼそうというところではありません。

もし大臣がたの企てが行われますと、秦は必ず天下の兵の標的となるでしょう。
大王が金石と同じくらいの寿命をお持ちであっても、天下を併合なさる日はいまだ訪れぬでございましょう。

今、私ごときの愚計と申しますのは、人を楚に使いさせ、楚の担当大臣に厚く贈り物をして、趙が楚を欺こうとしている理由を明らかにし、魏に人質を差し出し安心させ、韓を味方に引き入れて趙を伐てば、趙が斉と連合するとしても心配には及ばず、趙と斉の二国が片付けば、他の諸侯へは書を送るだけで定まるでしょう。
これによって一挙に二国を亡ぼす形勢にして、楚と魏もまた必ず自然と服従するでしょう。

だからこう言うのです。
兵は凶器なり、と。
よくわきまえて用いねばなりませぬ。

思いますに、秦は趙と張り合って敵対しているところに斉をも敵に加えて、今また韓が背こうとしているのに、まだ楚と魏の心を固めてもおりません。
ゆえに一戦して勝たなければ、禍が生じましょう。

計画は物事を安定させるためのものですから、よくよく考えねばなりませぬ。
秦の強弱を決定づけるのは今年中だけなのです。
また趙が諸侯と陰謀を巡らせて久しいのです。
ひとつの動きで諸侯に弱められてしまうのは危険であり、計画を行って諸侯が秦を邪推するようでは至って危険です。
これらふたつの失敗を示すのは、諸侯に秦の強さを認めさせる方法ではありません。

私は秘かに願います。
陛下が幸いにもこのことを熟慮されますことを。
この攻伐のことは合縦の論客に知られてしまうと、もはや悔いることすらできないでしょう。



韓から呼び寄せました使者が奉りました、韓を亡ぼすべきではない、と述べた上奏文を私に下げ渡しなさいました。
私は決してそうではないと考えます。

秦が韓を有しているというのは、人が腹や胸に病気を有しているようなものでございます。
そこに座っておるだけで苦しく、湿地にいて、座ってそこにじっとしているときのようであり、速く走るようなことがあれば発作が起きるでしょう。
韓は秦に臣従しているとはいえ、必ずや秦にとって病となるのです。
今もし不測の事態が起これば、韓など信じることはできません。

秦は趙と争って、臣下の荆蘇が斉へ使者に立ちましたが、いまだどうなるかはわかりません。
私がこれを見ますに、斉と趙の仲は必ずしも荆蘇によって絶たれることはないでしょう。
もし絶たれないとしますと、秦は兵をことごとく出し尽くして、二万乗の敵と応戦することになりましょう。

そもそも韓は秦の義に服従しているのではなく、秦の強さに服従しているのです。
今、斉と趙に専念するようになれば、韓は必ず腹や胸の病となって起こるでしょう。
韓が楚と謀って、諸侯がこれに応じたなら、秦は必ずまた崤塞の失敗と同じ目に合うでしょう。

韓非が参りましたのは、大きな目的は必ず韓を存続させることによって、韓で自分が重んじられようとしていることでございます。
説を弁じたて言葉を並べて、自分を飾り、欺くように謀って、秦から利をせしめ、韓の利のために陛下のお心を探っているのです。
秦と韓の仲が親しくなると、韓非は重んじられるのです。
これは韓非が自身の都合のために行う計略なのでございます。
私が韓非の文章を見ますに、邪説の弁才に長けております。
私は恐れております。
陛下が韓非の弁に動かされてその邪心を聴き入れ、事情を詳しくお察しにならないのではないか、と。

今、私の愚かな進言を論じますに、秦は兵を出して、まだ伐つ相手の名を明かさずにおけば、韓の政治に携わる者は、秦に降って仕えるのが良策だと考えるでしょう。
私、斯が願い出て韓へ行き、韓王に会い、秦へ連れてきて拝謁させましょう。
大王はお会いになりましたら、韓王の身を幽閉し、韓へ返してはなりませぬ。
しばらくした後、韓の重臣を召し出して、韓の人と取引を行えば、韓に大きく領地を割譲させることができるでしょう。
そして蒙武に命じて東郡の兵を出し、国境を伺わせ、しかも攻める相手の名を明かさなければ、斉の人は恐れて荆蘇の計略に従うでしょう。
これで我が兵は交戦せずして強い韓は威力でおさえ、強い斉は道理で従わせることができるのです。
これが諸侯に聞こえますと、趙は肝を潰し、楚の人は疑って、必ず秦に都合の良い策を立てるでしょう。
楚の人が動かなければ、魏は心配には及びません。
そうなれば、諸侯をひとつずつ潰してゆき、趙と一対一で戦うことができるでしょう。
願わくば陛下は幸いにもこの愚臣の計略をお考えになり、よくよくおろそかになさいませぬように。



秦は李斯を韓に使いさせた。
李斯は韓へ行って韓王へ進言しようとしたが、まだすぐには会うことができなかった。
そこで書を奉って言った。



昔、秦と韓は力を合わせて心をひとつにして、互いに侵さなかったころは、天下に敢えて秦と韓を攻める者はなく、このような状態が数世続きました。
先年、五諸侯が共に韓を伐ったとき、秦は兵を出して韓を救いました。

韓が中国にあるさまは、土地は千里にも満たないのに諸侯として天下に位を持ち、君臣共に富を保ってきた理由は、韓の人々が代々教えて秦に従うようにしてきたからでございます。

先時、五諸侯が共に秦を伐ったとき、韓は反して諸侯に加わり、先鋒をつとめて雁行の陣を構えて秦軍を函谷関で迎え撃ちました。
しかし諸侯は、兵は苦戦し力は尽き、どうすることもできなくなって、諸侯の兵は引き下がりました。
杜倉が秦で宰相となり、兵を起こして将軍を任じ、天下の諸侯から攻められた怨みに報いようとして、まず楚を攻めました。
楚の令尹は憂いて言いました。
韓は秦のやり方を不義であると言いながら、秦と兄弟となって共に天下の諸侯を苦しめ、また、秦に背いて先鋒となって雁行の陣を構え、函谷関を攻めました。
韓は中国に諸侯として居ながら、いつその身を翻すかわかるものではない、と。
天下の諸侯は共に韓の上等の土地、十城を割譲して陳謝したので、秦はその兵を解いたのでした。

韓はかつて一度秦に背き、秦軍が国都に迫り、領地は侵され、兵力が弱ったまま今に至っております。
こうなりました理由は、姦臣の浅い説を聴き入れ、実情を確かめなかったためでございます。
姦臣を死罪にしたとしても、韓を再び強国にすることはできないのです。

今、趙は兵士を集めて秦と事を構えようとして、使者を韓にやって韓の国内の道を借りさせ、秦を伐ちたいと申しております。
その自然の勢として、必ず韓を先に亡ぼし秦を亡ぼそうとするでしょう。

私はこう聞いております。
脣亡びて歯寒し、と。

そもそも秦と韓とは憂いを同じくせざるを得ないのです。
その形勢をご覧ください。

魏が兵を出して韓を攻めようとしたときも、秦は人を使って韓に使者を送りました。
今、秦王は私、李斯を来させましたのに、韓王にお目にかかることもできません。
恐らくは左右の臣が昔の姦臣の計略を受け継いで、韓を再び地を失う禍をなそうとしているのでございます。

私、李斯が韓王にお目見えすることができないならば、願い出て秦へ帰らせていただき、秦王へご報告致します。
秦と韓の国交は必ず絶たれましょう。
私が使者に来ましたのは、秦王の好意をお伝えし、便宜を図ろうと願ってのことでございます。
どうして陛下は私を歓迎せぬのでしょう。

私、李斯が願いますのは、ひとたび御前に謁見する機会をいただき、進んで私の愚計を申し上げ、退いてお裁きをお受けしたいのでございます。
願わくば陛下によくお考えいただけることを。

今、私を韓で殺したとしても、大王のお力が強くなるわけではございません。
もし私の計をお聴き届けにならなければ、禍が必ず起こるでしょう。
秦が兵を出して行軍を止めなければ、韓の社稷は危ういのです。

私、李斯は、この身が韓の市場にさらされてしまえば、私のこの誠実な愚計をお考えになっても、どうすることもできません。
辺境は失われ、国都を守らねばならなくなり、太鼓や鐸鈴の音が迫ってから、私の計略を用いようとしましてももはや遅うございます。

そもそも韓の兵の天下の諸侯の間でどの程度であるかは、世に知られております。
それなのに今また強国秦に背こうとなさいます。

もし城を出て軍が敗れるようなことになれば、側近に裏切りが起こり、城を乗っ取られましょう。
城をことごとく乗っ取られてしまったなら、国の貯えは奪い去られるでしょう。
国の貯えが奪い去られたなら軍は維持できなくなるでしょう。

また、城を固く守るようなときは、秦は必ず兵を出して、王の都を取り囲むでしょう。
道はどこにも通じないですから、裏切りが必ず謀られ、その流れはもはや止めることができないでしょう。

左右の謀臣が無能だからです。
願わくば陛下におかれましてはこれを熟慮ください。

もし私、李斯の申すことに事実と合わないところがあれば、願わくば、大王は幸いにも御前に出て説明致す機会をいただきたいのです。
その上で、官吏に命じて誅殺されても遅くはございますまい。

秦王は飲食するも味わうことができず、物を見聞きしても楽しめずにおります。
思いはもっぱら趙のことを計ることでいっぱいです。
私を使わし、申させたのでございます。
願わくば、お目見えする機会をいただき、すみやかに陛下とご相談できますよう。

今、使者がお目通りできなければ、韓を信頼できるかどうか、わかりません。
秦は必ず趙の憂いを置いてでも、兵を韓に差し向けましょう。
願わくば陛下、幸いにもまたこれをお考えになり、私に確かなご返答を賜りますよう。


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プロフィール

韓非子 集中講義 石川 武志

Author:韓非子 集中講義 石川 武志
東洋大学中国哲学文学科に学ぶ。中国学を志して、およそ20年。
専門は韓非子を中心に、古代中国における諸子百家の思想、哲学。
春秋戦国時代の法家、韓非子の翻訳、研究と解説。
韓非子集中講義主宰。

儒学者、近藤篤山の研究。

通背拳の伝承、指導。

愛媛論語教室 準備中!
第二十四号 論語指導士
(論語教育普及機構認定)
http://p-kies.net/rongo/#r1/

カテゴリ
中国武術 教室案内
中国伝統武術
功賀武術会 中四国支部

《個別指導》
・祁氏五行通背拳小架式
 (瀋陽・鄭剣鋒伝)
・白猿通背拳
 (北京・張貴増伝)
・気功 八段錦
・武術基本功
・基礎鍛練の一環として
八極小架、劈掛一路なども学ぶ

費用
入会金 5,000円
月謝 一般男性 4,000円
   一般女性 3,000円
   中高生  2,000円

稽古日時

場所


《出張指導》
 (学校や地域のサークル活動など、出張指導も致します)
出張指導可能エリア
 愛媛・香川・徳島・高知
 広島・岡山・山口・島根
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出張指導費用 別途相談

指導
支部長 石川 武志

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公式サイト
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